世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

【史料】14世紀半ば、フィレンツェを襲ったペスト

 

◆ボッカチオ(ボッカッチョ)の『デカメロン』は、ペスト(黒死病)大流行の直後に書かれました。その冒頭部分には、1348年にフィレンツェを襲ったペストについての記述があります。感染症の恐ろしさを伝える、重要な史料です。以下に、その一部を紹介します。

 

 天の球体の運行のなせるわざか、あるいは私たちの罪業に怒りを覚えて神が死すべき人間たちに正義の裁きをくだされたためか、その数年前に東方の各地に発生して、かの地において無数の人びとの命を奪い、とどまるところを知らぬ勢いで、つぎつぎにそ行先を変え、やがては恐ろしいことに西洋へ向かって、それは広がってきた。これに対して人間の側にはろくな才知もなく、何の予防も甲斐がなく、もとより都市は特別の係官を任命して、彼らの手ですべての汚物を浄めたり、城壁の内部へ一切の患者の立ち入りを禁止したり、衛星を保つためのありとあらゆる措置を講じたり、加えてまた敬虔な願も一再ならずかけられ、行列も整然と組まれて信心深い人びとの群れがひたすら神への祈りを捧げたが、それにもかかわらず、(中略)目を覆うばかりの惨状を呈し出した。(中略)

 病気の初期の段階で、まず男女ともに鼠径部と腋の下に一種の腫瘍を生じ、これが林檎大に腫れあがるものもあれば鶏卵大のものもあって、患者によって症状に多少の差こそあれ、一般にはこれがペストの瘤と呼び習わされた。(その後は)黒や鉛色の斑点を生じ、腕や腿や身体の他の部分にも、それらがさまざまに現れて、患者によっては大きくて数の少ない場合もあれば、小さくて数の多い場合もあった。こうしてまず最初にペストの瘤を生じ、未来の死が確実になった徴候として、やがて斑点が現れれば、それはもう死そのものを意味した。

 こういう病気の勢いを前にしては、医術も薬術もおよそ何の価値をも持たず、何の効果をも発揮できないように思えた、それどころか、病気の本性には一向に堪えないのか、それとも医者どもの無知が病の拠って来るところを突き止められないためか、結局、適切な措置がとれずに、治癒した人間はごく稀であり、それどころかほとんど全員が、遅い早いの差はあれ、先に述べた徴候を見せてから三日以内にろくに熱も出さずに、またそれ以上に症状が進んだとも見えないのに、つぎつぎに死んでいった。(中略)

 零細な人々や、またおそらく大多数の中流の人びとには、より悲惨な状況が待ち受けていた。なぜなら彼らの多くは、あるいは虚しい期待を抱きながら、あるいは貧困ゆえにそれぞれの家のなかに引きこもり、隣りあって生活していたため、日に何千と病んでゆき、何の世話も援助も受けられずに、逃げ場さえほとんど失って、等しくみな死んでいったからだ。そして昼夜を分かたずに街頭で息絶える者の数は知れず、また家のなかで息を引き取る者の数はさらに多かったが、彼らは腐敗した身体の臭いによってやっとおのれの死んだことを隣人に知らせるのだった。

 

【ボッカッチョ『デカメロン』(河島英昭訳、講談社版世界文学全集4、1989)より、原著は1351年頃完成】

 

さらに悲惨な様子も描かれていますが、以上で十分かと思われます。

フィレンツェの社会は大変なダメージを受けました。フィレンツェの「人口は9~10万から4~5万に激減した。」【池上俊一フィレンツェ』(岩波新書、2018)】

このペストはヨーロッパ全域に広がりました。当時のヨーロッパの3分の1の人びとが亡くなったと言われています。