世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★初期ルネサンスの輝きと混沌【ペトラルカの多面性】

 

◆初期イタリア・ルネサンスの3人の文学者ダンテ、ボッカチオ、ペトラルカを並べた時、高校生や予備校生が一番覚えづらいのはペトラルカのようです。教える側に、ペトラルカについて説明する余裕がないからだと思います。

 

◆また、本来は、ダンテとジョット(画家ジョットはもう少し重視すべきです)、ボッカチオとペトラルカという提示の仕方のほうがいいと思います。時代が少し違うからです。

 

 ●ダンテとジョットは13世紀半ば過ぎの生まれで、14世紀初めまで活躍しました。

    ダンテ    1265~1321

    ジョット   1266~1337

 

 ●ボッカチオとペトラルカは、ダンテとジョットの次の世代です。ダンテが『神曲』を書き始めた頃、ペトラルカが生まれています。ボッカチオはペトラルカの10年ぐらい後に生まれました。2人が生きたのは、まさにペストの時代でした(『デカメロン』の冒頭部分の記述が有名ですが、ボッカチオだけをペストと結びつけるのは、適切ではありません)。二人はダンテについて語り合うなど、交流もありました。

    ペトラルカ  1304~1374

    ボッカチオ  1313~1375

   [ペスト流行のピーク 1348年]

 

◆高校世界史では詳しくは触れられないペトラルカですが、その詩は近世のフランス詩やイギリス詩に大きな影響を与えました。ペトラルカの人生と詩想(思想)をたどりながら、初期ルネサンスの輝きと混沌を考えてみます。

 

 

★ペトラルカは、トスカナ地方のアレッツォという町で生まれました。父親が政争に敗れてフィレンツェから脱出したためです。父親は商人でしたが、ダンテと同じく、ゲルフ(教皇党)の中の白派に属していたのでした(対抗していた黒派はボニファティウス8世派でした)。ペトラルカは、父親を通じてダンテとつながっていたことになります。

 

★さらに興味深いのは、一家がピサに移り(ここで7歳のペトラルカはダンテに出会ったと言われています)、さらに南フランスのプロヴァンス地方に移住したことです。

 ダンテやペトラルカ、ボッカチオを考える時、1309年、フランス王フィリップ4世によって教皇庁が南フランスのアヴィニョンに移されていたことは重要です。ペトラルカの父親は、アヴィニョン教皇庁で職を得るため、一家で移住したのでした。息子たちにも教皇庁に出仕させたかったようです。

 なお、南フランスは、中世後期トゥルバドゥール(吟遊詩人)たちが活躍したところでもありました。

 

★ペトラルカは成長して、南フランスのモンペリエ大学で、やがてイタリアのボローニャ大学で法学を学びましたが、文学への思いの方が強かったようです。ボローニャ大学時代(16歳~22歳)に、トゥルバドゥールの流れを汲み、ダンテで頂点に達した清新体派の影響を強く受けたと思われます。やがて、この影響は、『カンツォニーレ(叙情詩集)』に結実します。

 

★22歳の時、父親が亡くなり、アヴィニョンに戻りました。そして、翌年(1327年)、決定的な出会いがありました。アヴィニョンの聖クララ(キアーラ)教会で、ラウラという女性に出会ったのでした。ラウラについて詳しいことはわかっていませんが、ラウラは、ダンテにとってのベアトリーチェと同じく、ペトラルカにとっての「永遠の女性」となりました。

 

★「永遠の女性」ラウラは、ペトラルカのトスカナ語の詩集『カンツォニーレ』に歌われました。

 

  貴婦人たちのあいだにあって折にふれ

  美しき顔容(かんばせ)の彼女のもとに愛神の宿れば、

  美しき彼女に優る人はひとりとてなく

  いや増して、わが愛の思いはつのりゆく。

   【河島英昭 訳】

 

★1348年(ペストが猛威をふるった年です)、ペトラルカはイタリアのパルマで、ラウラの訃報に接しました。ラウラは、ペストで亡くなりました。ペトラルカもボッカチオも、その後も間欠的にヨーロッパを襲ったペストで亡くなったと考えられています。

 

★ペトラルカがラウラと出会ったという、アヴィニョンの聖クララ(キアーラ)教会ですが、聖クララはアッシジの聖フランチェスコのもとで清貧と苦行に耐えた修道女でした。ラウラ~聖クララ~聖フランチェスコというつながりの中に、ペトラルカの信仰心を見ることができます(それは敬愛するアウグスティヌスにまでつながっていました)。ペトラルカは、教皇庁と関わりながらもアヴィニョンの堕落を嘆いていましたが、アヴィニョンには聖フランチェスコの精神も伝わっていたのでした。

 

アヴィニョン教皇庁は、カトリックの正統な歴史からすると、あってはならなかった逸脱ですが、イタリアとフランス~フランドル地方を結んだ国際性は、近年再評価されています。アヴィニョンには、イタリアのシエナから画家シモーネ・マルティーニ(ウフィーツィ美術館所蔵の「受胎告知」がよく知られています)が招かれました。アヴィニョンで、ペトラルカとシモーネ・マルティーニは互いに尊敬しあい、ペトラルカはシモーネに、ラウラの肖像画ウェルギリウスの写本の扉絵を依頼しています。

 

★ペトラルカは、フランドル地方リエージュ修道院キケロの写本を発見するなど、教養の土台には古代ローマのラテン文学がありました。ラテン語世界の異教的価値観とキリスト教の禁欲的な価値観のぶつかり合いが、ペトラルカの中にはありました。(それはやがて、晩年のボッティチェリを苦しめることにもなりました。)二つの価値観の相克を考えながら『カンツォニーレ』の詩編を読むと、複雑な気持ちになります。

 

★なおペトラルカは、アヴィニョンやイタリア各都市だけでなく、西ヨーロッパ各地を転々としています。居住した各地で、ペトラルカは庭を作ったと言われていますが、このことについては、「植物から見る歴史・その2」で触れたいと思います。

 

【参考文献】

・『ボッカッチョ、ペトラルカ、ミケランジェロ』(河島英昭訳、世界文学全集4、講談社、1989)

樺山紘一ルネサンスと地中海』(世界の歴史16、中央公論社、1996)

・水野千依『「アヴィニョン捕囚」とアヴィニョン派』(西洋美術の歴史4[中央公論新社、2016]所収)

 

最近、『ペトラルカ恋愛詩選』が出版されました(水声社)。まだ手に取ってはいませんが、シェイクスピア学者岩崎宗治の新訳です。解説も充実しているようです。