世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★気になるモンテスキュー(授業で多角的に考えるために④)

 

みすず書房から近刊のロザンヴァロン『良き統治』 の一節が目に留まりました。

 

 「市民にとって民主主義の機能不全とは、自分の要望に耳を傾けてもらえないこと、諮問なしに政治的決定がなされること、大臣が統治責任を引き受けようとしないこと、指導者が嘘をついても罰せられないこと、政界が外の世界に十分な説明を果たさないこと、行政の仕組みが不透明なままであること」[*1]

 

◆フランスのロザンヴァロンという学者は初めて知りましたが、行政権の肥大化と代議制民主主義の機能不全という現在の状況を、あらためて考えさせられました。[*1]には宇野重規氏の紹介文も載っています。

 

◆そして思い出したのは、モンテスキューのことでした。ずっと、モンテスキューのことが気になっています。しかし、世界史の教科書では、ごく軽い扱いです。

 

  ・「『法の精神』でイギリスの憲政をたたえたモンテスキュー」」【山川「詳説世界史B」】

  ・「モンテスキューは『法の精神』を著して、王権に対して貴族の利益を守るために三権分立を主張し」【東書「世界史B」】

 

◆「歴史教科書の山川」と言われていますが、山川の記述には三権分立という語さえありません。東書の「貴族の利益を守るために」という記述は、不正確とまでは言えないものの、モンテスキューの思想を矮小化してしまっていると思います。どちらにしても、これでは、モンテスキューを現在との関わりで取り上げることはできないでしょう。

 

◆高校生や予備校生を教えてきて驚くのは、三権分立の「権」が権力であることをわからない生徒が半分以上いることです。権利であると誤解しているのですが、深刻な問題だと思います。このようなことから、世界史の授業でモンテスキュー三権分立論をきちんと教えなければならないと思うようになりました。

 

◆そこで、肝心の部分を、生徒たちに紹介することにしています。(私自身、大部の『法の精神』を読むことは、なかなかできませんが。)

 

 「もしも、同一の人間、または、貴族もしくは人民の有力者の同一の団体が、これら三つの権力、すなわち、法律を作る権力、公的な決定を執行する権力、犯罪や私人間の紛争を裁判する権力を行使するならば、すべては失われるであろう。」【『法の精神』[*2]】

 

◆君主の権力も、貴族の権力も、人民の権力も制限されなければならない、とモンテスキューは考えていました。したがって、この視点は、フランス革命ロベスピエールを考える際にも、十月革命後のソヴィエト政権を考える際にも、大切だと思っています。

 

モンテスキューを「世界史の陳列棚」にただ飾っておくような授業はしたくありません。少なくとも、次のような位置づけとパースペクティブを持って授業をしたいと考えています。

 

 「両者(ロックとモンテスキュー)はいずれも、自由とは、権力による強制から免れていることだと考え、そのような自由を確保するために、政治権力が及ぶ範囲を適正な規模に限定することを求めるという、根本的な政治観において共通している。こういった政治観こそが、近代の自由主義を特徴づけるものである。実際、ロックとモンテスキューの権力批判の論理は、独立後のアメリカの憲法制定過程をリードすることになる『ザ・フェデラリスト』に多大なる影響を与えるなど、いわば相補う形で、近代のリベラル国家を基礎づけていくことになる。」[*3]

 

モンテスキューの思想は重要です。最新の研究成果に基づき、モンテスキューについて(新書版などの形で)、どなたか書いてくださるとありがたいのですが。

 

【参考文献】

[*1]「みすず書房の本棚」No.34、2020春

[*2]杉田敦・川崎修編著『西洋政治思想資料集』(法政大学出版局、2014)

[*3]川出良枝・山岡龍一『西洋政治思想史』第9章(岩波書店、2012)