世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★仏教のふしぎ・その1<初期仏教>

 ※最終更新 2020/11/30 (21:00)

 

☆「仏教って不思議だな」と思うことが時々あります。その不思議さをベースに、仏教について書いてみます。

 

☆ただ、読んだ文献も限られていますので、私の関心がある内容をメモしたという程度のものです。メモの観点は、おもに次の三つです。

 ① 素人の素朴な疑問から考える。

 ② 歴史の中で考える。

 ③ 他の宗教や思想と比較してみる。

 

<初期というのはいつ頃?>

 

◆以前は「原始仏教」という言い方がありましたが、現在は初期仏教で統一されているようです。

 

◆馬場紀寿に従い[*1]、<ブッダが活動した前500年頃から紀元前後の大乗仏教成立前まで>を初期仏教と考えます。ただ、<前3世紀の「教団分離(上座部と大衆部)~約20の部派成立」の前まで>を初期仏教とする考え方もあります。

 

<1>「ブッダは創造神や宇宙の原理を考えなかった」というふしぎ

 

ユダヤ教キリスト教イスラームなどの一神教とは、根本的に違います。多神教というわけでもありません。「万物の根源」という発想もなかったようですので、中国の老子ギリシアの自然哲学者とも違います。

 

◆同時代の中国(春秋時代末期)に生きた孔子の思想(「怪力乱神を語らず」)とは、似ている面はあります。

 

ブッダが「世界の始まりは?」という問いを持たなかったのはなぜなのか、わかりません。ただ、「そもそもの仏教には形而上学的な発想がなかった」ということは、とても重要だと思います。「極楽浄土」という世界も、ブッダが考えたことではありません。

 

<2>「ただひたすら現実を見つめた」というふしぎ

 

プラトンのようにイデアとの対比で現実を見ることはありません。ブッダは徹底して現実そのものを見つめ、私たちの現実を「無常」とか「縁起」という語で、言い表しました。先に述べたように、「神がそのように世界を造られた」というのではありません。ブッダは、「なぜ世界がこのようになったか」は問わずに、「この現実を深く理解しなさい、そのことが苦悩から解き放たれる道なのです」と語ったようです。

 

◆三枝充眞は、仏教の特徴をいくつか挙げる中で、「主体をふくむいっさいを、たえず生滅変化する無常というダイナミズムに漂わせる」[*2]と表現していました。三枝が「ダイナミズム」という語を使っているのはすごいと思います。日本的な「無常というむなしさ」ではないのです。

 

◆現代的な言い方をすれば、「生・老・病・死」という苦しみは「不条理」であり、「それは生の不確実性、無根拠性を露呈するものに他ならない」[*1]ということになります。よくはわかりませんが、ブッダは、無理に生の「根拠」や「意味」を見つけようとするのではなく、「生の不確実性、無根拠性」を穏やかに引き受けることを求めていたのかも知れません。しかし、私たちの心はさまざまのことで絶えず揺れ動きますので(それが「縁起」であり「無常」であり「無我」です)、修行者には「八つの正しい道」の実践という厳しい課題が課せられたのだと思います。

 

<3>「ブッダの教えは口頭で伝承された」というふしぎ

 

ブッダの死後、弟子たちによって教えの内容が確認されました。その教え(ブッダのことば=経[きょう])は400年にわたり、口頭で伝承されたというのですから、驚きです。経典として文字に書かれ、まとめられ始めたのは、前1世紀頃のことらしいです。

 

◆少なくとも400年間、仏教は「声の文化」だったことになります。テクストは、僧侶たちの声で伝承されたのでした。「テクスト=文字」と考える私たちの文化、おもに文章を読んで思考する(ことが良いとされてきた)私たちの文化とは大きく違います。

 

◆多分、経(ブッダのことば)を唱えることで、ブッダその人が僧侶たちに現前していたのでしょう。経が400年間口誦で伝えられたということは(現在でも読経にその名残が見られます)、人間にとっての「声の文化」の重要性を再認識させるものでもあると思います。(「隠れキリシタン」に伝承されてきたオラショを思い出しました。)

 

<4>「部派仏教」のふしぎ

 

◆前3世紀のマウリヤ朝アショーカ王の頃に、僧侶集団は約20のグループ(部派)に分かれました。仏教史の本には「分裂」と書いてあるため誤解しやすいのですが、部派は宗派的なものではなく、学派的なものだったようです。したがって、一つの地域的教団の中に、複数の部派の僧侶がいるというかたちでした。

 

キリスト教の歴史とは異なります。論争はありましたが、僧たちは「教えの唯一性」に拘泥することはなかったのです。したがって、ある部派を異端として排斥するというようなことはありませんでした。ブッダの教えの解釈の多様性が承認されていたということは、とても重要だと思います。佐々木閑は次のように述べています。

 

 『本来一つであったお釈迦様の教えがいくつもに分かれていったことを「よくないこと」と感じる方もいらっしゃるでしょう。しかし、様々な選択肢を含んだバラエティ豊かな宗教になったことで、仏教がより多くの人を救えるようになったと考えれば、逆にプラスととらえることもできるのです。』[*3]

 

 約20の学派に分かれ、「様々な選択肢を含んだバラエティ豊かな宗教になったこと」が、後の大乗仏教を準備したとも言えます。

 

◆各部派の中で口伝の経が整理されていったようです。経は3群にまとめられ、「三蔵(経蔵、律蔵、論蔵)」と言われるようになります。仏教を歴史的に考えた場合、「部派というフィルターの通らない経蔵と律蔵は存在せず、したがって部派分裂前に成立した経や律には触れることができない」[*4]という点は重要です。

 

◆今日の仏教学者たちは、部派仏教の諸経典を(もちろん大乗経典も)、歴史を超越した「聖なる書」のようには扱っていません。諸経典の比較研究の中から、部派仏教以前の仏教のすがたに迫ろうとしています。

 

[*1]馬場紀寿『初期仏教』(岩波新書、2018)

[*2]三枝充眞『仏教入門』(岩波新書、1990)

[*3]佐々木閑『集中講義 大乗仏教』(NHK出版、2017)

[*4]平岡聡『大乗経典の誕生』(筑摩選書、2015)

 

 

 

★18世紀フランスの宗教と社会(ナントの王令廃止後、ユグノーは)

 

 ◆ルイ14世のフォンテーヌブロー王令(1685)により、ナントの王令(1598)は撤回されました。この措置は、アンリ4世の暗殺(1610)後のカトリックユグノーの対立に終止符を打ち、ユグノーをフランス国内から一掃しようとするものでした。

 

◆高校の世界史教科書では、次のように記述されています。

 「ナントの王令の廃止(1685年)によって、ユグノーの商工業者が大量に亡命したことで国内産業の発展も阻害された。」【山川「詳説世界史」】

 

◆この時、オランダ、イギリス、スイス、ブランデンブルクプロイセン、新大陸などに亡命したユグノーは、約20万人と言われています。

 

◆私も、授業では、これ以上のことには触れないできたのですが(高校では触れる必要はないと思いますが)、重要なことを見落としてきたと感じています。

 

◆次のような事実を踏まえると、歴史はより興味深いものになるのではないでしょうか。

 ① フランス国内には60万人以上のユグノーが残った。

 ② 18世紀半ば以降、キリスト教信仰は世俗化した。

 

<国内に残ったユグノーは>

 

◇ナントの王令廃止後、国内に残ったユグノーは改宗を強制されました(「新カトリック」と呼ばれました)。しかし、日本の「隠れキリシタン」と同じで、信仰を持ち続けた人びとも多かったのです。都市部では摘発が厳しかったものの(処刑された人、投獄された人も少なくありません)、家庭内の奥まった部屋で少人数の礼拝が続いていきました。

 

◇一方、特に南フランスの農村部では摘発が行き届かなかったため、人里離れた場所で大規模な集会が持たれ、「荒野の集会」と呼ばれました。また、フランス南部のセヴェンヌ地方では、1702年ユグノーによる大規模な反乱が起きました(カミザール戦争)。最終的には鎮圧されましたが、渓谷が点在する山岳地帯で、2年にわたって農民軍がルイ14世の正規軍と対峙したのでした。

 

キリスト教信仰の世俗化>

 

◇18世紀フランスは啓蒙(「理性の光」)の時代でした。モンテスキューヴォルテール、ルソー、ディドロなどの啓蒙思想家が有名ですが、それらのフィロゾーフを生み出す社会的な土壌がありました。サロンやカフェの賑わいだけではありません。出版物の発行が増加し、識字率も徐々に向上していました。農村にも廉価本が出回っていました。

 

◇このような中で、以下のことが起きていました。

  ●宗教書の出版の比率の低下

  ●死後にミサをあげるよう記した遺言書の減少

  ●カトリック教会が禁止していた避妊や婚外出産の増加

  【山﨑耕一「近世のフランス」】

 

カトリックの根強い信仰が続いていた地方もありましたが(フランス革命中に反乱を起こしたヴァンデ地方などはその典型です)、都市部を中心とした、宗教への関心の低下は、カトリック教会とユグノーとの関係にも影響を与えました。

  『(各教区の)司祭たちの多くは、与えられる命令を遵守して「新カトリック」を相手に際限のない紛争を繰り返すよりも、むしろ、彼らと可能な限り妥協して、平和的な共存をはかりたい気持ちになっていたのである。』【木崎喜代治「フランス18世紀のプロテスタント」】

 

◇1761年、ユグノーのジャン・カラスの冤罪事件が起き、ヴォルテールがその無実を訴える活動を精力的に行いました。その中で書かれたのが『寛容論』です。ただ、上記のような状況がありましたので、この事件は例外的に狂信的な事件だったとも言われています。

 

開明的な官僚や司祭たちの活動により、フランス革命勃発の直前(1787)、ルイ16世の「寛容王令」が出されました。まだ信教の自由が認められたわけではありませんでしたが、ユグノーユダヤ教徒の法的地位が保証されたのです。

 

フランス革命期の激しい「非キリスト教化」運動の背景には、以上のような宗教的・社会的状況があったのだと思います。

 

◆メモ程度のものですが、18世紀フランスの信仰を、迫害されたユグノーを中心に見てみました。「ヨーロッパはキリスト教」とは言っても、その歴史にはさまざまの深い襞があることを、強く感じています。

 

【参考文献】

●木崎喜代治「フランス18世紀のプロテスタント」(京都大学「経済論叢」、第150巻2・3号、1992)[ repository.kulib.kyoto.u.ac.jp ]

●長谷川輝夫「フランス・啓蒙の時代」(世界の歴史17『ヨーロッパ近世の開花』、中央公論社、1997、所収)

●山﨑耕一「近世のフランス」(佐藤彰一ほか編『フランス史研究入門』、山川出版社、2011、所収)

●坂野正則「近世王国の社会と宗教」(平野千果子編『新しく学ぶフランス史』、ミネルヴァ書房、2019、所収)

 

 

★あるアラム語が2年前の新訳で『新約聖書』から消されたという問題

 

  ◆「31年ぶり、0から翻訳」と銘打たれた『聖書』(聖書協会共同訳)が出版されたのは2年前(2018年11月)でした。その翻訳の一部については、拙文(「世界史の扉をあけると」)ですでに述べていますが、今回は、旧訳(新共同訳)にあったアラム語が新訳では削除されてしまったことを取り上げます。

 

◆問題の部分は、『新約聖書』の「コリントの信徒への手紙一」(パウロギリシアコリントスの教会宛に書いた手紙)の末尾です。旧訳と新訳を比較してみます。

 

 <旧訳>

  「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。」

 

 <新訳>

  「主を愛さない者は、呪われよ。主よ、来りませ。主イエスの恵みが、あなたがたと共にありますように。」

 

◆「マラナ・タ」がアラム語です(『新約聖書』全体はギリシア語です)。「マラナタ」と表記する場合もあるそうです。訳は数種類あるようですが、「主よ、来り給え(おいでください)」という意味です。

 

◆この部分が非常に重要だと思うのは、「マラナ・タ」が当時の礼拝の最後に唱えられる言葉だったからです。現在の「アーメン」(もとはヘブライ語です)と同じように唱えられていたのでしょう。田川建三は次のように述べています。

 

 「礼拝のおそらくは最後のところで皆で声をそろえて唱えた重要なせりふであったと思われる。それがアラム語で唱えられたということは、パレスチナの教会は礼拝をアラム語でいとなんでいた、ということだろう。(中略)しかもパウロはこの語をギリシャ語で説明したりしていない。ということはつまり、ギリシャ語のキリスト教会においても礼拝に用いる重要な用語はアラム語のまま伝えられ、用いられていた、ということになる。」(『書物としての新約聖書』)

 

パウロの「コリントの信徒への手紙一」は、50年代半ばに書かれました。イエスの死(紀元後30年)から20数年後のことです。最初期のキリスト教会が、パレスチナアラム語世界(イエスも弟子たちもアラム語世界に生きていました)から、ギリシア語世界へと発展していた時期でした。ギリシア語の「マルコによる福音書」(『新約聖書』の配列とは違い、四福音書の中で最も古いものです)は、60年代~70年代に書かれたと言われていますが、キリスト教ギリシア語世界でほぼ確立したことを示すものでしょう。過渡期にあった50年代まで、アラム語の「マラナ・タ」が礼拝で使われていても、何ら不思議ではありません。

 

◆「マラナ・タ」は、最初期のキリスト教パレスチナアラム語世界で成立したことを示す語だったのです。どのような意図があって削除したのかわかりませんが、初期キリスト教の歴史の重要な部分を覆い隠すことになってしまいました。残念でなりません。(マルコが書いた、イエスの最後の叫び「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」やゲツセマネの祈りの「アバ」もアラム語ですが、さすがにこれらは削除していません。)

 

◆なおパウロは、「神から見捨てられるがいい」、「呪われよ」という激しい言葉を使っていました。ユダヤ教徒キリスト教内部の諸派との論争があったからでしょうが、強い違和感を覚えます。「ヨハネによる福音書」(90年代に書かれました)にも、「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」とか「悪魔である父から出た者である」というような、容赦ない言葉が見られます(8章)。自分たちとは違う考え方に対する不寛容が、すでに『新約聖書』に表れていたと言えるでしょう。

 

◆『新約聖書』が歴史上の諸文書を編集したものである以上(『旧約聖書』も同じです)、このようなことは避けられません。魔女狩りガリレイ裁判やユダヤ人迫害が誤りだったように、初期キリスト教徒たちにも行き過ぎや誤りはあったのです。『聖書』は、歴史を超えた、絶対的な「聖なる書物」ではありません。しかも、「マラナ・タ」の例でわかるように、ほとんどの日本人が接するのは、翻訳というフィルターを経た『聖書』です。

 

◆私は、特に「マルコによる福音書」のイエスに敬意を抱いてきましたが、キリスト教の不寛容の歴史もいやというほど知ってきました。ファンダメンタリズムから自由なクリスチャンが数少ないことも……。『聖書』が歴史上の重要文書の翻訳であることを踏まえた、他の宗教にも寛容なキリスト教信仰であってほしいと願っています。

 

【参考文献】

田川建三『書物としての新約聖書』(勁草書房、1997)

・上村静『旧約聖書新約聖書」(新教出版社、2011)

・荒井献『イエスとその時代』(岩波新書、1974)

 

☆ユーラシアの歴史の中の<阿修羅>☆

 

興福寺の阿修羅像は、多くの人びとを惹きつけてきました。8世紀(奈良時代)の彫刻ですが、まるで生きているようにさえ見えます。阿修羅像の何が私たちを惹きつけるのでしょうか? 阿修羅像は何を祈っているのでしょうか?

 

◆仏教の守護神としての<阿修羅>には、不思議な歴史がありました。

 

◆<阿修羅>は、古代インドのバラモン教(紀元前1000年頃までには成立したようです)では、最高神インドラと対立した、闘争を好む鬼神とされました。そのような神話から、わが国でも、悲惨な争いが繰り広げられる場を「修羅場」と呼んできたわけです。

 

◆その<阿修羅>は、しかし、インドで6~7世紀に成立した密教の中では、悔い改めて仏法を守る存在になりました。そして、中国、日本へと伝わってきたのです。

 

◆もともと<阿修羅>はサンスクリット語 asura の音訳(漢訳)ですが、古代イラン語の ahura と同じ語と考えられています。アスラ(=アフラ)は、「光り輝く聖なる力」を意味していました。ちなみに、古代イランで成立したゾロアスター教の光明神・善の神の名は、アフラ・マズダでした。宗教学者エリアーデは、「インドラがアスラ(アフラ)を屈服させ、その聖なる力を自分のものにした」と、バラモン教ヴェーダを解釈しています。

 

◆歴史を、さらにさかのぼってみます。イランに移動したアーリヤ人も、インドに入ったアーリヤ人も、ユーラシア中央部の草原地帯から移動してきたのでした。紀元前2000年紀のことです。西方へ移動した、のちのヨーロッパ人も、同じくユーラシア中央部にいた人々でした。そこから、「インド=ヨーロッパ語族」と総称されています。

 

◆多分、太陽信仰を母体としながら、ユーラシア中央部の草原地帯で、「光り輝く聖なる力」という観念が生まれたのだと思います(オリエントでも同様の考え方が生まれていました)。イランでは「光り輝く聖なる力」がアフラ・マズダとなり、インドではその力はインドラ(ギリシア神話のゼウスに同定されています)に吸収されたと考えられます。そして「光り輝く聖なる力」は、やがて、仏教の図像の光背やキリスト教の図像の後光に表されるようになりました。のちのヨーロッパでは、理性もまた光に譬えられたのでした。

 

◆古くは「光り輝く聖なる力」を表していた<アシュラ>。興福寺の阿修羅像も、その力を引き継いでいるのでしょう。阿修羅像は合掌しているように見えますが、実はわずかな隙間があります。阿修羅像の両手に包まれるようにして、「光り輝く聖なる力」は、今も生まれ続けているのかも知れません。

 

◆ユーラシアの歴史を身に帯びながら、阿修羅像は、仏法を守る(=世界を守る)ために、祈っています。

 

【参考文献】

エリアーデ世界宗教史Ⅰ』(荒木美智雄・中村恭子・松村一男訳、筑摩書房、1991)

鶴岡真弓『阿修羅のジュエリー』(理論社、2009)

中村元ほか編『岩波 仏教辞典』(岩波書店、1991) 

 

 

▼新型コロナ感染、欧米危機、日本も(11/12)

 

★ヨーロッパやアメリカは感染爆発と言ってもいいような、危機的状況です。

 

アメリカでは、きのう(11/11)、1日の新規感染者がなんと14万人でした(累計では1040万人を超え、死者は24万人を超えています)。もしかしたら、大統領選投票日(11/3)前のトランプの、感染対策を行わない大規模集会も影響しているかも知れません。トランプはまだ大統領なのですから、早急に対策を打つべきです。証拠もなく不正を云々している場合ではないのです。しかし、自分のことしか頭にないのでしょう。アメリカ国民が気の毒でなりません。

 

◆日本も、1日の新規感染者数が激増しています。

   11/11(水)    1,543人

   11/12(水)    1,649人 [21:30現在]

 ※半月前と比較すると、増加ぶりがはっきりわかります。

      10/29(木)      809人

   10/30(金)      778人

 ※来週には、重症者の数も増えていくのではないでしょうか。

 

◆政府の動きは、相変わらず鈍いままです。メリハリのある対策を果断に行ってほしいものです。Go To キャンペーンは、中断すべきでしょう。今は、経済活動を一時低下させても、国民の健康と命、医療体制を守るべき時です。そうでないと、大変な状況で師走を迎えることになってしまいます。

 

☆世界中の人たちが、明るい気持ちでクリスマスと新年を迎えられるようになることを、祈るばかりです。

★米大統領選の最終結果を気にしながら、投票のしくみをあれこれ考えました

 

◆日常的に非難や中傷が溢れるネット社会。そういうネット社会を最大限に利用した政治を、トランプは4年間行ってきたのだと思います。その延長上に、今回の大統領選挙もありました。

 

◆そう考えると、トランプが獲得した7100万票を、単純に「すごい」とは言えないような気がします。トランプの扇動にもかかわらず、「バイデンの積極的な支持者たち」+「トランプでは困ると考えた人たち」がトランプ支持を上回ったということのほうが重要だと思います。

 

◆ただ、トランプの熱狂的支持者のエネルギーは、今後どこに向かうのでしょう? 敗北を認めたとしても(今日現在敗北を認めていませんが)、トランプは、今後もネット社会を利用して、<バイデン/ハリス>の政治を攪乱し続けようとしているのかも知れません。右派メディアを新たに立ち上げるという噂もあるそうです。武装グループの動きも懸念されます。アメリカにはリンカンやケネディの暗殺という歴史もあることが、頭をかすめます。

 

☆今回の大統領選挙からも、ネット社会では「AかBか」という議論が過熱しやすく、デマが人びとの感情を揺さぶり、世論が分断されやすいことがわかります。日本では、今後、憲法改正をめぐる国民投票が行われる可能性もあります。その場合、はたして、理性的で冷静な判断ができる状況をつくれるでしょうか? イギリスのEU離脱国民投票のことも思い出されます。住民投票国民投票は、住民・国民の政治への直接参加という点で重要な制度ですが、ネット上の議論の一定の規制も含めて、理性的で冷静な判断ができる環境づくりがきわめて重要だと思います。

 

☆二大政党制に基づく大統領選挙(しかも各州の選挙人総どり制)というしくみについても、考えさせられました。複数の政党から複数の候補者が立候補できる、フランスのようなしくみのほうがベターなように思いました。二大政党制に基づく大統領選挙では、民意をすくい取れない時代なのではないでしょうか? もちろん決選投票が行われれば、最後は「AかBか」になりますが。

 

アメリカの上下両院の選挙も気になってきました。よく考えられた選挙制度だと思いますが、やはり二大政党制が土台となっているのでしょう。上院は、1月のジョージア州の決選投票を待たないと、最終結果が出ないようです。ただ、注目すべきことがありました。共和党の下院当選者にも、女性やマイノリティが増えたことです。民主党共和党の橋渡しの役割を果たしてくれればいいのですが。

 

◆議会議員の選挙制度については、日本でも(衆議院参議院とも選挙区制と比例代表制を組み合わせています)、検討する余地があると思います。国民の政治的意見も、政治的争点も多様化していますが、それらを十分に反映できるしくみにはなっていないような気がしています。

 

◆改善案はあまり出ていませんが、「1人1票制」を止めて「ポイント制」にするという案には注目してきました。「有権者1人が複数ポイントを持って投票する」という制度です。この制度では、次のようなことが可能になります。

 

 <有権者1人が3ポイント持っていて、選挙区に立候補者が3人いる場合>

 ・与党の候補者Aに2ポイント投票し、野党候補者Bにも1ポイント投票する。

 

◆「支持政党の候補者だからAに1ポイントは入れるけど、Cの農業政策に賛成だから2ポイント入れてみよう」などということもできます。また、「どの候補者がいいか判断できない」という場合は、候補者A~Cに1ポイントずつ投票するというようなことも可能になります。もちろん、候補者Aに3ポイントという場合もあるでしょう。

 

◆このような制度では、多様な民意をすくい上げることができると思いますし、ネット社会特有の二極化も避けられるでしょう。小選挙区制の弊害と言われる「死票の多さ」は緩和されます。より政策が重視されるようになりますから、候補者名を連呼するような選挙運動も改善されるでしょう。有権者の関心は高まり、投票率も上がると思います。

 

◆「有権者1人複数ポイント制」は、「二大政党制が理想」という考え方とはまったく違います。過半数議席を獲得する政党がないという場合も多くなるかも知れません。連立内閣が続き、政治が不安定になるという可能性も否定できません。ただ、国会議員の、ほんとうの意味での討論の力や政策調整の力は、高まるのではないでしょうか。

 

★最悪なのは、「民主政治の形骸化」という事態です。アメリカと日本では歴史も政治制度も違いますが、民主政治のより良いしくみが強く求められているという点では、共通していると思います。

 

 

★<バイデン/ハリス>の勝利のスピーチを聞いて思いました

 

◆私たちは、いま、2020年アメリカ大統領選挙という歴史の1ページを見ています。

 

 ◆ようやく<バイデン/ハリス>のヴィクトリー・スピーチがなされました。バイデンがとても尊敬すべき人物であること、それがよくわかりました。

 

★スピーチの中で、バイデンは「分断ではなく結束を求める大統領になることを誓う」と述べていました。ほとんど同じ内容のスピーチを、リンカンが行っていたことを思い出しました。南北戦争が勃発する3年前(1858)のことです。

 

 ●『「分裂した家は、建ち続けることができません」。私は、この政府が、半分は奴隷州、半分は自由州という状態で永久に続くはずなどない、と考えます。連邦の解体は望みません。家の倒壊も望みません。私が望むのは、家の分裂状態を止めることです。』【*1】

 

【*1】上岡伸雄編著『名演説で学ぶアメリカの歴史』(研究社、2006)

 ※なお、「分裂した家は、建ち続けることができません」は、『マルコによる福音書』第3章からの引用です。

 

★トランプは「連邦最高裁まで争う」と言っていますが、通常のかたちで政権移譲するよう、共和党の良識ある人びとが彼を説得してほしいものです。たとえ連邦最高裁で争ったとしても、判事たちは(保守派優勢と言われているものの)、任命されたばかりのバレットを含めて、法に基づいた適切な判断をするだろうと思います。アメリカ合衆国憲法は、歴史上初めて三権分立を定めた憲法なのですから。合衆国憲法制定(1787)の約40年前に、フランスの思想家モンテスキューは、次のように述べていました。

 

 ●「もしも、同一の人間、または、貴族もしくは人民の権力者の同一の団体が、これら三つの権力、すなわち、法律を作る権力、公的な決定を執行する権力、犯罪や私人間の紛争を裁判する権力を行使するならば、すべては失われるであろう。」【*2】

 

【*2】モンテスキュー『法の精神』(押村高ほか訳、『西洋政治思想資料集』[法政大学出版局、2014]所収)

 

★史上初めて黒人女性副大統領となるハリスは、スピーチの中で、女性参政権運動と女性参政権の実現に触れていました。奇しくも今年は、合衆国の女性参政権憲法修正で実現してから、ちょうど100年にあたっています。

 

 ◆大統領選挙が最終的にどのようなかたちで決着するのかわかりません。万が一、連邦最高裁が選挙結果を覆すようなことがあれば、アメリカの民主主義は瀕死の状態に陥ってしまうでしょう。ハリスが言っていたように、民主主義とはつくり続けるものだということを強く感じています。