世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★シュルレアリスム100年【シュルレアリスムと女性】

 

◆今年はアンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言』発表(1924年)から100年という年だそうです。

 

◆ダリやマグリットの絵を少し見てきただけですのであまり大きなことは言えませんが、私はシュルレアリスム(超現実主義)を敬遠気味に過ごしてきました。男性中心主義やエリート主義の匂いを強く感じてきたからです。シュルレアリスムに限りませんが、思想・芸術全般にエリート男性の性的傲慢さ(自覚されない「男根主義」)がずっと続いてきたと思います[*1]。

 

◆本棚から古い雑誌を取り出して眺めていたら、日本でも、すでに1980年代にそのような見方が出されていたことを知りました。香川檀という方が女性シュルレアリストについて書いた文章です。正鵠を射た、次のような一節がありました。

 

 「彼女たちは重大かつ厄介な問題にぶつかった。性(セックス)である。周知のとおり、シュルレアリスムの性思想はフロイトの性愛理論、わけても男根主義エディプス・コンプレックス説に拠るところが大きい。そこにおける女性は、性において受動的な(あるいは性欲のない)存在として定義づけられていた。しかし女性たちは、シュルレアリスムの啓示に従って心の深層にひそむ性的なものを発掘すればするほど、そうした男性の身体経験にもとづき、男性の言語によって語られた性表現に違和感を覚えるようになった。」[*2]

 

シュルレアリスムがフランスで生まれたことも、関係しているのかも知れません。フランスは、フランス革命期にグージュを生んだ国であるにもかかわらず、ナポレオン法典(1804年)によって男性中心主義(家父長主義)が固定され、女性参政権の獲得も遅れた国(1944年)だったからです(日本は1945年)。「芸術の国フランス」・「芸術の都パリ」は事実だったとは思いますが(多くの日本人が単純に憧れました)、現在の視点からは、幻想の部分もあったと言えるのかも知れません。現在では、「家父長主義のフランス」や「植民地帝国フランス」、「レイシズム(人種差別主義)のフランス」といった視点も欠かせないでしょう(「フランス」を「日本」に置き換えて考えることも忘れてはなりませんが)。

 

◆男性シュルレアリストたちは、「無意識」を探究するシュルレアリストであったにもかかわらず、自分の「無意識」に本当には向き合っていなかったのでしょう。自分のセクシュアリティに向き合うことは難しいことだったと思いますが(それは現在も同じです)、20世紀前半において最も前衛的だった思潮も、「無意識」の古い軛から自由ではなかったのです。

 

[*1]典型的なのは、フランス文学者の澁澤龍彦です。広い意味のシュルレアリストだったと言っていいと思いますが、彼は最初の妻・矢川澄子に4度にわたって中絶手術を受けさせ、子どもを産めない体にしてしまったとのことです。(中絶は矢川自身の判断ではなかったようです。Wikipedhiaの「矢川澄子」の項参照。)

 

[*2]香川檀「魔女たちのイニシエーション」(「季刊みづゑ」1986秋号、美術出版社)。複数の女性シュルレアリストが作品と共に紹介されていました。なお、グザヴィエル・ゴーチエの『シュルレアリスムと女性』(平凡社ライブラリー)を読もうと思ったのですが、残念ながら品切れのようです。

★大正15(1926)年、家父長制への痛烈な一撃[小説『山梔』]

 

◆久しぶりに小説を読みました。新聞の新刊案内を見て、作者も作品も初めて知ったのに、なぜか、とても気になっていた、野溝七生子(のみぞなおこ)の『山梔(くちなし)』です。大正15(1926)年に刊行された小説で、以前は講談社文芸文庫から出ていたとのことですが、昨年末ちくま文庫で復刊されました。

 

◆436ページの長編ですが、一気に読ませます。近代日本の非人間的な家父長制への、また個性的な生き方を認めない世間への痛烈な一撃として書かれたのではないかと思います。後半の激情に次ぐ激情、涙に次ぐ涙には少々戸惑いましたが、日本の近代文学史を書き換えてほしいと思わせるくらいの作品でした。

 

古代ギリシアに強く憧れ、文学や神話や宗教を真正面から吸収して自由に生きようとする、主人公の阿字子(あじこ)。そのような少女は、当時も少なからずいたのではないでしょうか。しかしほとんどの女性は、作中の母や姉・緑のように、「家」や結婚という制度的現実に屈していかざるを得なかったのです。15年前の1911(明治44)年には、「青鞜」が発刊されていたものの。そして、欧米では女性参政権が実現していたものの……。

 

◆後半になるにしたがって悲痛さを増していくストーリーを追うことはしませんが、描かれているのは軍人の家庭です。父親のすさまじいヴァイオレンスや兄の暴言(妹の阿字子に「貴様」と怒鳴っていました)は、「軍国日本」の恐ろしさをも示していたように思います。

 

◆読み始めた時から「阿字子」という名まえには不思議な感じを持っていましたが、山尾悠子の解説で納得しました。「阿」は梵語の最初の文字でした(「阿吽」の「阿」です)。何度も聖母マリアや美の女神アフロディテに祈る阿字子ですが(この二者を本質的には同一とする阿字子の理解は新プラトン主義的です)、純真無垢な妹の名は「空(くう)」です。作者は、明らかに仏教の世界観をも表そうとしていました。

 

◆小説の最後の場面は、阿字子の自殺を暗示しているのでしょうか? 多分、違います。「阿」は始まりを表す文字です。最後の場面は、「家」を出て生きていくという、阿字子の人生の新たな始まりを告げているのだと思います。

 

 

▲千年前の日本・世界の食生活

 

★明けましておめでとうございます。

 

◆今年(2024年)のNHK大河ドラマにちなんで、紫式部や『源氏物語』に関する本の出版が、去年の後半から盛んになりました。

 

◆本ブログも、今年は、紫式部が『源氏物語』を書いた千年前(11世紀初め、日本は平安時代中期)についてのクイズでスタートします。

 

◆以下の各文章の正誤(か✖)を判断してください。(Q3・Q5・Q6では、王朝名や国名も確認できるようにしてあります。王朝名・国名に誤りはありません。)簡単なクイズですが、解説は多少詳しくしました。

 

<Q1>

 平安時代の人々は、一日2食だった。[〇それとも×?]

 

<Q2>

 平安時代の貴族社会では、午後集まってお茶を楽しむ習慣があった。

 [〇それとも×?]

 

<Q3>

 千年前の中国(北宋)では、江南を中心にトウモロコシの栽培が盛んになり、食用として普及した。[〇それとも×?]

 

<Q4>

 千年前のヨーロッパでは三圃農法が広まりつつあり、食用のための豚もたくさん飼育されていた。[〇それとも×?]

 

<Q5>

 千年前のイングランド(デーン朝、ノルマン・コンクエストの半世紀前)では、人びとは主食のパンを補うためにジャガイモを食べていた。

  [〇それとも×?]

 

<Q6>

 千年前のフランス(カペー朝)の貴族たちは、コーヒーを好んで飲んだ。

 [〇それとも×?]

 

【答えと解説】

<Q1>

  です。

  朝夕の2食だったそうです。

  ただ、朝といっても、朝食は11時頃だったということです。

  【田中貴子『いちにち、古典』(岩波新書、2023年1月)で知りました。3食になるのは、中世後期から近世にかけてのことだそうです。】

 

<Q2>

  ✖です。

  嗜好品としての茶が中国から日本に伝わったのは、鎌倉時代初期です。臨済宗を開いた栄西南宋から茶の木を持ち帰ったと伝えられています。

  ただ、薬用としての茶は、平安時代初期に最澄が唐からもたらし、平安貴族にも知られていました。

  紫式部清少納言は、普段はお茶を飲んではいなかったのですね。

 

<Q3><Q5>

  どちらも✖です。

  トウモロコシもジャガイモもアメリカ大陸原産で、15世紀末にコロンブスやスペイン人が行くまで、他の世界には知られていませんでした。トウモロコシが世界各地に広まったのは16世紀でした。

  ジャガイモがヨーロッパで食用になるのは、少し遅れて17世紀でした。寒冷化や三十年戦争によりジャガイモが食用として広まったと言われています。日本にも、17世紀(江戸時代初期)に伝わりました。

 

<Q4>

  です。

  11世紀初めの中世ヨーロッパは、農業生産も商業活動も発展期に入っていました。豚肉は人びとの重要なたんぱく源で、塩漬けにして保存していました。(ムスリムユダヤ教徒とはまったく違います。)

 

<Q6>

  ✖です。

  コーヒー豆はエチオピア原産で、15世紀頃からアラビア半島イスラーム世界に飲み物として広まりました(ちなみにモカはもともとアラビア半島南西部の地名です)。最初は、薬用やスーフィーという神秘主義者たちの修行用として飲まれました。やがて一般に飲まれるようになり、世界で最初のコーヒー店が16世紀半ばのイスタンブールオスマン帝国の都)にできました。その後地中海からイタリアに伝わり、ヨーロッパ各地に広まりました。

  ※コーヒーは、アメリカ大陸原産と勘違いしやすいので、要注意です。

 

◆以上、高校の授業でも使えるようなクイズでしたが、歴史への関心が少しは深まるのではないかと思います。このような簡単な問題からも、食生活の歴史の奥深さがわかります。

 

*【追記】(2024.1.2)

 きのう午後4時10分頃、能登半島でM7.6、震度7の大地震が起きました。新年を祝っていた人たちを襲った大惨事。余震も続いています。石川県・富山県福井県新潟県などの方々に、心よりお見舞い申し上げます。

 

*【追記】(2024.1.3)

 きのう午後4時47分頃、羽田空港の滑走路で日本航空機と海上保安庁の航空機が衝突しました。連日の惨事に呆然とするばかりです。

 大惨事で始まった令和6年。

 令和という元号に決まった時、当時の安倍首相は「美しい調和という意味だ」と言っていたのですが……。(裏金づくりも「美しい調和」の一つだったのですね。)

 

*【追記】(2024.1.22)

 大河ドラマ「光の君へ」を3回まで見ましたが、フィクションの部分が多過ぎます。多くの人が、紫式部藤原道長について、また2人の関係について、誤解してしまうでしょう。

 

 

★19世紀半ばの航路・鉄道③(1869年・米大陸横断鉄道への3つの視点)

 

◆最初のアメリカ大陸横断鉄道が、1869年に開通しました。この出来事を3つの視点から考えてみます。なお、「最初の」と述べたのは、1883年、合衆国の北部と南部に新たな大陸横断鉄道ができたからです。

 

◆また、1869年にはスエズ運河も開通しました。1869年は、まさに「グローバルな交通革命」の年でした。

 

<1 広大な国内市場の形成>

 

 「世界史探究」の教科書の中で最もていねいに説明しているのは、『新世界史』(山川出版社)です。

 

 「とくに重要なのは、東部および五大湖沿岸の工業製品と、西部・南部の食料・原材料・燃料が水路と鉄道、そして通信網で結ばれ、広大な国内市場が形成されたことである。西部と東部のあいだでは有線電信の開通に続き、1869年には最初の大陸横断鉄道が完成した。しかも、その国内市場は保護関税によって守られた。南北戦争後、鉄鋼、農業機械、繊維、精肉など従来からの業種も近代化を進めたが、石油精製・化学・電気・通信など新たな分野も一挙に発達した。」

 

 このような記述を読めば、1880年代にアメリカがイギリスを抜いて世界一の工業国になったことも、生徒たちはよく理解できると思います。

 

<2 太平洋横断航路との接続>

 

 世界史の授業では<1>の視点に簡単に触れて終わりがちですが、アメリカ政府の目は、西海岸を越えて、太平洋~東アジアへと注がれていました。アメリカはすでに1840年代から、大陸横断鉄道と(②で述べた)太平洋横断航路の接続を考えていたのです。それは、1869年開通の鉄道の名称にも表れています。正式名称は、「ユニオン・セントラル・パシフィック鉄道「(東西からの路線が結合された)中央太平洋鉄道」でした。83年開通の2つの鉄道は、「ノーザン・パシフィック鉄道」、「サザン・パシフィック鉄道」です。「パシフィック・オーシャン(太平洋)」への意識の強さがわかります。

 

 歴史家の小風秀雄は次のように述べています。

 

 『(1869年の鉄道開通の結果)それまでアメリ東海岸から西海岸まではパナマ地峡鉄道経由で3週間かかっていましたが、サンフランシスコ-ニューヨーク間は7日(週一便の特急は6日)へと劇的に短縮されました。さらに太平洋横断航路と結ぶと約1カ月で中国に達することになり、輸送速度の点で東回り(大西洋経由)をはるかに上回りました。大陸横断鉄道の開通で、「二つの大洋をむすぶ」ルートが開通し、「アメリカがアジアとヨーロッパの間に立った」のです。』

  【小風秀雄『世界史のなかの近代日本』(山川出版社、2023)】

 

 1871年に出発した岩倉使節団は、「グローバルな交通革命」の直後に、欧米視察を行ったのでした。使節団は、太平洋横断航路と大陸横断鉄道でアメリ東海岸に行き、さらに大西洋を渡ってヨーロッパに赴きました。帰路はスエズ運河を通っています。

 

<3 移民労働力による建設>

 

 大陸横断鉄道の建設は、おもにアイルランド人移民と中国人移民(苦力[クーリー]と呼ばれました)によって担われました。しかし、開通時の記念写真に中国人移民は写っていませんでした。WASP(ホワイト[白人]・アングロサクソン[イギリス系]・プロテスタント[新教徒])中心政策はまだ続いており、カトリックアイルランド人移民は苦労を強いられました。そして、中国人移民にはさらに厳しい現実が待っていました。

 

 『南北戦争後のアメリカには、西部開拓や急速な都市化・工業化により無尽蔵な労働需要があった。大陸横断鉄道は「東半分はアイルランド人移民が、西半分は中国人移民が作った」と言われるが、政府は大資本からの要請があれば清朝とも条約を締結し、中国人移民奨励策を取った。だが鉄道完成後、中国人労働者がサンフランシスコのチャイナタウンに集住し始めると、排華運動が始まった。

 西海岸の排華問題はまもなく連邦議会に持ち込まれ、自由移民の原則を堅持してきた米政府にとって初の移民制限立法である排華移民法が1882年に制定され、中国人労働者は全面入国禁止となり、「帰化不能外国人」というレッテルが貼られた。』

  【貴堂嘉之「移民の世紀」[『岩波講座 世界歴史16』、2023]】

 

 アメリカ大陸横断鉄道開通は「移民の世紀」を象徴する出来事でもありました。しかし、日本人移民を含むアジア系移民の苦難の歴史が始まっていったのです。

 

◆歴史上の出来事を多角的に検討することの大切さを、あらためて感じています。「言うは易く行うは難し」ですけれども。

 

 

 

 

★19世紀半ばの航路・鉄道②(1860年・遣米使節団)

 

江戸幕府は、日米修好通商条約(1858年締結)の批准書交換のため、万延元年(1860年)、アメリカに使節団を派遣しました。

 

◆新見豊前守正興を正使とする使節団の一行は77名(幕府の役人、従者、調理員)でした。アメリカの軍艦ポーハタン号(ペリーの2度目の来航時[1854年]の旗艦でした)に乗船して、アメリカに向かいました。ペリーの時と決定的に違うのは、太平洋を横断したことです。

 

アメリカの太平洋郵船が<サンフランシスコ~横浜~香港>の定期航路を開設したのは1867年でしたが、すでに1860年当時、アメリカ海軍は太平洋を横断する技術を身につけていました。随行船の咸臨丸(オランダ製でした)の航海もアメリカ兵に頼ったものでした。艦長は勝海舟でしたが、荒天続きの航海になすすべはなかったようです[*1]。

 

◆ハワイ経由で太平洋を横断した新見らの使節団は、サンフランシスコからパナマに移動し、パナマからまたアメリカ船に乗り、北上してワシントンに到着しました。批准書交換後、一行は、たくさんの見物客が集まる中、ニューヨークのブロードウェイを行進しました[*2]。

 

◆注目すべきはパナマです。使節団一行はパナマ地峡を徒歩や馬車で移動したわけではありません。鉄道で越えたのです。アメリカは、早くからパナマ地峡の戦略的重要性に気づき、1855年パナマ地峡鉄道を開通させていました(イギリスの鉄道営業運転開始[マンチェスターリヴァプール間]から25年という時期でした)。パナマ運河の完成は1914年でしたが、大西洋と太平洋を陸路で結ぶ鉄道が果たした役割は、非常に大きなものでした[*3]。運河の完成後もパナマ鉄道は継続し、現在はパナマの企業によって運行されています。

 

使節団一行は、<大西洋~喜望峰~インド洋~南シナ海東シナ海>経由で帰国しました。約9カ月かけて世界を一周したのでした。なお、ちょうど使節団が帰国した頃、アメリカではリンカンが大統領に当選し、翌年には内戦(南北戦争)に突入することになります。

 

[*1]咸臨丸は、随行船という名目でしたが、実際は幕府の遠洋航海実習船でした(総勢107名)。航路もポーハタン号とは別で、大圏航路(最短距離)に近いルートをとりました。サンフランシスコ到着後は船体を補修し、日本に引き返しています。中浜万次郎福沢諭吉も乗船していました。

[*2]アメリカ人の反応を、司馬遼太郎は、ホイットマンの詩を引用しながら興味深く述べていました。

[*3]残念ながら、パナマ地峡鉄道に触れた「世界史探究」教科書はありません。

 

【参考文献】

田中彰『開国と倒幕』[日本の歴史15、集英社、1992]

・小風秀雄『世界史のなかの近代日本』[山川出版社、2023]

司馬遼太郎『明治という国家』[日本放送出版協会、1989]

・外務省「万延元年の遣米使節」[ www.mofa.go.jp ]

・「パナマの鉄道」[ Wikipedia

 

 

★19世紀半ばの航路・鉄道⓵(1853年・ペリー艦隊)

 

★19世紀は、蒸気船・蒸気機関車の発明と爆発的な普及により、海上でも陸上でも交通に大革命が起きた時代でした。その一端を、3回にわたって考えてみます。

 

◆1853年7月(陽暦)、ペリーに率いられた、アメリカの東インド艦隊4隻は、上海から琉球小笠原諸島を経て、浦賀に姿を現しました。アメリカの大西洋岸を出航したのが1852年の11月でしたから、8カ月余りかかっていました。このことから、二つのことが確認できます。

 

◆まず、ペリー艦隊の航路から確認できるのは、当時のイギリスの圧倒的な通商力・海軍力です(パックス・ブリタニカの真っただ中でした)[*1]。ペリー艦隊は、大西洋を横断し、ケープタウンモーリシャス、セイロン島、シンガポール、香港を経由していました。地名からもわかるように、すべてイギリスの植民地・石炭補給地でした。

 

◆二つ目に確認できるのは、まだ太平洋横断航路が成立していなかったことです。アメリカがメキシコからカリフォルニアを獲得して5年という時期でしたが、アメリカは太平洋横断航路の開発を急いでいました。太平洋横断航路は、他のヨーロッパ諸国に伍してアメリカが東アジア(特に中国)に進出するためには、必須の航路でした。つまりペリーは、アメリカの東アジア戦略の重要な一環として、日本と琉球の開国を求めたのでした。

 

アメリカの東アジア戦略と太平洋横断航路については、残念ながら、各社の「世界史探究」教科書は触れていません。「世界史探究」の授業でペリー来航を取り上げる際は、「日本史探究」の教科書を参照したほうがいいかも知れません。[*2]

 

◆たとえば、東京書籍の「日本史探究」では、次のように述べられています。

 

 「太平洋の対岸のアメリカでは、日本近海に進出していた捕鯨船への補給や遭難時の船員救助のため、日本への寄港が必要となっていた。また、メキシコとの戦争に勝利してカリフォルニアを領有したことをきっかけに、太平洋を横断する対清貿易への期待が高まった。太平洋航路の中継地として、日本を開港させることが重要な課題となり、日本へ使節を派遣しようとする動きが生まれた。」

 

◆付け加えれば、蒸気船の運航に不可欠な石炭の補給地としても、日本は重要でした。やがて、1870年代以降、日本の良質な石炭は重要な輸出品の一つとなり、長崎や横浜では内外の船舶に大量に売却されました。

 

[*1]1850年当時、世界の船舶の47%がイギリスの船舶でした。

[*2]「歴史総合」でも、「日本史探究」を参照しながら、簡潔に触れることはできるでしょう。

 

【参考文献】

・小風秀雄『世界史のなかの近代日本』[山川出版社、2023]

・金澤周作「海域から見た19世紀世界」[『岩波講座世界歴史16・国民国家と帝国』(2023)所収]

田中彰『開国と倒幕』[日本の歴史15、集英社、1992]

 

▲高校の歴史教育(「歴史総合」~「世界史探究」・「日本史探究」)が早くもぶつかっている困難【追記10/9】

 

◆昨年度から実施されている高校の新教育課程では、教科「地理歴史」の場合、1年生で必修の「歴史総合」・「地理総合」を学び、2・3年生で「世界史探究」・「日本史探究」・「地理探究」から1科目選択して学ぶという科目構成になっています。

 

◆授業が始まってまだ2年目の「歴史総合」(わずか2単位)ですが、あえて述べておきたいと思います。高校3年間の歴史教育のあり方を考えた時、<「歴史総合」=世界と日本の近現代史>という考え方は適切だったのでしょうか?

 

◆<「歴史総合」=世界と日本の先史~近世史>(3単位)という考え方もできるのではないかと、「歴史総合」の大まかな内容が公表された時に思いました。いま、その時の気持ちがしだいに大きくなっています。

 

◆<世界と日本の近現代史>を高校1年生の必修とする場合は、「世界の諸地域の文化圏の成立・伝播・交流・変容を学ばずに近現代史を理解できるのか」という根本的な問題が生じるのですが、このことを文科省有識者で議論した形跡はないようです。宗教や民族に関わる問題が、近現代においても多発してきました。本当は、それらの背景にある古代~近世の歴史を理解する必要があります。

 

◆たとえば(例をあげれば切りがありませんが)

  ・古代オリエント史[①]を学ばずに

  ・古代ギリシア・ローマ史[②]を学ばずに

  ・古代・中世の東アジア史[③]を学ばずに

  ・仏教の成立と伝播[④]を学ばずに

  ・キリスト教の成立と伝播[⑤]を学ばずに

  ・イスラームの成立と伝播[⑥]を学ばずに

  ・ルネサンス宗教改革、大航海、主権国家体制(⑦)を学ばずに

 近現代史を理解できるのか、という問題です。

 

◆たいへん困ったことですが、2・3年生で「日本史探究」を選択する生徒たちは、①・②・⑤・⑥・⑦などをよく理解する機会がありません。また「地理探究」を選択する生徒たちの場合、高校で学ぶ歴史は「歴史総合」だけになりますが、①~⑦の概略を地理の学習の中で学ぶことになるのでしょうか? (「日本史探究」を選択する生徒たちと「地理探究」を選択する生徒たちを合わせると、全体の7割以上を占めると思われますので、真剣な検討が必要だったと思います。)

 

◆⑦に関連してですが、多くの「歴史総合」教科書の記述は近代(18世紀後半)から始まっていますので、「日本史探究」、「地理探究」を選択する生徒たちは、「近世史」(「近世」を「初期近代」と捉えたほうがいいかも知れません)をグローバルな視点から学ぶ機会がありません。高校生としての歴史的教養にも欠落が生じてしまうのではないかと思います。多分、ボッティチェリシェイクスピアコペルニクスカルヴァンピサロも知らずに、またイギリス革命もバロック文化もオスマン帝国の発展もロシアの台頭も明清交代の激動も知らずに、大学に進学したり社会に出たりする生徒がたくさん出てしまうでしょう。

 

◆一方、「世界史探究」や「日本史探究」において、「歴史総合」で学んだ(はずの)近現代史をどう扱うかは、多くの高校で悩ましい問題になっています。学習済みとしてほとんど取り上げないか、もう一度取り上げるか、という問題です。共通テストの出題内容も絡んで、来年度には(「世界史探究」・「日本史探究」の3年次の学習で)大きな問題となる可能性があります。

 

◆歴史を学ぶ高校生の立場で考えてみても、<世界と日本の先史~近世史>を1年生で学んだ後、2・3年生で<近代史・現代史>中心の「(日本史と関連させた)世界史探究」か「(世界史と関連させた)日本史探究」を学ぶという流れのほうがスムーズだったように思います。そのほうが、戦後史も駆け足でなく学ぶことができたでしょう。<先史~近世史>を踏まえた、生徒たち同士の討論も、授業の中でできたのではないかと思います。

 

◆高校3年間の歴史教育の流れは、すでに混乱しています。大学の研究者たちや高校の教員の一部には「歴史総合」への過大な期待があったようですが、これらの人たちは高校3年間の歴史教育の流れを見通していませんでした。また、高校現場の実態も理解していませんでした。

 

◆授業時間数も限られているため、多くの高校では、残念ながら、従来と同様、「教科書を終えるのに精いっぱい」あるいは「教科書を終えることができない」という状態だと思います(「歴史総合」でも「探究」でも)。エリート校やスーパーティーチャーを基準にはできません。現状では、「考える歴史の授業」を教員に強く求めるのはあまりに酷だと思います。

 

◆新教育課程が始まったばかりですから、何を述べても詮無いことは承知しています。ただ、新課程の歴史教育の限界を認識していれば、その破綻を最小限にくい止められるかも知れません。教える側が<先史・古代史・中世史><近世史>と<近現代史>の関わりを強く意識することは、「歴史総合」おいても、「世界史探究」・「日本史探究」においても、授業内容を豊かにすることにつながるでしょう。それが、わずかな希望です。

 

【 追記 10/9 】

◆高校1年生の必修科目の内容としていま何が必要かをよく検討すれば、「地理歴史総合」(4単位)という科目の創設も可能だったように思います。<世界と日本の自然環境(1.5単位分)+世界と日本の先史~近世史(2.5単位分)>という内容の科目です。今まで高校では、教科「地理歴史」は名ばかりで、世界史と日本史だけでなく、歴史と地理も分断されてきました。「地理歴史総合」は、人間と自然の関わりや気候変動、人口問題などを歴史的に見た、また地政学的な観点も取り入れた、斬新な科目となったのではないかと思います。

◆新教育課程の歴史教育の破綻が、残念ながら、すでに現実のものとなりつつあります。文科省は教育課程の改訂に従来よりも早めに取り組むべきでしょう。