世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★新型コロナ危機に対応できない朝日新聞にお別れ(3/23)[+真山仁、福岡伸一]

 

◆「言葉の力」を重視するという朝日新聞は、2020年3月20日付の文化・文芸面に「私権制限 どこまで許される」という記事を載せました。「民主主義は限界なのか」というシリーズの一つで、新型コロナウイルスの感染拡大に関わる記事です。政治社会学者・堀内進之介へのインタビューをもとに、大内悟史という記者がまとめていました。

 

◆釈然としない記事でした。「公衆衛生の観点に立てば、公益のために私権を制限する必要があるのは明らか」と書きながら、記事の後半では、安倍政権による緊急事態宣言は認められないということを強調していたのです。そもそも朝日新聞は「新型コロナウイルスを過度に恐れる必要はない」と言い続けてきました(*1)。そのような危機意識の薄さと安倍政権批判が結びついて、混乱した内容になったのだと思われます。

 

(*1)このような言い方は、人びとの警戒心をゆるめてしまいます。一部の専門家の責任も重大ですが、ウィルスの感染力を甘くみた朝日新聞は、結果的に感染拡大に手を貸すことになってしまいました。3月11日付の文化・文芸面の記事には、『感染症と社会 目指すべきは「共存」』という呑気な見出しをつけていました。治療薬・ワクチンがなく、感染が拡大し、死者が増加していく中で、どうしてこのような見出しをつけるのか、理解に苦しみます。人びとの痛みに寄り添おうという姿勢が見られません。感染収束時点の記事の見出しでしょう。

 

◆過度な権力集中を避けることが、民主主義の基本です。ただ、医療崩壊が起きた中国・武漢やイタリア・ロンバルディア地方の惨状は、対岸の火事ではありません。アメリカでも感染者が急増しています(トランプ政権にもCDCにも油断がありました)。チェック機能は欠かせませんし、言論の自由などは絶対に守らなければなりませんが、危機における強力な規制はやむを得ないものです。3月19日、専門家会議は東京などでのオーバーシュート(感染の爆発的拡大)の懸念を表明しました。その翌日に、朝日新聞は、危機感の欠如した記事「私権制限 どこまで許される」を載せたのでした。

 

◆いま私たちは、歴史的な大惨事の渦中を生きています。多分、朝日新聞はそのことすらきちんと認識できていないのでしょう。世界各地で失われていく多くの命、そして日本にも忍び寄る爆発的感染の危機、それらへの想像力があればもっと別な内容になっていたはずです。 

 

◆政治思想史や古代ローマ史に関しても、看過できない点がありました。問題点を大きく3つあげておきます。

 ① 「欧米の民主主義の思想的起点となったマキャベリとロック」という記者の言葉が載っていました。驚きました。マキャベリをロックと並べて「欧米の民主主義の思想的起点」と位置付けるためには、1冊の本が必要でしょう。

 ② 不思議なことに、歴史的背景も性格も異なる「近代の民主主義」と「古代の共和政ローマ」が同列に論じられていました。そのため、論旨に乱れが生じてしまいました。

 ③ 共和政ローマが理想の政治形態であるかのように論じられていましたが、それは誤りです。共和政ローマは、奴隷制を前提にした、元老院中心の貴族共和政であり、「共和政軍国主義」(本村凌二)でもありました。

 

◆民主主義のあり方についても、混乱が見られました。「市民の創意工夫を下から積み上げている台湾に学ぶ道もある」と言ったかと思うと、技術革新が進むと「一般的な知識水準の有権者が社会をコントロールするという民主主義の発想に無理が生じる」と述べていました。今時「有権者の知識水準」に関連させて民主主義を論じる人がいるとは思いませんでした。まるで19世紀の普通選挙権獲得運動に反対する議論を見ているようでした。国民主権とは何か、もう一度よく考えて欲しいものです。

 

朝日新聞が批判してきたように、安倍首相には「言葉の力」が足りません。それは、ドイツのメルケル首相の最近の国民向け演説と比べると、歴然としています。しかし、「私権制限 どこまで許される」にも、「言葉の力」は感じられませんでした。あいまいな歴史的知識を無理に寄せ集めながら、結局は、安倍政権を否定したいという願望を表明しているだけと言ってもいいような記事でした。もし安倍政権が緊急事態宣言を出さなかったために(あるいは躊躇して宣言が遅れたために)爆発的感染が起きたら、朝日新聞はどう責任をとるのでしょうか?(*2) 「安倍憎し」という感情に流されるのではなく、日本の(新型コロナウイルスに関して言えば検査・医療体制の)構造的な問題を冷静に分析し、改善を鋭く迫ってほしいと思います(*3)。

 

(*2)ウィルスの感染力を甘くみたという点も同じなのですが、多分朝日新聞は責任を認めないと思います。後でも述べますが、政治的立場は違っても、朝日新聞は安倍政権と体質がよく似ているのです。

(*3)残念ながら、3月12日付の別刷には、安倍政権の誤った検査抑制策を追認するような記事がありました(「万能ではないPCR検査」)。このような記事は、犯罪的ですらあります。検査数が他国に比べて極端に少ないということは、感染の実態が把握されていないということにほかなりません。したがって、国民に正しい情報が伝えられていないということです。そういう認識を、朝日新聞は持つことができないのです。

 

◆「おごれるものは久しからず」と言われてきました。電話で記事についての意見を述べてみてわかったのですが、朝日新聞も「おごれるもの」でした。読者は、対話の相手ではなく、あくまで啓蒙の対象なのでした。誰もが「知」をさまざまな手段で獲得する社会になっているにもかかわらず、いまだに、自分たちを「啓蒙的知性」の側におき、読者を「無知」や「半知」の側にいる者たちと見なしているのです。そのようなおごりのためでしょう、読者の批判的意見は受け付けようとしませんでした。朝日新聞は批判的意見を受け付けない政権を非難してきましたが、自分たちもまったく同じことを行って恥じないのでした。残念ながら、これが、「異論のススメ」という記事も載せていた朝日新聞の実際の姿なのです(*4)。

 

(*4)水島広子『「異論=脅威」自己愛の形』(3月14日付オピニオン面)を、自分たちの問題として捉えられないのです。

 

◆今回の記事だけではありません。社説や編集委員執筆の記事にも、「知性」や「言葉の力」の足りない文章が散見されるのです。朝日新聞の質の低下が進行しているとしか思えません。私が中東の記事に関連してスンナ派について話した時、「スンニ派ですよ」と言った本社記者がいました。スンナ派スンニ派の両方の表記があることすら知らないのでした。

 

朝日新聞にも危機が迫っているのかも知れません。今まで朝日新聞に貢献してきた記者たちが、3月末で数多く退社(希望退職)するそうです。

 

◆ずっと朝日新聞の愛読者でしたが、信頼できなくなりました。読者だけでなく、新聞もまた自らの「無知を啓く」努力をしなければならないでしょう。この「知」は、2400年前にソクラテスが語ったように、「根本的なものに触れること」です。そして、「無知を啓く」努力には、他者と真剣に対話し、現実と格闘することが含まれています。今の朝日新聞には、そのような対話や格闘が足りないように思えてなりません。

 

【追記1】(3月24日)

 本日付の朝日新聞に載った「真山仁のPerspectives:視線」には、まぎれもなく「言葉の力」がありました。現実との格闘がありました。あざとい見出しがつけられていますが、「安倍政権の失政をあげつらう」ことを真山が意図しているわけではありません。新型コロナウイルス対策において、これまで朝日新聞が軽視してきた論点(国民の命を守る危機管理のあり方)を、真山は真剣に提示しています。

 

【追記2】(4月3日)

 本日付の朝日新聞に、不可思議な記事が載りました。福岡伸一「ウイルスという存在」です。

  世界で、新型コロナウイルスによる感染者が100万人を超え、死者が5万人を超えようとしています。世界中の医療従事者が必死で戦っている時、また日本中の人々が懸命に不安と向き合っている時、このような文章に出会うとは思いませんでした。

 福岡は「ときにウイルスが病気や死をもたらすことですら利他的な行為といえるかもしれない」と述べています。また「個体の死は(中略)生態系全体の動的平衡を促進する」と言っています。ニュートラルな装いで書かれていますが、恐ろしい文章です。新型コロナウイルスに感染したら「世界の動的平衡のため、甘んじて死んでいってください」と述べているに等しいのです。

 ウイルス感染の痛みにはまったく触れず、「ウイルスと動的平衡」について得々と語る文章からは、異様なものを感じました。福岡の生物学は、「世は動的平衡として常無し」という哲学となり、その反ヒューマニスティックな面を露わにしています。

 

【追記3】(4月5日)

 4月4日付の「天声人語」は、かなりひどい文章でした。同じ安倍批判でも、書き方というものがあると思います。悪意に満ちていて、読むに堪えませんでした。もっと品性を養ってほしいものです。

 ただ、「医療体制を整備する道具として役立つなら、緊急事態宣言の発動をためらうべきではないと思う」という部分がありました。ずいぶん変わったものです。朝日の本社記者にも感染者が出て、ようやく危機感を持つようになったのでしょうか?

 5日付の一面トップには「外出制限 遅れた末に…」という見出しの記事が掲載されていました。スペインとニューヨークからの報告でした。3面の記事と並んで、危機感に満ちた文章でした。「新型コロナ面」も始まりました。

 「危機の認識 遅れた末に…」という感じではありますが、今後の紙面を注視したいと思います。新聞もまた、感染拡大という現実との格闘は避けられません。徹底して「人々の健康と命を守る」という立場に立って、報道を続けてほしいと思います。