世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

▼<ディアロゴス>のない日本政治の中で、尾身会長の提言は

 

▼今日、2年ぶりに党首討論が行われました。期待はせずにテレビを見たのですが、貧しい日本政治の実態があまりにもよく表れていました。

 

菅首相と枝野代表の討論には30分とられていたのですが、首相はほぼ6割の時間を、質問に対する答えではなく、自分のスピーチに使っていました。その中には、1964年のオリンピックの思い出話(!)も含まれていました。首相が緊急事態宣言早期解除の失敗について答えず、話題をワクチン接種にずらしても、枝野代表は追及できませんでした。

 

▼オリンピック・パラリンピック開催による感染リスクについても、枝野代表の切り込みは弱く、思い出話もおとなしく聞いていたようです。なぜ抗議しなかったのでしょうか? 野党第一党の代表として情けないと思います。志位委員長は正面から切り込んでいましたが、時間切れでかわされていました(枝野代表以外は持ち時間がたった5分しかないのでした)。

 

▼医療現場や介護現場で困難が続いていること、経済的に困窮する人たちが増えていること、そもそも国産ワクチンがないこと、ワクチン接種の開始が遅れたこと等については、議論がなされませんでした。

 

▼今に始まったことではないのですが、日本の政治には< dialogue(対話)>がありません。< dialogue > の語源は、古代ギリシアの< dialogos (ディアロゴス)>です。もともとは<ロゴス(真理[論理・理性])を分かち持つ>という意味です。

 

▼日本では、<ロゴス(真理[論理・理性])を分かち持つ>どころではなく、「ロゴスをできるだけあいまいにすること」が政治の要諦になってしまっています。したがって、責任もあいまいになります。責任をとらない政治風土に、みな慣れてしまっているのでしょう。「安倍首相・菅官房長官時代」にワクチン開発を怠った責任を問う声はありません。

 

▼オリンピック・パラリンピックはどうなるでしょうか? 世界で400万人近くが亡くなる中でも、日本で1万4千人近くが亡くなっている中でも、開催はされるのでしょう。開催中の、あるいは閉会後の爆発的感染拡大が懸念されます。日本でもインド型のウィルスが広がっていますので、オリンピック開会前に感染の再拡大が起きる可能性すらあります。「コロナに打ち克った証」としてではなく、「コロナ禍に強行した負の遺産」として歴史に残る可能性のほうが大きいと思います。また、いろいろな情報を考え合わせると、開催しても中止しても、日本はしばらく経済的負担に苦しむことになるようです。

 

▼近日中に、オリンピック・パラリンピック開催にともなう感染リスクについて、尾身分科会会長の提言があるとのことです(厚生労働大臣によれば「尾身氏の自主的な研究」なのだそうですが)。政府や組織員会の立場を忖度したものになるのか、専門家としてのロゴスに即した内容になるのか、注目されます。

 

▼数年前からNHKのキャスターや官僚たちは「菅の激怒」にあってきました(もしかしたら菅首相の政治的体質は習近平やトランプに近いのかも知れません)。そのような中でも、尾身会長は、誰のために提言するのか、正しく判断してほしいと思います。一番大切なのは国民です。特に、コロナ禍で苦しんでいる人びと、コロナ禍で奮闘している人びとです。「菅の激怒」をまねいたとしても、尾身会長の専門家としての良心とロゴスが貫かれますように。