世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★リンダ・コリー「イギリスとイスラーム」の衝撃

 

◆『〈世界史〉をいかに語るか』(*1)の中で最も衝撃的だったのは、リンダ・コリーの論文「イギリスとイスラーム 1600-1800年」(長谷川貴彦訳)でした。リンダ・コリーの著書『虜囚』を読んだことがありませんでしたので、この論文に記された歴史的事実を知り、大変驚きました。

 

◆コリーが述べている歴史的事実のうち、いくつかをあげてみます。

 

 「17世紀を通じて、そして18世紀の前半においては、イングランド、その後のイギリスによる最も論争を呼ぶことになったイスラーム文化との接触は、いわゆるバーバリ諸国、つまりモロッコ、そしてオスマン・トルコの植民地であったアルジェ、トリポリチュニスとの接触であった。1620年から1640年代にかけて、北アフリカ諸国を基地とする私掠船は、地中海や大西洋で活動するイングランドスコットランドアイルランドウェールズの通商船を少なくとも300隻は捕獲した。このわずか20年間に、北アフリカでは、約7000人のイングランド臣民が投獄され、しばしば奴隷化されたのである。」

 

 「総計すると、1620年から1800年の間にバーバリ諸国の虜囚となったイギリス人は1万5000人を下らなかったであろう。だが、そうしたイギリス人の奴隷や虜囚は、北アフリカで拘束されたヨーロッパ人の氷山の一角を表しているにすぎない。というのも、フランス、ナポリ王国、オランダ、スカンジナヴィア諸国、ドイツ、ポルトガル、とりわけ、スペイン人の捕虜が存在していたからである。」

 

◆このような事実を、恥ずかしいことですが、初めて知りました。17~18世紀の西地中海世界について蒙を啓かれた思いです。なお、「バーバリ諸国」という言い方も初めて聞きました。「野蛮な諸国」という意味です。現在は「マグリブ諸国」と言ったりしますが、「マグリブ」は「西」を意味するアラビア語ですから、考えてみれば、17~18世紀のイギリス人が使わないのは当然です。「野蛮な」ムスリムたちに多くのイギリス人が捕らえられていたのですが、「文明 vs. 野蛮」という図式で考えていたのは聖職者(相変わらず「十字軍意識」を強く持っていました)や政治家、官僚などだけで、商人や船乗りたちにはそのような意識はなかったようです。

 

◆コリーは、虜囚となった人々(旅行記を書き残したようなエリートたちではありません)が残した、興味深い文章を紹介しながら、重要な指摘をしています。

 

 「(17世紀~18世紀初頭のイギリス側の言説は)イスラームの脅威に直面して、懸念と防衛的な立場からおこなわれたということが特徴的である。この段階においては、イスラーム文化に対して首尾一貫した植民地主義的な志向を孕んでいたとする兆候はみあたらない。」(*2)

 

 18世紀までのイギリスとイスラーム諸国の関係は、対等なものでした。たとえばオスマン・トルコは「イギリスにとって侮りがたい、また多くの点において、より洗練された国家であった」のです。「大英帝国」が歴史上大きな存在であっても、19世紀の「大英帝国」の眼差しで他の時代を見てはいけないということだと思います。そこからコリーは、ステロタイプ化した「オリエンタリズム」にも疑問を投げかけています。

 

◆いわゆるグローバル・ヒストリーには、あまり宗教に重きをおかないような印象があります。しかしコリーは、改宗してムスリムになったイギリス人の手記を紹介しています。また、キリスト教イスラームの差異だけでなく、カトリックプロテスタントの差異、両派に対するイスラーム側の受けとめ方にも注目しています。そのような視点は、ジブラルタルをめぐるイギリス(プロテスタント)、スペイン(カトリック)、「バーバリ諸国」の関係の解明に生かされていて、説得力がありました。(*3)

 

◆ある歴史的事実を知らないということは恐ろしいことだと、あらためて思いました。知らなければ、歴史を多面的に見ることができません。一世界史教員としての限界も感じますが、もう少し学ばねばと思っています。

 

(*1)成田龍一・長谷川貴彦編『〈世界史〉をいかに語るか』[岩波書店、2020]

(*2)なお、翻訳で疑問があります。他の個所で、“ Islam in Britain ”という書名が『イギリスの中のイスラーム人』と訳されていました。「イスラーム人」という日本語はほとんど聞いたことがないのですが、誤植でしょうか?

(*3)ジブラルタルは、現在もイギリス領です。モロッコ側のスペイン領セウタ、メリリャとともに、かつての「帝国」の名残りでしょうが、地政学的には現在も注意しておかなければならない場所だと思います。