◆教科書に沿って十字軍を教えながらも、「全体をつかみ切れていない」という思いをずっと抱えてきました。
◆それは今も変わりませんが、次のことは授業で伝えたいと考えています。
【十字軍を多角的に考えるための8項目】
①宗教的情熱、領土拡張の野望、商業的利益の追求などが絡み合って、十字軍が派遣された。
②ムスリムがキリスト教徒のイェルサレム巡礼を妨害したことはなかった。
③第1回十字軍と戦ったのは、セルジューク朝軍ではなく、ファーティマ朝軍だった。
④第1回十字軍がイェルサレムを占領した時、十字軍はムスリムとユダヤ人を虐殺した。
⑤ヨーロッパ人の十字軍国家(ラテン国家)が、一定期間パレスチナからシリアを統治した。
⑥陸上の十字軍を支えたのは、イタリア艦隊の海上輸送であった。
⑦サラディンは、分裂していたイスラーム勢力を束ねて、イェルサレムを奪回した。
⑧戦闘とは別個に、イタリア商人とムスリム商人との交易は続いた。
<8項目についての補足> (授業ではすべてに触れるわけにはいきませんが)
①について
●11世紀は、北ヨーロッパ・中央ヨーロッパまでキリスト教が広まった時期で、ラテン・キリスト教世界(ローマ・カトリック世界)というアイデンティティが成立しました。この意識のもと、農業生産力の向上、商業活動の活発化と相まって、聖地巡礼が盛んになりました。聖地イェルサレムへの意識は、当然強まりました。
●ラテン・キリスト教世界というアイデンティティは、進行していたレコンキスタ(十字軍に先駆ける聖戦でした)によっても強化され、「東方キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラーム教徒とは異なる自分たち」という意識が強まりました。教皇ウルバヌス2世は、十字軍参加者に「贖宥」を認めていました。
●国王・皇帝・諸侯は、領地の拡張を求めました。シリア・パレスチナという飛び地であっても、価値がありました。聖地とその周辺ですから。
●ヴェネツィア、ピサ、ジェノヴァなどは、東方貿易(ビザンツ帝国やレヴァントとの貿易)の拡大を追求していました。
②について
●啓典の民がイェルサレムを訪れることは、ごく普通のことでした。そもそも、シリア・パレスチナには、単性派などのキリスト教徒がムスリムに交じって多数暮らしていました。
●ムスリムにとっても聖地巡礼はきわめて重要なものです。キリスト教徒の巡礼を援助する姿勢はあっても、妨害などは考えもしなかったのです。
③について
●セルジューク朝軍が小アジアに侵入してビザンツ帝国を脅かし、ビザンツ皇帝がローマ教皇に援軍を要請したことから、セルジューク朝の印象が強くなります。また、ウルバヌス2世も、「野蛮なトルコ人」を攻撃するよう、演説で述べていました。しかし、事実は、次の通りです。
1099年 第1回十字軍イェルサレムを占領
④について
●ムスリムの虐殺(7万人とも言われます)についてはよく知られるようになりました。
●ユダヤ人虐殺があったことも重要です。すでにこの時期、ヨーロッパで反ユダヤ人感情が広まっていたことと関連しているようです。①のキリスト教徒としての宗教的情熱は、異教徒への排他的情熱にもなったのでした。
⑤について
●「ヨーロッパ人によるシリア・パレスチナの植民地支配」と言っていいと思います。
●イェルサレム王国以外に、エデッサ伯領、アンティオキア公領、トリポリ伯領がありました。3つの伯領・公領はシリア北部からレバノンにかけて存在していました。当時のシリアの諸勢力の争い(シリア内戦、イスラーム国の成立・没落を彷彿とさせます)に、ヨーロッパ人がつけ込んだかたちでした。
●激しく統治者が入れ替わるため、また19世紀以降の民族意識とは異なるため、シリアの地主たち、商人たち、職人たちにとっては、統治者がアラブ人でもトルコ人でもヨーロッパ人(当時は「フランク人」と呼ばれました)でも、関係なかったのです。
●しかし、シリア・パレスチナのラテン国家は、イスラーム地域に接ぎ木されたものでしたので、ムスリムが団結するようになると滅びていきました。
●私見ですが、この「植民地統治」の経験が潜在的な歴史意識として残り、大航海以降の植民地形成につながったと言えるかも知れません。
⑥について
●ヴェネツィア、ピサ、ジェノヴァなどの艦隊がなければ、十字軍は成功しませんでした。物資や兵員・馬の輸送の役割を担っただけでなく、これらは海軍だったのです。ウルバヌス2世はピサに艦隊の出動を要請しました。第1回十字軍の際、ピサは120隻の、ヴェネツィアは200隻の艦隊を派遣しました。
●イタリア艦隊とファーティマ朝~アイユーブ朝~マムルーク朝の艦隊との小競り合いは、13世紀末まで続きました。
●十字軍は、大きくみれば、西ヨーロッパ勢力の東地中海世界への進出でした。このような見方をすれば、ヴェネツィア主導の第4回十字軍(ビザンツ宮廷の内紛に乗じました)も理解しやすくなります。
●大量の物資、多数の人を運ぶため、船は大型化していきました。
⑦について
●イスラーム側に、急に英雄サラディン(クルド人)が現れたわけではありません。モスルやアレッポを治めたトルコ人ザンギーはエデッサ伯領を崩壊させ、その息子のヌール・アッディーンがダマスクスを併合しました。諸勢力が争う場だったシリアが統一されたのです。サラディンは、このヌール・アッディーンのもとで17年間過ごし、軍人・政治家として成長しました。その最大の目的はシリアからエジプトにかけてスンナ派王朝を復活させることとキリスト教勢力をイェルサレムから追放することでした。
●1187年、サラディン率いるイスラーム軍がイェルサレムの奪回に成功した時、サラディンは復讐の虐殺は行いませんでした。
●なお、サラディンの墓は、カイロではなく、最も気に入っていたダマスクスにあるそうです。
⑧について
●高価な絹や香辛料だけでなく、生活必需品、軍需品、船舶建造用の木材なども取引されました。
●また海を渡って、キリスト教徒の巡礼団が多数レヴァントの港にやって来ていました。
【参考文献】
・ジョルジュ・タート『十字軍』(池上俊一監修、南條郁子・松田廸子訳、創元社、1993)
・佐藤次高『イスラーム世界の興隆』(世界の歴史8、中央公論社、1997)
・太田敬子『十字軍と地中海世界』(世界史リブレット107、山川出版社、2011)
・臼杵陽『世界史の中のパレスチナ問題』(講談社現代新書、2013)
・佐藤彰一・池上俊一『西ヨーロッパ世界の形成』(世界の歴史10、中央公論社、1997)