世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★エルガーの曲から「バラの国」を思う

 

◆NHKTVに「名曲アルバム」という5分間の番組があります。先日何気なく見ていたら、エルガーの「チェロ協奏曲」が流れていました。

 

エドワード・エルガー(1857~1934)は、イギリス音楽を再興した作曲家でした。ヘンリー・パーセル(17世紀後半の復古王政期から名誉革命期にかけての音楽家)以来の作曲家と言われています。イギリスでは、ヘンデルハイドンヨーロッパ大陸側から招くことはあっても、約200年間、本格的な作曲家は出ていなかったのです。

 

◆19世紀は、イギリス美術復興の時代でもありました。前半のコンスタブルやターナーから、半ばのラファエル前派、そして後半のロセッティやバーン・ジョーンズウィリアム・モリスへと続きました。このような時代の中から、作曲家エルガーも出てきたように思います。エルガーの曲には、コンスタブルが描いた田園の雰囲気とバーン・ジョーンズの絵画の甘美さが感じられます。

 

◆番組では、チェロ奏者ジャクリーヌ・デュ・プレ(1945~87)のことが紹介されていました。16歳でエルガーの「チェロ協奏曲」を弾いてデビューしたのですが、28歳の時複合硬化症という難病になり、しだいにチェロを弾けなくなります。苦しい闘病生活の末、42歳の若さで亡くなりました。

 

◆番組では取り上げていませんでしたが、チェロ奏者ジャクリーヌ・デュ・プレが亡くなった翌年(1988年)、イギリスのハークネス社がバラ<ジャクリーヌ・デュ・プレ>を作出して彼女に捧げました。「バラの国」イギリスならではのことだったと思います。<ジャクリーヌ・デュ・プレ>は、赤いシベの白い花です。

 

◆イギリスが本格的に「バラの国」になったのも、19世紀のことでした。1800年前後に、東インド会社に関わる人たちが中国原産のバラを次々と持ち帰ったからです。このこと抜きに現代のバラはあり得ないほど、重要な出来事でした。中国の四季咲き性のバラは、すぐさまフランスなどにも伝わりました(19世紀初め、ナポレオンの最初の妻ジョゼフィーヌもマルメゾン宮殿でこれらのバラを収集していました)。そして、バラの品種改良が、イギリスやフランスを中心に行われていきました。ヨーロッパのバラとアジアのバラの出会いが(言い換えればグローバル化が)現代のバラを作ったのです。

 

◆バラに「ティー」という香りがあります。もともとヨーロッパのバラにはない香りでした。❝ Tea-scented ❞(お茶の香りがする)と名づけられたのは、中国のバラが最初に「紅茶の国」イギリスに伝わったからだと思われます。

 

◆久しぶりに見た「名曲アルバム」は、バラの歴史まで思い起こさせてくれました。バラが捧げられたことで、チェロ奏者ジャクリーヌ・デュ・プレの名は、クラシック・ファンのみならず世界中のロザリアン(バラ愛好家)に知られるようになっています。

 

◆なお、1867年作出の品種「ラ・フランス」から後のバラを現代バラとよんでいますが、驚くべきことに「ラ・フランス」は明治維新直後の日本に早くも輸入されていました。江戸時代の日本がイギリスと並ぶ「園芸大国」だったという歴史が、そこに表れています。