世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

【資料】独仏戦争(1870~71)後変化した、フランスの音楽・美術

 

第二次世界大戦後の日本に見られるように、戦争は敗北した国に大きな変化をもたらすことが多いものです。日本の場合は残念ながらかなり他律的な変化でしたが、独仏戦争(プロイセン=フランス戦争)後のフランスは、第三共和政を確立すべく、自分たちの力で変化していったと思います。フランスの場合、音楽・美術の分野でも、大きな変化が生まれました。

 

◆多面的に歴史を見る授業を心がけていますが、次のような資料を紹介すれば、生徒たちも興味深く世界史を学ぶことができると思います。(引用した文章は中略させていただいた部分があります。)

 

<音楽における変化:国民音楽協会設立(1871)>

 

『19世紀半ばあたりまでのフランスには、自国で無視され続けていたベルリオーズをわずかな例外として、自前の大作曲家というものがいないも同然だった。当時パリで活躍した作曲家のほとんどがすべて外国人なのである。

 こんなフランスの音楽界が大きく変わるきっかけとなったのが、1870年のプロイセンとの戦争における敗北である。これが転機となって、1871年に国民音楽協会が設立される。フランク(ベルギー人)やサン=サーンスショーソンフォーレも参加したこの協会は、「フランスにもドイツに負けない正統的な器楽文化を創ろう」という目的で作られた。近代フランスの交響曲や協奏曲や室内楽の名作のほぼすべては、この国民音楽協会の設立以後の産物である。』

 【岡田暁生西洋音楽史』(中公新書、2005)】

 

<美術における変化:第1回印象派展開催(1974)>

 

 「印象派の画家たちの多くは共和主義者で愛国的でした。マネとドガ国防軍に参加。ルノワールも兵役につき、ピレネーの山中で騎兵馬の訓練をさせられたといいます。(モネとピサロは兵役にはつかずロンドンに疎開。そこで、のちに印象派を世に出すことになる画商デュラン=リュエルに出会います。)モネやルノワールの仲間だったバジールは28歳の若さで戦死。才能ある画家の惜しまれる死でした。

 しかし、彼らの絵には、そんな重苦しい戦争の空気はありません。なぜ市民社会の明るい普段の生活だけを描き続けたのでしょうか。

 ある程度裕福だった印象派の画家たちは、激動の時代にあって、労働者の悲惨は描かなかった。それを印象派の限界ということもできますが、一方で、世界中にこれだけ印象派の絵があって、今も愛され喜ばれているのだから、それは正しかったのだともいえます。人間は、よりよく生きたいと思えば、明るく歓びに満ちた絵を見ていたいと思うのかもしれません。

 印象派の画家たちは、生きる歓びを描くなかで、祖国フランスの復興を願っていたのではないでしょうか。」

 【三浦篤「19世紀フランス、革命の時代」(『印象派への招待』[朝日新聞出版、2018]所収」

 

◆歴史を多面的に見ることの大切さを、あらためて感じています。