★大西洋三角貿易をどう取り上げるかは、世界史教科書の良し悪しを判断する際の「試験紙」みたいなものだと思ってきました。近世から近代にかけて行われた大西洋奴隷貿易と南北アメリカ・カリブ海地域の奴隷制は、二度の世界大戦やユダヤ人虐殺などと並んで、人類史の中で最も暴力的な出来事だったからです。[*1]
[*1]もう一つの重要な「試験紙」は、ジェンダーの取り上げ方だと考えています。後日、比較・検討する予定です。
★3冊の「世界史探究」の教科書(実教出版、東京書籍、山川出版社)を比較・検討してみます。
<充実している実教『世界史探究』>
◆本文で1ページを割いているほか、「奴隷貿易・奴隷制からみる16~19世紀の世界」という特集に2ページを割いています。
特集には、大きな地図と6つの資料が掲載されています。6つの資料は次の通りです。
① ラス・カサスが見た光景
② ジャマイカ、サン・ドマング、ブラジルの砂糖生産高の推移(グラフ)
③ ヨーロッパ各国が運んだ奴隷数の推移(グラフ)
④ 奴隷船内の断面図
⑤ 奴隷売買を知らせる、北アメリカのポスター
⑥ 元奴隷フレデリック・ダグラスの証言
◆残念なことに、②を資料としてあげているにもかかわらず、地図ではカリブ海地域への奴隷貿易ルートがあいまいになってしまいました。
<東書の『世界史探究』は、ほぼ標準的>
◆本文で1ページ余りを割いています。全体として標準的な内容ですが、奴隷供給地として東アフリカにまで触れた記述は、他社の教科書には見られない視点です(山川・詳説は小さな地図には表示)。
<あまりにも粗略で、誤りもある山川の『詳説世界史』>
◆山川・詳説の取り上げ方には驚きました。他の個所(「ヨーロッパの海洋進出とアメリカ大陸の変容」)でも触れてはいるものの、大西洋三角貿易の記述は計8行で、欄外に地図を小さく載せているだけなのです(194ページ)。
◆19世紀の「イギリスの自由主義的改革」では、奴隷貿易の廃止と奴隷制の廃止を本文に明記しているだけに(この点は評価できます)、ちぐはぐな取り上げ方になってしまいました。しかも、194ページにある短い記述には、多くの人には信じられないでしょうが、誤りもありました。
◆誤っているのは、「(イギリスの大西洋三角貿易では)武器や綿織物など本国の製品がアフリカに輸出され」という部分です。18世紀の大西洋三角貿易でイギリスの奴隷商人がアフリカに運んだ綿織物は、ほとんどはイギリス製ではありません。実教や東書の教科書が述べている通り、国際商品となっていたインド産綿織物なのです(産業革命が進展する前の時期ですから、当然なのですが)。インド産綿織物の再輸出でした。[*2]
[*2]秋田茂は、『イギリス帝国の歴史』(中公新書、2012)において、イギリスによる、インド産綿織物のアフリカへの再輸出という事実を重視していました。秋田によれば、「インドとの貿易が大西洋三角貿易に組み込まれていた」という点でも、「奴隷貿易に欠かせない商品だったために、綿織物の国産化を促す大きな要因になった」という点でも、非常に重要な事実なのです。
◆執筆者の責任は重大だと思います[*3]。山川の編集担当者も、文科省の検定官も、気づかなかったとは……。
【追記、2023/7/3】
[*3]「産業革命が進展してからのことを書いたのだ」という反論があるかも知れません。ただ、そうであれば、194ページの内容・コンテクスト(1760年代までの歴史です)にはふさわしくない記述だったということになります。イギリスにおける綿織物の生産は1750年代から始まってはいましたが、生産量は微々たるものでした。原料の綿花の輸入量も、微増に転じるのは1780年代後半です[[*4]。綿織物の生産量が増加するのは、ミュール紡績機が普及する1790年代からになります。そして、まもなく(1807年)、奴隷貿易は禁止されました。
[*4]長谷川貴彦『産業革命』[世界史リブレット116、山川出版社、2012]
◆新しい『詳説世界史』の採択数がどのくらいだったのかはわかりませんが、『詳説世界史』を「信奉」する時代はすでに終わっています。このことを、高校の世界史担当の先生たちには、知ってほしいと思います。