世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★「世界史探究」教科書の検討10[南宋の記述の充実を]

 

南宋(1127~1276)についての記述は、従来から簡単でした。中国史では、六朝時代は別ですが、統一王朝の時代が重視され、分裂の時代は軽視される傾向があったからだと思います。新しい「探究」の教科書でもほぼ同じ扱いです。また、南宋の政治・外交、経済、文化が別々の個所に記されているため、南宋のトータルな理解が難しい状態が続いてきました。

 

南宋は、臨安(杭州)を都として、150年続いた王朝です。100年に満たなかった元の中国支配(1279~1368)よりも長い期間、淮河以南を統治していたのです。そのような南宋の歴史をもっと知らなければという思いをずっと抱いてきましたが、丸橋充拓『江南の発展 南宋まで』(シリーズ中国の歴史②、岩波新書、2020)が出版されて、南宋の歴史をより理解できるようになりました。『江南の発展 南宋まで』は、淮河以北中心になりがちだった古代~近世の中国史に一石を投じたと思います。

 

◆丸橋は、南宋と南海諸国との交易を重視し、南宋を「海上帝国」とまで呼んでいます。「海上帝国」と呼ぶべきかどうかはわかりませんが、海洋国家・南宋と位置付けることはできるでしょう。海洋国家の流れは、市舶司設置都市の増加に見られるように、(北)宋から始まっていました。また、元が南宋を滅ぼしたことにより、遊牧の民モンゴル人が初めて海に目覚めたことは重要です。そこから元のベトナム遠征・ジャワ遠征も理解できます。また中国にとっての海の重要性は、現在の中国の南シナ海~太平洋諸島進出にも表れています。

 

◆実教と東書の「世界史探究」は、海洋国家・南宋を重視しています。特に実教の教科書は、南宋のジャンク船の写真と史料を載せていて、充実しています。

 

◆一方、南宋と金の関係は、いずれの教科書でもあまり重視されていません。簡単に言えば、「金が南宋に貢がせていた」という記述になっています。しかし、実態は次のようであったと思います。

 

 「国境線の南北などに、(南)宋からの要請で官営の貿易場が設置され、活発な取引がおこなわれた。こうした貿易は、キタンと宋との澶淵の盟約のときにもおこなわれたことであった。金は茶、香料、薬品、絹織物、木綿、銭、牛、米などを宋から輸入し、はんたいに、毛皮、人参、甘草、馬などジュシェンの物産のほか、山東の絹織物などを宋に輸出した。しかし、華北に住む多数の漢人と、その生活を模倣していったジュシェン人たちのための消費物資が大量に必要となって、金側の輸入超過がつねであった。宋からの歳貢として金側に入った銀なども、皇室から民間にながれ、結局はこうした貿易によって宋に還流していったと考えられている。北宋時代の貨幣もそのまま流通し、金は華北漢人社会とその文化にたちまちにして染められていった。経済の実力は、あきらかに江南の宋がにぎっていたのである。」[*]

 

◆金は、ジュシェン(少なくとも数十万人が華北に移住していました)の間では猛安・謀克を維持していましたが、望むと望まざるとにかかわらず、漢化の波を避けることはできませんでした。漢人社会の統治のためには、科挙も実施せざるを得ませんでした。そして、経済的には実質的に南宋に依存していたのでした。

 

◆このようなところまで踏み込むのは、教科書としては難しいのかも知れませんが、字句を追加したり、注で述べたりすることはできると思いますので、改訂を期待しています。

 

◆なお、南宋で成立した朱子学については、山川の詳説が重要な指摘をしています。旧課程版の世界史Bにはなかった記述です。

 

宋学が礼の細かな字句の解釈を離れ、大きな思想の体系をつくりだすに至った背景には、みずからの内面をきびしくかえりみる禅宗の教えや、道教の神秘的な宇宙論との関わりがあった。」

 

南宋と金をとらえ直す授業をおこなえば、生徒たちの歴史への関心をいっそう高めることができると思います。

 

[*]伊原弘・梅村坦『宋と中央ユーラシア』(世界の歴史7、中央公論社、1997)