世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★仏教のふしぎ・その3<中国での変容、そして日本へ>

※「仏教のふしぎ・その2<大乗仏教密教>」のつづきです。

※「浅学菲才」という語が思い浮かびますが、私なりにまとめてみました。歴史の面白さの一端を感じ取っていただければ、と思います。

 

<仏教の中国への本格的な伝来>

 

★仏教が中国に伝わったのは、紀元前後(前漢末期か後漢の初め)と言われています。この頃伝来したのは、部派仏教でした。

 

★本格的な伝来は、4~5世紀、五胡十六国東晋から南北朝の時代になります。大乗仏教が主流となっていきます。

 

★注目すべきは、華北に侵入した遊牧民の国々が積極的に仏教を導入したことです。遊牧民の国々は、仏教の神秘的な力で国威を高めようとしたのでした。争って西域の高僧を招いたのは、高僧をシャーマンとして考えていたためだと思われます(遊牧民にはシャーマニズムがありました)。

 

★西域のクチャから仏図澄や鳩摩羅什が招かれて来ました。仏図澄は漢人の出家を認めさせ、中国仏教の基盤をつくりました。また鳩摩羅什は、『妙法蓮華経』などの漢訳で知られており、東アジアの漢字圏仏教に絶大な影響を与えました。

 

鮮卑族北魏の仏教興隆策は有名です。一時廃仏もありましたが、北魏は雲崗や竜門の石窟を後代に残しました。

 

華北の仏教は東晋にも伝わり、法顕はインドに赴きました。帰国後の法顕は『涅槃経』の一部を訳しましたが、そこで使われた訳語「仏性」は非常に重要です。法顕の少し後には、華北で曇無讖(どんむしん)が『涅槃経』を漢訳し、法顕の訳語を継承しながら「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」という訳を定着させました。この句は、日本の最澄にも多大な影響を与えることになります。

 

<仏教と儒教

 

◆仏教が伝来した時、中国にはすでに儒教道教がありました。

 

魏晋南北朝の時代、儒教の影響力はかなり衰えていましたが、儒教の側は仏教を受け入れ難い思想と考えました。次の二つの点で、大きく異なっていたからです。

 

 ① 儒教には「孝」の思想と連動した「家」の思想(祖先崇拝)がありました。しかし、仏教の場合、ガウタマ・シッダールタがそうであったように、基本的に個人の意思で出家します。仏教は、元来は個人重視でした。

 ② 『論語』にもあるように(「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」)、孔子は現実を見つめることに熱心で、死や死後の世界について論ずることは自らに禁じていました。したがって、「来世」を考える仏教とは相容れませんでした。

 

◆仏教側は、儒教と妥協しなくては中国で布教できませんので、①を受け入れます。僧になることは親や祖先の功徳にもなるのだという考えが生まれました。また、祖先崇拝、「家」の連続性を認めることで、「前世」や②の「来世」の発想につなげていきました。祖先の霊を祭る「盂蘭盆会(うらぼんえ)」(お盆)の習慣は、こうして中国仏教の中に定着し、日本にも伝来しました。

 

◆以上のような仏教側の妥協は、儒教の「修身・斉家・治国・平天下」とも結びつくことになりました。日本古代における「鎮護国家の仏教」は、ブッダの思想から考えると不思議ですが、当時の東アジアではごく普通の考え方であったと思います。

 

◆また、仏教の「縁起」の思想は、個人だけでなく「家」を含めた「因果応報」の考え方となり、広く浸透しました。

 

◆なお、仏教の中国的発展として登場したのが、禅です。もともと禅は、ブッダの悟りの体験そのものの体得を目指しているため、現世利益から独立しているだけでなく(儒教道教との融合から独立しているだけでなく)、荘厳な大乗経典からさえ独立していると言われます。

 

<仏教と道教

 

☆一方、道教には仏教を受け入れやすい面がありました。

 たとえば、

  ① 理想郷としての「桃源郷」という考え方は 、「浄土」に親近性を持っていました。

  ② 理想としての「神仙」(真人)という考え方は、「仏」に親近性を持っていました。

 

☆このため、道教側では、老子ブッダと同一視する考え方が現れました。「老子が天竺に赴き、ブッダとなって戻って来た」とまで言われたそうです。

 

儒教の場合とは違い、道教側は積極的に仏教思想を摂取しました。漢訳仏教用語を多用した、道教思想の補強は、南朝・宋の陸修静によって行われ、隋・唐に引き継がれていきます。(世界史の教科書では、北魏寇謙之が過大に扱われていると思います。)道教寺院では、道教の神仙像と仏像を一緒に祭るようになっていきます。民衆はそのことに何の違和感も持たず、現代に続いています。

 

☆病気治療の祈祷は、太平道五斗米道以来の伝統でした。病気治癒や疫病退散の祈祷などは、仏教側が道教から受け入れたものであったと思います。

 

道教は、儒教の「修身・斉家・治国・平天下」の思想も摂取しました。しかし道教は、仏教や儒教に溶け込んでしまったわけではありません。現世利益を中心としながらも、宇宙の原理としての「道」や「気」の思想は、道教の核となって残ってきました。日本にも伝わった「体の中の気の流れ」という発想などは、道教由来のものです。

 

◆こうして、中国では、儒教・仏教・道教が、融合しながら併存していきました。「三教帰一(三つの宗教の教えは根本的には一つである)」とさえ言われます。

 

 <日本への仏教伝来>

 

◆6世紀の半ば、仏教と儒教を、日本は東アジアの先進思想として受け入れました。ブッダの時代および孔子の時代から、約1,000年が経過していました。(なお、朝鮮三国[高句麗百済新羅]の仏教についても、最近は研究が進んでいるようです。)

 

◆仏教伝来と簡単に言いますが、百済聖明王が日本にもたらしたのは、「仏像と経典」でした。日本人は経典を理解しなければなりませんでしたので、仏教の受容は、漢字文化の受容と一体のものでした。どうしても渡来人の助けが必要だったのです。日本人が漢文を書けるようになるまで、100年以上を要したと思われます。漢字の音読み(中国音読み)・訓読み(和語による読み)、漢文訓読法など、漢字文化の独特の受容が続いていきました。

 

◆古代の日本の場合、三教の中では、仏教の優位性に軸足が置かれました。それを説くために、空海は『三教指帰(さんごうしいき)』を書きました。道教の日本への流入はわかりにくいのですが、それは道教思想が主として詩文(たとえば『文選』)や書画を通して伝わったためだと思います。

 

◆ただ日本の場合は、神々の存在があり、神仏習合という新たな融合が必要とされたのでした。山や岩や大木や滝を「ご神体」としてきた日本人が仏像の礼拝をどのように受け入れていったのか、興味深いところです。金色に輝く像だったため尊崇しやすかったと思われますが、それだけではないようです。もしかしたら、縄文時代土偶への祈りが、人びとの意識の古層にあったのかも知れません。

 

【参考文献】

・高崎直道・木村清孝編『東アジア仏教とは何か』(シリーズ東アジア仏教第1巻、春秋社、1995)

・石井公威『東アジア仏教史』(岩波新書、2019)

神塚淑子道教思想10講』(岩波新書、2020)

鈴木大拙『禅』(工藤澄子訳、ちくま文庫、1987[原著は1965年])