世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★「世界史探究」教科書の検討1[新約聖書の言語①](山川・詳説世界史では)

 

山川出版社の『詳説世界史』は、旧課程版よりは改善されている箇所が多いと思いますが、まだ十分とは言えません。今後さまざまの観点から検討していきたいと思います。(なお、『新世界史』も検討したかったのですが、品切れで手に入りませんでした。予想より採用が多かったのでしょうか? 手に入り次第検討する予定ですが、HPで見る限り、『現代の歴史総合』と同様、問いが多すぎて、授業で使いこなすのは大変だと思います。)

 

◆今回は『新約聖書』の言語とその翻訳について検討します。

 

◆『新約聖書』の記述は旧課程版とほとんど変わりませんが、注(注の位置がページの下の欄から本文の横に変わり、見やすくなりました)で『新約聖書』の内容の説明がなされ、よくなりました。

 

◆『新約聖書』がヘレニズム時代のギリシア語(コイネー)で書かれたことも、明確に述べられています。しかし、以前から指摘してきたのですが、残念なことに、ヒエロニムスによるラテン語訳(400年頃です)についてはまったく触れていません。『新約聖書』がギリシア語で書かれたことだけが強調されています。このため、ローマ帝国の西半分の人びとの言語であったラテン語や中世ヨーロッパの共通語であったラテン語との関連を、高校生は理解しづらいと思います。執筆者・編集者は、『旧約聖書』も含む『ラテン語訳聖書』だけが、中世西ヨーロッパ~中央ヨーロッパの正典だったことを思い返し、ヒエロニムスによるラテン語訳の重要性を再認識してほしいと思います。

 

◆『新約聖書』が、ローマ帝国の東半分の人びとにとっては母語であったギリシア語で書かれたことは、非常に重要です[*]。もしギリシア語で書かれなかったら(たとえば、もしヘブライ語で書かれたら)、ローマ帝国の東半分(東地中海世界)を中心にキリスト教が広まることはなかったでしょう。コンスタンティノープルはもちろん、エジプトのアレクサンドリアやシリアのアンティオキアにも、大きな教会ができたのです。もちろん、このことは、ギリシア語のキリスト教である東方正教ギリシア正教)やビザンツ帝国公用語としてのギリシア語につながっています。

 

[*]詳述は避けますが、イエスギリシア語(コイネー)を話していたわけではありませんので、注意が必要です。<イエスが話していたのは何語だったのか?>や<イエスギリシア語を話していなかったのに、なぜ『新約聖書』はギリシア語で書かれたのか?>という問いは、非常に重要です。ほんとうは、このような問いこそ「探究」にほかなりません。このような問いにこそ、世界史を学ぶ醍醐味があります。これらについては、「世界史の扉をあけると」に何度か書いていますので、ご覧ください。

 

◆また、鋭敏な高校生は、「イエスが処刑された時すでにヘレニズム時代は終わっているのに、なぜ『新約聖書』はコイネーで書かれたのか」という疑問を持つかも知れません。ヘレニズム時代の終わりは前30年(プトレマイオス朝の滅亡)ですが、イエスの処刑は後30年頃、最初の福音書の成立は1世紀後半だからです。きわめて重要なことですが、<ヘレニズム時代の終わり=ヘレニズム文化(ギリシア語文化)の終わり>ではないのです。東地中海世界ギリシア語文化はその後もずっと続きました。『詳説世界史』は(多分他社の教科書も)、このことがわかるように記述されていません。そのため、後1世紀半ば以降パウロの書簡や「福音書」などの諸文書がギリシア語で書かれ、『新約聖書』として最終的に4世紀に成立したことが理解しづらいのです。

 

◆山川の『詳説世界史』に限ったことではありませんが、最初期のキリスト教については、もう少し多角的な記述が必要であると思います。