<野の花とイエス>
◆野の花について述べたイエスの言葉が残されています。「ソロモンの栄華」と野の花を比べた、有名な一節です。
「野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。働きもせず、紡ぎもしない。」(「マタイによる福音書」6章)
◆引用した一節の後、イエスは野の花を「着飾った」と言っていました。やはり、すばらしい感受性の持ち主だったのだと思います。イエスは荒野で活動したような印象がありますが、ナザレにも野の花が咲き乱れていたと思います。イェルサレム周辺とは違い、ガリラヤ地方はやや降水量が多く、今も自然豊かなようです。しかし、「福音書」に野の花の一節があるにもかかわらず、聖母マリアと違って(ブッダとも違って)、人びとが「花々とともにあるイエス」を想像することは困難でした。
◆このようなイエスのイメージは、今から思えば、キリスト教徒にとって不幸なことだったと思います。生の喜びを土台とした倫理よりも、パウロ以来、イエスの十字架上の死(「罪の贖い」)を土台とした倫理に重点が置かれてしまいました。しかし、教義上はともかく、人びとの中には、豊饒と生の喜びにつながる「母なる大地の女神」の記憶が脈々と息づいていたと思います。それが、聖母マリア信仰になりました。14世紀半ばのペストの惨禍によって強められた生の喜びは、ルネサンスの進展とともに人びとの中に溢れました。<その2>でも触れますが、花々とともにあることの喜びも溢れました。
<野の花とその栽培>
◆野の花を愛でる気持ちを、人類はいつから持つようになったのでしょうか? ネアンデルタール人が死者の埋葬時に花を手向けていたとすれば、5万年前ぐらいまでには、花は何らかの精神的価値を持っていたことになります。それは、クロマニヨン人にとっても同じだったと思います。考えてみれば、不思議なことですが、人間は弔意も祝意も花で表してきました。
◆ネアンデルタール人が手向けたのは、埋葬地の周囲の野の花々だったでしょう。では、人間は、いつから花を栽培するようになったのでしょうか? ここ10年ほど、そんな疑問を持ってきました。
◆農耕の始まりは、今から1万年前~9千年前と考えられています。メソポタミア北部からシリアにかけての地域で麦の栽培が始まったとされています。多分少し遅れて、他の地域でもそれぞれ独自の農耕が始まっていきました。中尾佐助は「野生植物の栽培植物化」と呼んでいました(牧畜は「野生動物の家畜化」です)。
◆穀物だけでなく、「花の栽培植物化」という歴史もあったはずです。以前、カルチャーセンターの講座で、大人の方たちに、次のように尋ねたことがありました。少しとっぴな質問のように思われるかも知れませんが、私にとっては、「花と人間」というテーマに関わる大事な問いでした。
Q.穀物の栽培と花の栽培では、どちらが早く始まったと思いますか? 次の①~③のうちから選んでください。
① 穀物の栽培のほうが早かった。
② 花の栽培のほうが早かった。
③ 穀物も花も同じ頃栽培が始まった。
◆いろいろ調べてもわからなかったものですから、どれが正解ということは言えなかったのですが、①と考える人が多いのではないかと予想していました。しかし、③に手をあげた人が多かったのです。「食べ物の栽培のほうが先に決まっている」と考える人はいませんでした。受講者の人たちも、人間にとっての花の大切さは理解していたのだと思います。
◆「人はパンのみで生きるのではない」とすれば、③が妥当な答えなのでしょうか? 今もわかりません。案外②ということもあり得るのではないか、とも思っています。専門の研究者の方が答えを出しているのかも知れませんが。
<花のデザイン>
◆花は、美的な価値、精神的な価値を持つようになり、人間にとってなくてはならないものとなりました。そのため花は、洋の東西を問わず、文様としてデザイン化・象徴化されることになりました。ロゼッタ文様や蓮華文などです。鶴岡真真弓によれば、人びとは花の文様を「生命力のシンボル」として創り出しました(鶴岡が紹介していた、アッシリア王国のロゼット文様のブレスレットはとても印象に残っています)。
◆花や花のデザインは、キリスト教でも仏教でも重要な役割を果たしてきましたし(たとえば「白い百合」、「蓮の花」)、政治的シンボル(たとえば「菊の紋章」)となる場合もありました。19世紀ぐらいから(ヨーロッパで風景画や静物画が独自のジャンルとして確立した頃から)、花や花模様は生命力を表すとともに、精神的豊かさや優しさの象徴ともなって、現在に至っているように思います(たとえば今の日本の「桜」)。
◆ギリシア神話でも、さまざまな花や植物が語られていました。水仙になったナルキッサスの話はよく知られています。アポロンに追われたダフネは月桂樹になりました。
◆愛と美の女神アフロディテ(もともとはキプロス島の豊饒の女神、ローマではウェヌスと呼ばれ、英語ではヴィーナスとなりました) は、サッフォーによって「花の女王」と呼ばれたバラと結びつくことになりました。次のような話が伝わっています。
「愛する美青年アドニスが瀕死の重傷を負った時、アフロディテはアドニスを探して茨の中を駆けました。茨でアフロディテから流れた血によって、白バラが赤く染まりました。こうして、それまで白バラだけだったのですが、赤バラも生まれました。」
◆ギリシア、ローマで愛でられたバラは、中世キリスト教の指導者たちによって、忌避されました。愛と美の女神と結びついた花ですし、トゲは「原罪」を連想させたようです。でも、一般のキリスト教徒にとっては、バラは大切な花でした。カトリック教会にとっても、「花の女王」をキリスト教世界に取り込む必要があったようです。とうとう、トゲを描かないという条件をつけて、バラをキリスト教世界に取り入れました。赤バラを聖母マリアの慈愛の象徴としたのです。中世には、聖母マリアの「謙譲を表すスミレ、純潔を表す白ユリ、慈愛を表す赤バラ」と言われました。
<イスラーム世界のバラ>
◆一方、イラン(7世紀後半にイスラーム圏に入りました)のペルシア語世界でも、バラが称えられました。13世紀の詩人サーディ(『薔薇園』)や14世紀の詩人ハーフィズの詩が知られています。たとえばハーフィズは、「いま花園では薔薇が無から生まれ」と、バラに最大の賛辞を贈っていました。バラの文化は、ヨーロッパだけでなく、イランにも根付いていたのです。
それは現在も変わらないようです。澁澤龍彦は次のように書いていました。
「昔のモスクを近代的に改装した、古めかしく豪華なイスパハーンのホテルの中庭で、私は西瓜のように大きな、中身が黄色くて甘いメロンを食べた。虻の羽音が聞えてくるほどしんとした真昼の中庭には薔薇の花がいっぱいに咲きみだれていて、ふと目をあげると、ホテルのすぐ隣りの神学校の、彩釉タイルの緑色のドームが空にくっきりと浮かびあがって見える。こんなところに一年ばかり、ぼんやりと暮らしてみたらどうだろうと私は考えたものだ。」
◆バラの香りの一つに「ダマスク」がありますが、この名称はシリアのダマスクスから来ています。伝えられるところによると、十字軍の騎士が(もしかしたら、物資や兵士を輸送していたイタリア商人かも知れませんが)シリアから、この香りのバラをヨーロッパに持ち帰ったのだそうです。それ以来、「ダマスクの香り」と言われています。中世ヨーロッパのゴシック様式の大聖堂に見られる「薔薇窓」も、イスラーム建築が起源だという説があります。
◆バラや庭園を通して、ヨーロッパ世界とイスラーム世界の関わりを見直すこともできるのではないか、と思っています。
【参考文献】
・呉茂一『ギリシア神話』(新潮社、1969)