世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★「正解を求めず耐える力」が必要?【 津田大介の論壇時評の危うさ 】

 

◆2020年12月の論壇時評(朝日新聞)で津田大介は、「ネガティブ・ケイパビリティ」について書いていました。「ネガティブ・ケイパビリティ」とは、「容易に答えの出ない事態に耐えうる能力」のことだそうです。この能力の必要性を、「寛容」につなげながら、津田は論じていました。

 

◆もっともな意見だとは思います。ただ、何度読んでも、腑に落ちないものが残りました。いろいろと新しいカタカナ語を使っていますので、何か先端的な議論のように見えてしまいます。しかし、あえて古典的な語を使えば、結局津田は「中庸」を論じているのです。村上陽一郎がコロナ禍について述べた「ネガティブ・ケイパビリティ」という語を広範囲に当てはめようとしたため、津田は「中庸」を説く「道学者」のようになってしまいました。

 

◆変動する時代の渦中で考え方の変革が求められる時、「ネガティブ・ケイパビリティ」という語は非常に保守的な働きもすることを、津田には考えてほしかったと思います。たとえば、「ネガティブ・ケイパビリティ」を「現状を受け入れ、忍従する力」と受けとめることも可能です。津田の考え方は全体として消極的で、「何が正解かはわからない」という相対主義的な方向に傾斜しています。このような思考は、無差別な「寛容」という考え方の誘惑に抗し切れません。「何が正解かはわからないのだ、批判は差し控えよう」という考え方にもつながっていきます。一つの語を、ある文脈から切り離して安易に普遍化しようとすることは、とても危険なのです。

 

◆津田が書いているのは「時評」ですが、いったい何のための「時評」なのかと思ってしまいます。批評家が、新型コロナウイルスの感染拡大のさなかにあって、人びとに「正解を求めず耐える力」を呼びかけることは、はたして適切でしょうか? すでに、人びとは耐えています。耐え続けています。「正解を求めること」は、否定されるべきではありません。「正解を求めながら、政府の対応に怒り、政府を批判すること」は、当然でしょう。

 

◆知識人たちの「ことば」を知的に整理しながら、思想的にニュートラルな装いをまとい、左右どちらからの批判にも対処できるように論じる「時評」を、私たちは求めていません。「ことば」を通して現実にぶつかり、人びとの苦しみを受けとめながら、問題を剔抉するような「時評」であってほしいと思います。

 

◆いま求められているのは、「容易に答えの出ない事態に耐えうる能力」を呼びかけることではないでしょう。私たちは、コロナ禍で、懸命に生活を維持し生き方を模索しています。「耐えながらどうするか」が問われているのです。「困難な事態の中で、知恵を出し合いながら、正解に近づこうとする力」を持とうとしているのです。批評家は、人びとのケイパビリティ(アマーティア・センの言った「潜在能力」をより広い意味で考えています)に思いをはせる、ポジティブな姿勢を持ってほしいものです。津田が最後に紹介していた足立区の出来事は、「寛容」の文脈においてではなく、人びとのケイパビリティが発揮された例として考えるべきだったでしょう。