◆「31年ぶり、0から翻訳」と銘打たれた『聖書』(聖書協会共同訳)が出版されたのは2年前(2018年11月)でした。その翻訳の一部については、拙文(「世界史の扉をあけると」)ですでに述べていますが、今回は、旧訳(新共同訳)にあったアラム語が新訳では削除されてしまったことを取り上げます。
◆問題の部分は、『新約聖書』の「コリントの信徒への手紙一」(パウロがギリシアのコリントスの教会宛に書いた手紙)の末尾です。旧訳と新訳を比較してみます。
<旧訳>
「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。」
<新訳>
「主を愛さない者は、呪われよ。主よ、来りませ。主イエスの恵みが、あなたがたと共にありますように。」
◆「マラナ・タ」がアラム語です(『新約聖書』全体はギリシア語です)。「マラナタ」と表記する場合もあるそうです。訳は数種類あるようですが、「主よ、来り給え(おいでください)」という意味です。
◆この部分が非常に重要だと思うのは、「マラナ・タ」が当時の礼拝の最後に唱えられる言葉だったからです。現在の「アーメン」(もとはヘブライ語です)と同じように唱えられていたのでしょう。田川建三は次のように述べています。
「礼拝のおそらくは最後のところで皆で声をそろえて唱えた重要なせりふであったと思われる。それがアラム語で唱えられたということは、パレスチナの教会は礼拝をアラム語でいとなんでいた、ということだろう。(中略)しかもパウロはこの語をギリシャ語で説明したりしていない。ということはつまり、ギリシャ語のキリスト教会においても礼拝に用いる重要な用語はアラム語のまま伝えられ、用いられていた、ということになる。」(『書物としての新約聖書』)
◆パウロの「コリントの信徒への手紙一」は、50年代半ばに書かれました。イエスの死(紀元後30年)から20数年後のことです。最初期のキリスト教会が、パレスチナのアラム語世界(イエスも弟子たちもアラム語世界に生きていました)から、ギリシア語世界へと発展していた時期でした。ギリシア語の「マルコによる福音書」(『新約聖書』の配列とは違い、四福音書の中で最も古いものです)は、60年代~70年代に書かれたと言われていますが、キリスト教がギリシア語世界でほぼ確立したことを示すものでしょう。過渡期にあった50年代まで、アラム語の「マラナ・タ」が礼拝で使われていても、何ら不思議ではありません。
◆「マラナ・タ」は、最初期のキリスト教がパレスチナのアラム語世界で成立したことを示す語だったのです。どのような意図があって削除したのかわかりませんが、初期キリスト教の歴史の重要な部分を覆い隠すことになってしまいました。残念でなりません。(マルコが書いた、イエスの最後の叫び「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」やゲツセマネの祈りの「アバ」もアラム語ですが、さすがにこれらは削除していません。)
◆なおパウロは、「神から見捨てられるがいい」、「呪われよ」という激しい言葉を使っていました。ユダヤ教徒やキリスト教内部の諸派との論争があったからでしょうが、強い違和感を覚えます。「ヨハネによる福音書」(90年代に書かれました)にも、「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」とか「悪魔である父から出た者である」というような、容赦ない言葉が見られます(8章)。自分たちとは違う考え方に対する不寛容が、すでに『新約聖書』に表れていたと言えるでしょう。
◆『新約聖書』が歴史上の諸文書を編集したものである以上(『旧約聖書』も同じです)、このようなことは避けられません。魔女狩りやガリレイ裁判やユダヤ人迫害が誤りだったように、初期キリスト教徒たちにも行き過ぎや誤りはあったのです。『聖書』は、歴史を超えた、絶対的な「聖なる書物」ではありません。しかも、「マラナ・タ」の例でわかるように、ほとんどの日本人が接するのは、翻訳というフィルターを経た『聖書』です。
◆私は、特に「マルコによる福音書」のイエスに敬意を抱いてきましたが、キリスト教の不寛容の歴史もいやというほど知ってきました。ファンダメンタリズムから自由なクリスチャンが数少ないことも……。『聖書』が歴史上の重要文書の翻訳であることを踏まえた、他の宗教にも寛容なキリスト教信仰であってほしいと願っています。
【参考文献】