世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

☆ユーラシアの歴史の中の<阿修羅>☆

 

興福寺の阿修羅像は、多くの人びとを惹きつけてきました。8世紀(奈良時代)の彫刻ですが、まるで生きているようにさえ見えます。阿修羅像の何が私たちを惹きつけるのでしょうか? 阿修羅像は何を祈っているのでしょうか?

 

◆仏教の守護神としての<阿修羅>には、不思議な歴史がありました。

 

◆<阿修羅>は、古代インドのバラモン教(紀元前1000年頃までには成立したようです)では、最高神インドラと対立した、闘争を好む鬼神とされました。そのような神話から、わが国でも、悲惨な争いが繰り広げられる場を「修羅場」と呼んできたわけです。

 

◆その<阿修羅>は、しかし、インドで6~7世紀に成立した密教の中では、悔い改めて仏法を守る存在になりました。そして、中国、日本へと伝わってきたのです。

 

◆もともと<阿修羅>はサンスクリット語 asura の音訳(漢訳)ですが、古代イラン語の ahura と同じ語と考えられています。アスラ(=アフラ)は、「光り輝く聖なる力」を意味していました。ちなみに、古代イランで成立したゾロアスター教の光明神・善の神の名は、アフラ・マズダでした。宗教学者エリアーデは、「インドラがアスラ(アフラ)を屈服させ、その聖なる力を自分のものにした」と、バラモン教ヴェーダを解釈しています。

 

◆歴史を、さらにさかのぼってみます。イランに移動したアーリヤ人も、インドに入ったアーリヤ人も、ユーラシア中央部の草原地帯から移動してきたのでした。紀元前2000年紀のことです。西方へ移動した、のちのヨーロッパ人も、同じくユーラシア中央部にいた人々でした。そこから、「インド=ヨーロッパ語族」と総称されています。

 

◆多分、太陽信仰を母体としながら、ユーラシア中央部の草原地帯で、「光り輝く聖なる力」という観念が生まれたのだと思います(オリエントでも同様の考え方が生まれていました)。イランでは「光り輝く聖なる力」がアフラ・マズダとなり、インドではその力はインドラ(ギリシア神話のゼウスに同定されています)に吸収されたと考えられます。そして「光り輝く聖なる力」は、やがて、仏教の図像の光背やキリスト教の図像の後光に表されるようになりました。のちのヨーロッパでは、理性もまた光に譬えられたのでした。

 

◆古くは「光り輝く聖なる力」を表していた<アシュラ>。興福寺の阿修羅像も、その力を引き継いでいるのでしょう。阿修羅像は合掌しているように見えますが、実はわずかな隙間があります。阿修羅像の両手に包まれるようにして、「光り輝く聖なる力」は、今も生まれ続けているのかも知れません。

 

◆ユーラシアの歴史を身に帯びながら、阿修羅像は、仏法を守る(=世界を守る)ために、祈っています。

 

【参考文献】

エリアーデ世界宗教史Ⅰ』(荒木美智雄・中村恭子・松村一男訳、筑摩書房、1991)

鶴岡真弓『阿修羅のジュエリー』(理論社、2009)

中村元ほか編『岩波 仏教辞典』(岩波書店、1991)