世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★文化をめぐって <唯物史観的なもの、教科書、グローバル・ヒストリー>

 

☆非力を省みず、大きなテーマを掲げてしまいました。論点も広範囲にわたっています。注は簡潔なほうがいいのですが、長くなってしまいましたので、読みづらいと思います。ただ、舌足らずの内容でも、書いておいたほうがよいと考えました。大きく、次のような構成になっています。

  1 世界史における文化

  2 「唯物史観的なもの」と文化

  3 教科書の文化史記述と用語精選の問題

  4 グローバル・ヒストリーと文化

 

 <1>世界史における文化

 

◆世界史の授業の中で文化をどう取り上げるかは、私にとって大きな課題であり続けてきました(*1)。私の場合、文化をその時代全体の中に位置づけて授業を構成しないと(文化と政治・社会経済・国際関係とを関連させて授業を構成しないと)、充実感を感じませんでした。そのささやかな試みの跡が、<世界史の扉をあけると>や<世界史の扉をあけると2>になっています。しかし、世界史の教員をはじめ、世界史に関わる多くの人が、文化(史)を軽く見ていたのが実情です。かつては(今も?)、政治史や社会経済史に重点をおき、「文化史にはあっさり触れて次の単元に移る」というような授業が普通でした。

 

◆ある教科書会社の編集者から世界史についての原稿を依頼され、古代末期から中世にかけてのキリスト教に関する短い文章を書いたことがありました。その時、原稿を読んだ編集者が「文化史ですね」と言ったので、驚きました。「編集者もそうなのか」と思ったものです。古代末期から中世にかけてのキリスト教を取り上げるということは、とりもなおさず、その時代の政治・経済・社会・文化の重層性を検討することなのですが、そのような理解はなかったのです。ただそれは、ごく一般的な受けとめ方だったと思います。

 

◆歴史研究者でも、文化を軽視する方はいました。数年前、教科書記述に関する集まりで、大阪大学桃木至朗は「ハイカルチャーは嫌いです」と述べていました。社会史や心性史(*2)の成果を踏まえ、文化史が広く深く捉え直されてきましたので、「ハイカルチャー」・「ローカルチャー」などという区分自体が有効性を失っていたのですが、「文化史は重視しない」と強く言いたかったようです。桃木は、新しい研究領域にも目配りはありましたが、古い文化観を引きずっていたのでした。片言隻句をとらえているわけではありません。ここには、図らずも、世界史教育の課題が表れていました。政治・経済・社会・文化を重層的に捉えようとする視点がないのです。(*3)。

 

◆先日、評論家の山崎正和氏が亡くなり、鷲田清一が追悼文を書いていました(*4)。その中で、山崎氏の『「文化に対する疼くような熱情」こそ、現代の日本の教育に欠けているものだ』という言葉が紹介されていました。1997年の著書に書かれた言葉のようです。 文化を時代全体の中に位置づけるために苦心してきましたので、「ハイカルチャーは嫌い」という言葉はずっと胸に突き刺さってきたのですが、山崎氏の言葉には救われたような気がしました。

 

(*1)私がここで使用している文化という語は、言語・宗教・美術・音楽・文学・思想などを指しています。ただ根本的には、文化は「人びとが生きるうえでの世界の捉え方、みずからの価値体系と判断、行動の仕方の総体」【福井憲彦歴史学入門』(岩波書店、2006)】のことです。

 

(*2)「心性」は、アナール派などによって使われた語で、「人びとのこころの、自覚されない隠れた領域から、感覚、感情、欲求、さらには価値観、世界像に至るまでの、さまざまなレヴェルを包み込む広い概念」【二宮宏之『全体を見る眼と歴史家たち』(木鐸社、1986)】とされました。意味があまりに広過ぎたからでしょう、現在の日本ではほとんど使われなくなりました。しかし、私は「心性」から歴史を見る観点を大切にしています。

 

(*3)学者同士の相互批判は、なぜか活発ではありません。桃木が中心となって出版した『市民のための世界史』(大阪大学出版会、2014)にも、もっといろいろな議論があってよかったと思います。この本にも、文化軽視はきわめてよく表れていました。たとえば、ごく普通に考えて、ギリシア・ローマ文化にほとんど触れない「市民のための世界史」、「市民が読める教養としての歴史」などあり得ないでしょう。また、ヨーロッパ中心史観を否定したいためだったとは思いますが、「アジア事大主義」的な偏りもありました。このテキストで授業を受けている大阪大学の学生たちが、広い視野で批判的に受けとめてくれるよう願っています。

 

(*4)鷲田清一「逆説で語り続けた<自由>」(朝日新聞、2020年8月23日付)

 

<2>「唯物史観的なもの」と文化

 

桃木至朗の文化史軽視という考え方の中には、多分、唯物史観の「上部構造-下部構造」論(とても便利な二分法です)が入り込んでいたと思います。今ではほとんど使われない語ですが、冷戦終結(1989)前まで、唯物史観的な考え方【物質的基盤[生産力や生産関係」=下部構造を重視する歴史の見方】(*5)は、日本の歴史研究者や歴史教育者に、一定程度浸透していました。桃木は、若い頃その影響を受けた世代だったかと思います(*6)。唯物史観的な考え方では、文化は「上部構造」として軽視されましたので、桃木はそれを受け継いで「ハイカルチャーは嫌い」という表現をしたのでしょう。なお民衆史という分野が注目されていましたが、今考えれば、唯物史観的な考え方の新しいヴァージョンだったかも知れません。一方、唯物史観に疑問を持った人たちは、一見イデオロギー性がないと思われた「実証主義」か、社会史に惹かれていったと思います。

 

◆東欧社会主義政権崩壊~ソ連邦解体という出来事は、日本にも大きな影響を与えました。大学のマルクス主義経済学は退潮していきました。歴史研究者・歴史教育者にも大きな影響がありましたので、「唯物史観」はなくなったように見えました。しかし、その後も、「唯物史観的なもの」は生き延びたのかも知れません(7)。文化の軽視という、言わば「唯物史観的なものの残滓」は、特に世界史教育の現場では、強力に続いたように思われます。「文化に対する疼くような熱情」は、ほとんどなかったと言っていいでしょう。「唯物史観的なものの残滓」は、一時流行した世界システム論にも見られました。桃木至朗の場合は、「残滓」にとどまらないかも知れません。新しい研究領域に取り組みながらも、「唯物史観」を保持しようとしてきたと思われます(8)。一方、社会史などの影響は、教育現場では、日本史に比べると限定的だったと思います。社会史や心性史を世界史の授業に組み込む難しさがあったためでしょう。社会史や心性史は、歴史の見方を豊かにしましたが、歴史「全体を見る眼」(*9)にどうつなげるかは難しい課題として残ってきました。

 

◆「上部構造-下部構造」という古い用語をあえて使いますが、文化は時代の動き全体(政治や経済、国際関係[協調、侵略、戦争])と深く絡まり合っていて、単なる上部構造ではありません。下部構造(物質的基盤=経済的土台)中心に歴史を見ることはできますが、それは歴史の一面です。経済と文化の密接な関連は、たとえばマックス・ヴェーバーなども考えてきたところです。広く深い意味での文化は、歴史「全体を見る眼」に不可欠であり、物質的基盤もまた、そこから捉え返されるものだと考えています。(*10)

 

◆いま世界を覆っている新型コロナウイルス感染症は、歴史の中で何度も出現した疫病の一つですが、上部構造でも下部構造でもないでしょう。そして、上部構造にも下部構造にも重大な影響をもたらすものです。また、歴史におけるジェンダーセクシュアリティの問題も、単なる文化の問題でも物質的基盤の問題でもないでしょう。「唯物史観的(なもの)」や「その残滓」で歴史を捉えることの困難は、誰の眼にも明らかだと思います(*11)。

 

(*5)「唯物史観」と「唯物論」は区別しています。後者には、まだ可能性があると考えています。

 

(*6)詳しく述べるほどの知識はありませんが、桃木より上の世代でも、二宮宏之や樺山紘一のように、唯物史観にとらわれない、柔らかで深い知性を持った方々はおられました。羽田正は、桃木と同世代だと思いますが、唯物史観へのこだわりからは自由だと思います。そうでなければ、グローバル・ヒストリーの傑作『東インド会社とアジアの海』(興亡の世界史15、講談社、2007)を著すことはなかったでしょう。

 

(*7)私が述べている観点とは別の観点から、このことへの、誤解を含んだ強い反応がありました。「自由主義史観」です。現在、「自由主義史観」の偏狭なナショナリズムは退潮したようにも見えます。ただその主張は、一定程度、ゆるやかに人びとに浸透したかも知れません。「自由主義史観」を一刀両断に切り捨てることは簡単ですが、日本文化の深層にも関連していて、根は非常に深いと思います。説明は省きますが、エコロジカルな発想や若松英輔などの「霊性主義」(スピリチュアリズム)も、ナショナルな感情を支えてしまうのではないかと危惧しています。歴史認識ナショナリズムの問題には、外交も政治も経済も文化も心性も深く絡まり、単に普遍主義を対置するだけでは対応できない複雑さがあります。

 

(*8)『市民のための世界史』の中では、エンゲルスの『家族・私有財産および国家の起源』の紹介に1ページを割いていました。21世紀の「市民のための」世界史テキストに、エンゲルスの著書を大きく取り上げるのは珍しいことだと思います。また、現在の社会主義国家を批判しながらも、「資本主義批判としての社会主義理論は、今日なお意味を失っていない」と、その立場を明らかにしていました。現在はこの考え方を封印したのかどうか、わかりませんが。

 

(*9)二宮宏之、前掲書。「全体を見る眼」という表現は、世界システム論などに親和性を持つように見えるかも知れませんが、多分そうではありません。彼の「全体を見る眼」とは、歴史の構築的見方ではなく、ミクロへの眼差しを大切にしながら多角的に全体を捉える眼、言わば「重層的につながる世界の発見」のことだったと思います。そして、文化は、多分「重層的なつながり」そのものなのです。生きておられたなら、グローバル・ヒストリーについても、大切な視点を提示されたのではないでしょうか。 

 

(*10)フランスの歴史家ジャック・ル=ゴフは、文化に対する見方(=歴史に対する見方)を、より洗練された言葉で、次のように表現しています。

 「言葉や観念や想像世界を、物質構造に劣らずヨーロッパの感情的基盤を形成しているものとみなし、これを重視する立場を本書は採用している。」

 【ジャック・ル=ゴフ『ヨーロッパは中世に誕生したのか?』(菅沼潤訳、藤原書店、2014)】

 

(*11)文化との関係で「唯物史観(的なもの)」について述べてきました。誤解があるといけませんので、補足しておきます。「社会主義理論」は意味を失っていると思いますが、「マルクスの思想に学ぶものはない」というような立場ではありません。

 

<3>教科書の文化史記述と用語精選の問題

 

 ◆現行の「世界史B」教科書の文化史記述について述べておきます。数々の問題点がありました。大まかに、4社の教科書を比較してみます(以前「世界史の扉をあけると」に書いた記事と重なります)。 

 

 ●実教出版版は女性史についてのコラムを載せ、意欲的でした。ただ文化史の部分の多くは、1960年代頃の教科書の文章をそのまま使っているのではないかと思うほど、古色蒼然としています。日本の中国侵略などは鋭く記述しているのですが、文化史の新しい研究成果を取り入れるという熱意はないのです。このアンバランスに「唯物史観的なものの残滓」がよく表れています。

 

 ●桃木至朗の関わっている帝国書院版は、中央ユーラシアの記述などに優れた面があるものの、文化史の記述は最も貧弱です。「文化に対する熱情」はなく、「唯物史観的なもの」が色濃い教科書です。そのためでしょう、他社と違い、本文にも注にもジェンダーの視点が感じられない教科書でした。改訂版で、アリバイのように、ジェンダーの特集記事を追加しましたが、本文そのものに問題があるように感じられます。

 

 ●叙述に歴史の重層性を感じさせるのは、東京書籍版です。文化史に関する文章の質も高いと思います。新しい視点(「ラテンアメリカクレオール文化」など)も盛り込んでありました。19世紀末~20世紀初めの文化についても、適切に記述されています。ただルネサンスの取り上げ方は、残念でした。ルネサンスを中世ヨーロッパの最後に位置づけたため、シェークスピアガリレオ・ガリレイなど、16~17世紀の人物までも、中世末期で扱うことになってしまいました。

 

 ●山川出版社版(詳説)は最も標準的な内容で、教員は教えやすいと思います。しかし、19世紀末~20世紀前半の文化については手薄なままです。不思議なことですが、現代史にはかなりのページ数を割きながら、現代文化についてはごく簡単にしか触れないという状態が続いています。メキシコ絵画運動などにも触れて新しさを出そうとはしていましたが、現代史を「文化も含めて重層的・総合的に見る」という視点が弱いのです。

 

◆教科書記述については、南京虐殺従軍慰安婦などの問題にだけ焦点が当たってしまいます。文化史を含め、幅広く検討すべきでしょう。ほんとうは、教科書記述のあり方について、執筆者同士で活発に議論が交わされるといいと思います。しかし、いろいろな忖度がはたらくのでしょう、「批判的検討はお互いにしない」という暗黙の了解があるようで、残念です。

 

◆現行の教科書が執筆・編集されてから、10年が経過しています。今は、新課程の「歴史総合」や「世界史探究」、「日本史探究」の教科書編集が最終段階でしょう。ようやく「唯物史観的なものの残滓」が払拭され、文化史を含めて内容的に刷新されるのではないかと期待してきたのですが、そう簡単ではないかも知れません。

 

◆心配されるのは、高大連携歴史教育研究会(現在の会長は桃木至朗)の動きです。研究会は、「歴史系用語精選案」なるものを発表しました(2017)。クレオパトラ坂本龍馬が入っていなかったこともあり批判を浴びたのは、記憶に新しいと思います。私は、この精選案に「唯物史観的なものの残滓」を感じていました。クレオパトラ坂本龍馬の削除は、「唯物史観的なもの」からすれば、何ら不思議ではないのです(翌年修正されたようですが)。ただ、現在、高大連携歴史教育研究会がどういう性格の研究会になっているか、測りかねています。そのサイトを見ると、用語精選に関連して「武田信玄山梨県のご当地ネタだが北海道や沖縄ではどう扱うべきか」などと書いてあって、歴史の研究会として大丈夫なのだろうかと思ってしまいました。

 

◆より根本的な問題は、民間の教育研究団体が歴史用語精選という統制的発想を持ったことです。文部科学省に対抗して(と共に、かも知れません)、教科書の記述に影響を及ぼしたいのでしょう(*12)。たいへん危険なものを感じました。歴史用語は歴史観に深く関わっていますので、用語の精選は歴史観の統制、思想統制につながりかねません。そのようなことを、民間の教育研究団体が行うべきではないのです。民間教育研究団体が、歴史用語を統制することを通じて権威をふりかざし、「研究の自由・教育の自由」を脅かすというような、おぞましいことが起きないよう願っています。

 

(*12)すでに新課程の教科書に影響を及ぼしているかも知れません。詳しい経緯はわかりませんが、高大連携歴史教育研究会は、日本学術会議などとのつながりから、文部科学省との連携に入っている可能性があります。設立当初から、「日本の歴史教育に影響力を持ちたい」という野心を感じていました。どのようなかたちであれ、「政治化」することは危うい道だと思います。

 

<4>グローバル・ヒストリーと文化

 

◆20世紀末からのさまざまな探究をグローバル・ヒストリーと概括すれば、かつて二宮宏之が提示した「全体を見る眼」(ミクロを見ながらマクロを捉える、多角的で重層的な見方)は、グローバル・ヒストリーの中に生かされているように思われます。歴史をグローバルに見た場合も、文化は、政治や経済、国際関係(協調、侵略、戦争)と相互に浸潤し合っています。文化を考えないグローバル・ヒストリーはあり得ません。また、「グローバル」と言う語は、空間的な広がりを意味するだけでなく、時間的な重層性も含意するようになっています。たとえば、私にとっては、次のようなテーマが重要となっています。

  ●「ヘブライズム・ヘレニズム・ラテン文化とキリスト教

  ●「メキシコのグアダルーペの聖母信仰とスペイン支配」

  ●「イギリスのインド侵略とジョーンズによるインド=ヨーロッパ語の発見」

  ●「啓蒙主義植民地主義とプラントハンター」

また、羽田正も『東インド会社とアジアの海』で取り上げていましたが、16世紀後半~17世紀初めの日本における「キリシタンの増加と禁教」は、世界史教育に携わる日本人としては、避けて通れないテーマだと思っています。

 

◆近年のグローバル・ヒストリーにおいては、一見矛盾するようですが、ローカルなレベルも重視されていることに注目しています。ローカルな動き、ナショナルな動き、グローバルな動きの相互性とそれぞれの独自性という問題(*13)は、非常に重要だと思います。このことを、やや別の文脈での表現ですが、長谷川貴彦は「差異に基づく地域的多様性こそが、人びとの移動を促し、グローバリゼーションを活性化するというパラドクスとして現象していく」(*14)と述べていました。それは、仏教の伝播と変容、16世紀の東アジア・東南アジア海域などにも、よく表れていると思います。

 

◆学問分野が細分化されている中で、グローバル・ヒストリーという流れが出てきたのは非常に興味深いことです。今まで、大学には世界史という学問分野はなく、「世界史の研究者」はほとんどいなかったのです。周知のように、研究者はみな、ローマ史、インド史、中国史、イギリス史、ロシア史、アメリカ史、東南アジア史、イスラーム史などの専門分野に分かれてきました。先史から現代までの世界史を、通して教えたことのある研究者は、ほとんどいなかったでしょう。不思議な気がしますが、高校の教員だけが、苦闘しながら、先史から現代までの世界史に取り組んできたのです。したがって、グローバル・ヒストリーは、大学の旧来の歴史研究分野を揺るがすだけでなく、高校世界史に新たな光を当てるような流れなのだと思っています。

 

◆現在のグローバル・ヒストリーの諸成果と世界史教育は、今後どう結びついていくでしょうか? 私は、グローバル・ヒストリーに学びながら、「心性史」を過去のものとせずに、「重層的につながる世界の発見」へと近づきたいと思っています。気候変動や生態系にまで歴史研究の領域が広がっていますので、歴史教育においても、「生きた世界と紡ぎ得る関係を感じる能力、それを表現する言葉」(*15)を大切にしなければならない時代なのだと思います。

 

 (*13)スヴェン・ベッカート「綿と資本主義のグローバルな起源」【成田龍一・長谷川貴彦編『〈世界史〉をいかに語るか』(岩波書店、2020)所収】

 

(*14)長谷川貴彦「物語論的転回2.0」【成田龍一・長谷川貴彦編同上書、所収】

 

(*15)関口涼子が紹介している、哲学者バティスト・モリゾの言葉。【関口涼子「五感を取り戻し世界を味わう」(朝日新聞、2020年8月29日付)】