世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★「黒人女性副大統領候補」に、サフラジェットやローザ・パークスを思う

 

アメリカ民主党の副大統領候補にカマラ・ハリス上院議員が決まったというニュースがありました。4年前の大統領選挙でヒラリー・クリントンが敗れた時、多くの人から「やはり女性の大統領は無理なのか」という嘆息がもれたようでした。ただ、女性の政界進出は日本よりはずっと進んでいますし(*1)、「ミシェル・オバマ待望論」さえありましたので、今回黒人女性副大統領が誕生しても何ら不思議ではありません。(現状では「黒人」という呼び方しかないのでしょうが、カマラ・ハリスは「カリブ・インド系」とでも呼びたい気持ちです。)

 

◆「黒人女性副大統領候補」は、女性たちや黒人たちの闘いの歴史と無縁ではありません。数々の困難や紆余曲折がありました。その歴史の一端を、サフラジェットと黒人女性の行動や言葉から探ってみます。両者に直接の関連はありませんが、女性参政権運動の歴史と黒人差別撤廃運動の歴史の結び目に「黒人女性副大統領候補」は位置していると思うのです。

 

◆数年前、あるイギリス文学研究者から、サフラジェット( Suffragettes )という語を教えてもらいました。サフラジェットについては、うかつにも、それまでまったく知らなかったのですが。

 

◆サフラジェットとは、19世紀末から20世紀初めのイギリスで、女性参政権を求めて激しく闘った「女性参政権活動家」たちのことです。穏健な女性参政権協会全国同盟もありましたが、怒れる女性たちは、1903年、エメリン・パンクハーストを中心に、女性社会政治連合(WSPU)を結成しました。私は観ていませんが、日本では、2017年公開の映画「未来を花束にして」で一般に知られるようになったようです。

 

◆サフラジェットが活動を始めたころ、イギリスの植民地ニュージーランドでは、史上初めて女性参政権が実現していました(1893年)。オーストラリアでも、本国より早く女性参政権が実現しました(1902年)。サフラジェットは、このような背景の中で活動したのでした。やがて、イギリスの女性参政権は、第一次世界大戦を経ながら、1918年、1928年と、2段階で実現しました。(*2)

 

◆サフラジェットについては、法を犯す戦術も取ったため毀誉褒貶がありますが、やはりメアリ・ウルストンクラフトが出た国で起きた運動だったと思います。ウルストンクラフトが『女性の権利の擁護』を執筆したのが1792年でした(前年フランスのオランプ・ド・グージュは「女性および女性市民の権利宣言」を発表していました)。その100年後に、サフラジェットは活動したことになります。そのような歴史があったからこそ、1979年サッチャー首相も誕生したのでしょう。

 

◆ミドルクラスのイギリス女性の過激な行動(投石、選挙妨害、ハンガーストライキ、競馬場での自死など)は、イギリスのみならず、ヨーロッパの男性たちの女性観を揺るがすものでもありました。その運動は「外国の反女性参政権論者にも脅威となった」(*3)のです。

 

◆サフラジェットによる硬貨損傷も知られています。1ペニー硬貨の国王エドワード7世の横顔が刻まれた上に、「 VOTES FOR WOMEN 」と打刻したのでした。どのくらいの数を造りどのくらい流通したのかわかりませんが、彼女たちの思いの激しさがわかります。これはもちろん犯罪でしたが、驚いたことに、このペニー硬貨は大英博物館の所蔵品となっているのでした(*4)。イギリスという国の懐の深さがわかります。女性社会政治連合(WSPU)結成100周年の2003年には、政府により、記念の50ペンス硬貨も発行されたそうです。

 

アメリカでも、19世紀半ばから女性参政権を要求する運動が起きていました。イギリスの運動の影響もあったと思いますが、1904年3月にはニューヨークでデモが行われました。ただ、運動には人種問題が複雑に絡んでいました。この頃南部では、クー・クラックス・クランなどによる、黒人に対するリンチが吹き荒れていたのです。アメリカでの憲法修正による女性参政権実現は1920年でしたが、南部の黒人たちは、男女とも選挙権登録から締め出されていました。

 

◆1955年、公民権運動の端緒となったバス・ボイコット運動が起きました。一黒人女性の勇気ある行動がきっかけとなったのでした。黒人女性の名はローザ・パークスアラバマ州モントゴメリーで、彼女が白人にバスの座席を譲らなかったたため、警察に逮捕されるという事件が起きました。バスの座席は白人専用席(前4列)と白人優先席(5列目以降)になっていて、混み始めた場合5列目以降に座っていた黒人は白人に席を譲らなければならなかったのです。しかしパークスは、人種差別に抗議する気持ちからそれを拒否し、逮捕されたのでした。パークスの行動に共鳴した黒人たちから、人種差別のバスをボイコットする運動が起き、この運動に26歳の牧師キングが加わりました。65年前のことです。人種差別は、今年も「ブラック・ライヴズ・マター」の運動が起こらねばならなかったほど深刻ですが、公民権運動の歴史がなければ、バラク・オバマもカマラ・ハリスも登場できませんでした。

 

◆サフラジェットのやむにやまれぬ活動から100年余り。アメリカにおける女性参政権実現から、ちょうど100年。公民権運動の本格化から65年。今回のアメリカ大統領選挙は、歴史的に重要なものとなりました。カマラ・ハリスが副大統領候補になったことにより、性差別の克服と人種差別の克服が同時に問われることとなったからです。

 

◆1939年、黒人女性メアリー・マクラウド・ベシューンは、次のように述べていました。

 「私たちは、法のもとにおける平等という民主的原理のために、機会均等、投票権の平等、生命・自由・幸福の追求のために闘ってきました。自由の中から誕生し、すべての人間は平等に造られているという原理に捧げられた、一つの国家を維持するために闘いました。そうなのです。私たちはあらゆる不完全性を備えたアメリカのために、現在のアメリカのためではなく、将来なりうると私たちが信じているアメリカのために闘ってきたのです。」(*5)

 

◆81年前の言葉ですが、今のアメリカの多くの人びとも、同じ思いでいるのではないでしょうか。性の違いと肌の色の違いで政治的リーダーの適格性を判断するようなことは、まもなく打ち破られるに違いありません。 

 

(*1)関連する国の、国会議員に占める女性の割合

      ニュージーランド  40.8%

      オーストラリア   36.6%

      イギリス      30.2%

      フランス      37.2%

      アメリカ      23.7%

      日本        14.4%

     [ globalnote.jp (2020.2.18)による]   

(*2)なお、日本での『青鞜』の創刊は1911年です。1924年には婦人参政権獲得期成同盟ができました。女性参政権の実現は、敗戦後まもなくの1945年12月でした。

(*3)三成美保ほか『ジェンダーから見た世界史』(大月書店、2014)

(*4)ニール・マクレガー『100のモノが語る世界の歴史3』(筑摩選書、2012)[打刻されたペニー硬貨と記念の50ペンス硬貨の写真が載っています。]

(*5)メアリー・マクラウド・ベシューン「アメリカの民主主義は私にとって何を意味するか」[荒このみ編訳『アメリカの黒人演説集』(岩波文庫、2008)所収]