世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

▼デモクラシーを考える(中国化の誘惑? 日本学術会議の問題)

 

★いま世界中で、デモクラシーがあらためて問われているように思います。デモクラシーという語は、古代ギリシアの<デモクラチア>から来ています。デモクラチアは、もともと<デーモス(民衆)のクラチア(力)>の意味でした。

 

★<デーモス(民衆)のクラチア(力)>を政治にどう生かすことができるか-その探究が、古代アテネ以来の、そして17世紀イギリスの社会契約論以来の、世界の歩みだったと思います。

 

★しかしどの時代も、<デーモス(民衆)>は均質ではありませんでした。現在のアメリカでは、<デーモス(民衆)>が二極分化しています。現代の<デモクラチア>はどうなっていくのでしょうか? 

 

朝日新聞「GLOBE」(2020.October)のアメリカについての記事は、それを「真ん中が細る」と表現していました。ある学生は、超リベラルと超保守の『二つの「心の狭い人びと」に挟まれ、ちくしょう!という気分だ』と語っていたとのことです。現在の日本でも、「心の狭い人びと」が増える可能性があります。

 

◆最近、菅首相(まだ所信表明演説もしないまま月日が流れています)は、日本学術会議の新会員に6人の学者を任命しませんでした。政治的器量の乏しさが表れてしまったと思います。安倍政権時代から人事介入があったということですが、政権側に学問的営為へのリスペクトがあれば、このようなことは起きなかったでしょう。学問的営為へのリスペクトなどより、マキャヴェリスティックな権力行使の誘惑のほうが勝っているのでしょうか? それとも、学問的な営為への強い怖れなのでしょうか?

 

◆任命を拒まれた6人全員についてよく知っているわけではありませんが、少なくとも宇野重規加藤陽子は、日本のことを深く考える、誠実な学者だと思ってきました。「彼らが排除されるということは、日本が中国化しているということなのかも知れない」と思ったりします。政治的指導者にとっては、「習近平のような権力」は魅力的なのでしょう。「自由と民主」の党の総裁であることを、菅首相も支持者も忘れ、中国化に舵を切っているのであれば、日本も「真ん中が細る」ことになります。

 

習近平は、言わば「中華人民共和国皇帝」という矛盾に満ちた地位にあります。習近平が「中国共産党に従順な<デーモス>」という一極化政策を強力におし進めているのは周知のとおりです。「真ん中」を主張しただけで職を解かれたり、逮捕されたりする人が続出しています。日本社会が中国のように一極化していったら、戦前・戦中のようになるでしょう。そもそも、日本学術会議は、戦前・戦中の学問・思想の弾圧の反省の上に立って設立されたものでした(1949年)。そのため、「日本学術会議は独立して職務を行う」(日本学術会議法第三条)と規定されたのでした。

 

菅首相は、日本学術会議が政府への提言・勧告機関であることを否定し、諮問機関にしたいのでしょうが、それでは日本学術会議法に違反することになります。「独立して職務を行」い、「政府に勧告することができる」(第五条)機関だからこそ、学術会議の推薦の通りに会員を任命してきたのでしょう。「推薦通りの任命」などあり得ないという意見もあります。しかし、内閣総理大臣は「独立して職務を行う」機関であることを保障しなければなりません。今回の菅首相の措置は、「独立して職務を行うことはできない」と言っているに等しく、日本学術会議法に違反しています。言わば、学問と政治の「ソーシャル・ディスタンス」を適切にとるための知恵として、「推薦通りの任命」が行われてきたのだと思います。

 

日本学術会議側も政府側も、「内閣総理大臣が所轄する」(第一条)「独立した機関」という特異な位置づけを、深く考えずにきたのではないかと思います。この特異な位置づけは、学問と政治の関係に関わる<デモクラチア>のあり方を示しているのではないでしょうか。そこでは、「政府が学問的なチェック機能を日本学術会議に求める」という<デモクラチア>の理想形が考えられていると思います。

 

日本学術会議のあり方をめぐって、議論が起きるのはいいことでしょう。しかし、トランプの影響なのか、一定の方向に煽り立てるような議論をする人たちもいるようです。日本の<デーモス(民衆)>の二極分化=社会の分断を招くような(「真ん中が細る」ような)議論をするのは、きわめて危険です。

 

◆ただ、日本学術会議側にも問題があったように思います。長年、今の制度に安住してきたのではないでしょうか? 会員は、国から給与をもらいながら、名誉職のような地位に胡坐をかいてきたのではないでしょうか? 襟を正すべきは正さないと、<デモクラチア>の理想形はすぐに崩されてしまいます。 

 

菅首相には、日本学術会議という特異な機関の存在意義を再認識し、推薦通りの任命を行う度量を示してもらいたいと思います。日本学術会議法は、「学問的なチェック機能」を受けとめる度量と識見を、内閣総理大臣・政権に求めている法律なのです。もし政権交代が起きても、それは変わりません。このような特異な位置づけの機関を生かすことができれば、日本に<デモクラチア>を根付かせ、日本の<デモクラチア>を発展させることができるはずです。

 

アメリカのような二極化も、中国のような一極化も、日本がとるべき道ではありません。<多様な「真ん中」が分厚く存在するような国>であってほしいと思います。

 

【追記】(2020.10.7)

 きのう、今日の報道によれば、自由民主党日本学術会議のあり方を検討する作業チームを発足させるとのことです。今回の問題を機に、日本学術会議を壊滅させるか、大きく変質させる方向に踏み出すのでしょう。自由民主党がリベラルな保守政党であればと思ってきたのですが、そんなことを願うのはもう無理なのでしょうか? 中国が「人民共和国」でないように、自由民主党も「自由と民主」を忘れ、ひたすら中国化への道を歩もうとしているのかも知れません。