世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

[コロナ禍のメモ]<人間>を忘れないで(「新しい生活様式」)

 

 2020年5月4日、政府の専門家会議は、新型コロナウイルスの感染拡大を長期的に防ぐために「新しい生活様式」を提示しました。テレワークやオンライン会議、ローテーション勤務などは、「コロナ後」も続いていくものかも知れません。

 

 外出時のマスク着用、人との間隔2メートル、横並びでの食事なども、現状ではやむを得ないものでしょう。ただ、これらが「新しい生活様式」として提示されていることに、違和感を感じざるを得ません。これらは、私たちに身体・精神活動の委縮を強いる「現状ではやむを得ない生活様式」のはずですが、「新しい生活様式」と名づけられました。

 

 人との間隔2メートル、横並びでの食事などが、本来は非人間的なものであることが忘れられています。「フェイス・トゥ・フェイス」や「スキンシップ」は忌避すべきものとなってしまいました。もしかしたら、男女の性的接触もまた、忌避すべきものとされてしまったのかも知れません。「新しい生活様式」では、スポーツも含め、オンラインでは代替できない、大切な人間的諸活動があることは、伏せられています。

 

 「子ども同士の身体接触を経験しない子どもたち」を考えられるでしょうか? しかし、いま子どもたちは、身体接触を禁じられた生活を一定期間過ごしています。それが「新しい生活様式」として長期化した場合、どのような身体的・精神的影響が及ぶことになるのでしょうか?

 

 政府や専門家会議にとっては、国民はさまざまの活動の能動的主体であるよりも、管理されるべき身体の群れとなっているのでしょう。ミシェル・フーコーが言っていた「生ー政治( bio-politique )」とはこのようなものなのか、と感じています。近代国家が持ってきた、そのような面が、危機の中で顕在化しているのです。

 

 非常事態宣言が解除されていない東京都や神奈川県で日曜日(5/17)に人出が増加したのは、人びとの正常な反応だったと思います。長期に萎縮を強いることへの、「欲しがりません、勝つまでは」的なものへの、自然な拒否反応だったのではないでしょうか。東京都知事はたびたび「緩み」に言及しています。その気持ちは理解できますが、都民は一人一人個性を持った人間であり、管理されるべき身体の群れではないことを認識すべきでしょう。

 

 感染への不安は根強くあります。しかし、これ以上人間の身体・精神活動を委縮させてはならないのではないかという気持ちも、人びとのなかに広がっていると思います。それが、「自粛の解除」、「経済活動の再開」という声となって表れているのです。新型コロナウイルスとの戦いが長期化するのであればなおさら、感染拡大を防ぐ努力と同時に<感染していない多くの人たちの活動に道を開く工夫>が必要だと思います。萎縮に代わる、そのような工夫を「新しい生活様式」と呼ぶべきでしょう。