世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★「祭典」の魔力(フランス革命、ナチズム、そして五輪)

 

◆2021年の東京オリンピックパラリンピックは、感染拡大の懸念が増す中、強行開催されるようです。「負の遺産」とならなければいいのですが。

 

フランス革命、ナチズム、オリンピックを一緒くたにして論ずることの危険性は承知しています。自由・平等を掲げ封建的諸制度の息の根を止めたフランス革命と、血・鉄・ホロコーストで野蛮の極に至ったナチズムとでは、性格はまったく違います。まして、「スポーツの祭典であるオリンピックをフランス革命の祭典やナチズムの祭典と同列に論じるなど、とんでもない」と思われる方も多いでしょう。

 

◆ただ、フランス革命の祭典、ナチズムの祭典、オリンピックというスポーツの祭典は、「政治的祭祀」[*1]による国民統合という点では、共通しているように思われます。オリンピックの場合は、今やグローバルな資本の動きと不可分ですが。

 

[*1]ナチズムの祭典を、ジョージ・L・モッセは「政治的祭祀」と呼んでいました。【ジョージ・L・モッセ『大衆の国民化』(佐藤卓己佐藤八寿子訳、ちくま学芸文庫、2021)】

 

フランス革命における祭典は、パリをはじめ各地で開催されました。1793年11月「理性の神殿」(ノートルダム大聖堂はこのように改名されました)で行われた「理性の祭典」、1794年6月に行われた「最高存在の祭典」などが有名ですが、すでに1790年7月14日、バスティーユ陥落1周年を記念した「連盟祭」が開催されていました。国王ルイ16世をはじめ、10万人以上が参加したと言われています[*2]。フランスという「国民国家」が「祭典」を通して形成されていったのでした。「政治的祭祀」の有効性を誇示することにもなりました。

 

[*2]7月18日から20日にかけては、バスティーユの跡地で、なんと舞踏会まで開かれました。竹中幸史『図説フランス革命』(河出書房新社、2013)に、舞踏会の様子を描いた絵が載っています。

 

◆ジョージ・L・モッセの前掲書によれば、「祭典」を通じた国民統合の試みは、プロイセンでも19世紀前半から(ウィーン体制下で)始まっていました。最初は、キリスト教の儀式にナショナリズムを接ぎ木した「祭典」だったようです。そして、この動きを巧みに発展させたのがヒトラーでした。

 

ゲルマン人の精神と肉体を高揚させる「聖なる空間」をつくるため、ナチ党の大規模集会では行進、体操競技、ダンス、演説[*3]が不可欠なものとなったと、モッセは述べています。体操競技やダンスが組み入れられていたことには驚かされます。なぜ身体活動が「祭典」に必須のものとなったのでしょうか? そこには、ヨーロッパ人の歴史意識の深層が表れていました。ゲルマン人の鍛えられた肉体は「ギリシア人の美しい身体」を継承するものだと考えられたのでした。

 

[*3]ヒトラーの演説の特徴を、モッセは次のように述べています。

 『ヒトラーの演説は論理的に構成されていることが多かったが、内的な論理は声のリズムと躍動でぼかされていた。このため、聴衆は演説の論理を情緒的に感得していた。つまり、実際の内容を把握するでもその意味を熟考するでもなく、聴衆は闘志と信念のみを感じ取った。群集はよどみない弁舌そのものに心を奪われ、演説の内容を吟味するどころか演説を「生きた」のである。』【モッセ前掲書】

 もしかしたら、昨年のアメリカ大統領選挙におけるトランプの大規模集会でも、同じような現象が起きていたのかも知れません。トランプの大規模集会は、聴衆の熱狂を呼び起こす「政治的祭祀」だったと思われます。

 

◆ナチ党の「祭典」以降、身体活動は「政治的祭祀」の中に埋め込まれました。そしてオリンピックは、まさしく、理想化された「ギリシア人の美しい身体」を聖化するものとして発展してきました。オリンピックが非宗教的な祭典であるにもかかわらず、日本語で「聖火」という語が使われるのは、多分そのためなのでしょう。写真家の藤原新也は、この点について『英語なら単純に Olympic Flame と言うところ、「聖火」と神がかった語を使う日本社会を考えさせられた。そこには嬉々として一丸となり、五輪を崇め奉る、独特の感性がないだろうか?』と述べています[*4]。

 

[*4]藤原新也「風景を人を変えてしまう五輪」(朝日新聞、2021年6月22日付)

 

◆いつ、だれが「聖火」と名づけたのかわかりませんが、それに何の疑問も感じないできた私たち日本人の心性は不思議です。日本では、スポーツの祭典は「ハレ」として、したがって「聖なるもの」として、受け止められてきたのかも知れません。そこに「ギリシア人の美しい身体」という観念の魔力も 加わったのでしょう。

 

◆「聖火」という語に象徴されるように、オリンピックは日本における「政治的祭祀」として大成功しました。1964年には日本から沖縄が除外されていたことも忘れてしまうほどに。

 

◆今また、政治・経済・「聖化」された身体活動は一体となって、「祭典」が展開されようとしています。