★このテーマの趣旨については(その1)で述べてあります。恣意的な資料の選択に見えると思いますが、問題意識の所在はわかっていただけるでしょう。読み物として読んでいただいても楽しめると思います。
資料9[宗教改革期のイコノクラスム(聖像破壊運動)]
『モザイクや壁画、祭壇画や彫刻、ステンドグラスなど視覚芸術と、聖歌隊による音楽、薫香に満たされた壮麗な聖堂の空間は、貧しい庶民にとって、「神の国」へと思いを馳せるよすがとなったことでしょう。聖堂の内部は、この世にあってこの世ではない場所、この世に出現した「神の国」であったのです。
ところが、この地上の「神の国」から礼拝の対象であるキリストや聖母マリア、聖人たちが姿を消してしまうという事態が起きます。(中略)モーセの第二戒を思いおこしてください。プロテスタントにとって、キリスト像やマリア像を礼拝する行為は「偶像崇拝」とうつったのです。旧来の信仰形態を否定する民衆の熱狂は高まり、時には暴徒と化して聖堂を襲い、聖像を破壊したり、燃やしたりする行為に走りました。その結果、新教の聖堂からは、絵画や彫刻が姿を消すという事態へと発展していったのです。』
◆高校の世界史教科書では、宗教改革期のイコノクラスムについて触れられることはありません。8世紀のビザンツ帝国の聖像禁止令だけが取り上げられるということが、長く続いています。しかも、ビザンツ帝国の聖像崇拝が9世紀には復活したことは触れられないままです。
◆宗教改革期のイコノクラスムを授業で伝えることは重要です。それが伝えられないと、生徒たちはプロテスタントとカトリックの違いをイメージできないでしょう。宗教改革期のイコノクラスムを理解してはじめて、ネーデルラントなどでの風景画・静物画の発展もわかるようになります。
◆現在では「聖像破壊を行うのはイスラーム過激派」という印象があるかも知れませんが、キリスト教世界でも聖像破壊があったのです。日本でも、明治初期に「廃仏毀釈」が行われました。聖像破壊は文化財の破壊でもありました。
◆高校の世界史教科書が(一般書でも同じ傾向があります)、宗教改革期のイコノクラスムに触れてこなかったのは、なぜなのでしょうか? プロテスタント系の学者にとっては「触れられたくない過去」なのかも知れませんが、歴史研究・教育にタブーがあってはならないと思います。
◆資料にはあげませんでしたが、永田諒一『宗教改革の真実 カトリックとプロテスタントの社会史』(講談社現代新書、2004)は、カトリックにもプロテスタントにも偏らない、すばらしい本です。第6章で、イコノクラスムについて述べられています。
◆なお、修復が終わった、ファン・エイクの「ヘントの祭壇画」は、信徒たちによって隠され破壊を免れたため、現在に伝わったということです。
『この壁画が除幕された当時(1541年)の人々の反響は予期せぬものであった。ローマに遣わされていた使者がマントヴァの枢機卿に宛てた書簡には次のようにある。「こうした場所に恥部を見せつける裸の人物が描かれているのは不謹慎だ。」また、まだ完成前のことだが、教皇パウルス3世に従って壁画を目にした教皇庁の儀典長も、「いとも荘厳な場所にたくさんの裸体像を描いたのはなんとも不敬なことだ。」と批判した。(中略)
(またドルチェの『絵画問答』[1557]でも次のように批判された。)「いったい貴方には、こうした絵(「最後の審判」)が見る者の心に信仰心をかきたて、神聖なるものの観想へと人を高めると思えるのかね。」(中略)
1563年、トレント公会議最終の第25総会で発布された「聖人の執り成しと崇敬、聖遺物、そして聖画についての教令」では、カルヴァン主義の聖像否定運動に抗して聖画像を擁護するべく、画家たちの「誤謬」に対して警告がなされる。』
*一部人名を略して引用させていただきました。
【水野千依『対抗宗教改革と「マニエラ」の変容』[『西洋美術の歴史4 ルネサンスⅠ』(中央公論新社、2016)所収]
◆授業でも生徒たちに伝えてきましたが、「最後の審判」の肉体表現はギリシア的なものが土台になっています。ミケランジェロは、やはりキリスト教とギリシア・ローマ文化の統合を考えていたのだと思います。強烈な罪の意識がうねるような肉体の群像を通して表現されました。
◆不幸なことに、この作品が完成した1541年は、カトリック教会がすでに対抗宗教改革に踏み切った時期でした(教皇がイエズス会を正式に認可したのは1540年です)。そして、1545年から63年まで、断続的にトリエント公会議が開かれます。ミケランジェロが亡くなったのは1564年ですから、ミケランジェロの晩年は対抗宗教改革が本格化する時期でした。
◆「最後の審判」の肉体表現への批判は、ルネサンスの終焉を意味していました。カトリック教会は、絵画や彫刻に厳格な宗教性を強く求めました。したがって、聖母マリア像も変化していきます。中世後半から民衆の信仰を集めた「授乳の聖母」像は姿を消していきました。
「1492年3月には、占領したアルハンブラ宮殿においてカトリック両王が全ユダヤ人改宗令に署名しました。ユダヤ人は、改宗をこばむならば財産を処分して国外に出なければなりませんでした。こうして数万のユダヤ人がキリスト教に改宗、7~10万人が追放されました。(1480年には隠れユダヤ教徒を見つけ出すため)教皇の許可のもと、異端審問所がつくられていました。」
【池上俊一『情熱でたどるスペイン史』(岩波ジュニア新書、2019)】
「エスピノサの一家は、1492年ユダヤ人追放令によりスペインからポルトガルに移住し、1498年そこでカトリックに改宗したと言われている。こうして一家は、表面的にカトリックに服従しながら、心のなかでは相変わらずユダヤ教を信ずる新キリスト教徒になった。このようなユダヤ人は、宗教的にも民族的にも構造化された旧キリスト教徒から、マラーノ(=豚)という蔑称で呼ばれたのである。」
【小岸昭「スピノザのなかのマラーノ性」(『現代思想』1996、11月臨時増刊号)所収】
◆イベリア半島のレコンキスタは、ネーデルラントやイタリアのルネサンスと同時に進行していました。レコンキスタの完了(1492年)は、イスラーム支配からの解放でしたが、同時にユダヤ教徒追放でもあったことは重要です。スペイン王国(1479年成立)は、カトリックの主権国家として純化する道を選び、そこには暴力による異教徒追放がともなっていたのです。そもそも、レコンキスタは、十字軍と同じく「聖戦」と位置づけられていました。
◆1492年は、コロンブスが女王イサベルの援助を受けて、スペインの港を出発した年でもありました。スペイン人の意識としては、インディアス(=アメリカ大陸)への「進出」は、レコンキスタの延長上にあったのかも知れません。このような「キリスト教的熱狂」が、アメリカ大陸の先住民にも向かったのでした。
◆「ルネサンス、宗教改革、主権国家形成」の授業でもユダヤ人を取り上げておくことは重要です。そうでないと、たとえば、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』なども理解できません。ヨーロッパ史には、ずっと「ユダヤ人問題」があります。
◆キリスト教会による異端排除は、その成立期から見られますが、近世になっても激しく続きました。ツヴィングリの流れから生まれたと言われる再洗礼派は、他のプロテスタントからも弾圧されました。「魔女狩り」は、カトリックによってもプロテスタントによっても、行われました。
◆一方、「マラーノ」たちは、16世紀後半、異端審問が強化されたポルトガルからも逃れることになります。最大の移住先はオランダ、特にアムステルダムでした。ユダヤ人は、キリスト教徒と平等ではなかったものの、ゆるやかに許容されて社会のメンバーとなっていました。少し後のことになりますが、アムステルダムのユダヤ人社会からも追放されながら(1656年)、独自の哲学を築いたのがスピノザでした。文中の「エスピノサの一家」は、スピノザの祖先たちです。