世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★ノストラダムス -医師・占星術師・改宗ユダヤ人-

 

◆先日の新聞に五島勉氏が亡くなったことが報じられていました。1973年に出版されてベストセラーとなった『ノストラダムスの大予言』の著者でした。

 

ノストラダムスは、予言者としては忘れられてもいいでしょう。ただ、混乱の16世紀フランスを生きた人物としては、記憶にとどめておいたほうがいいのではないかと思います。ノストラダムスは、<宗教・社会・自分の生き方>の複雑な絡み合いを考えさせてくれるからです。以下の、ノストラダムスの生涯の記述は、おもに渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』(岩波文庫、1992)に基づいています。

 

ノストラダムスは、1503年南フランスのプロヴァンス地方に生まれました。由緒あるユダヤ系の家門の出であり、祖父の代にキリスト教カトリック)に改宗していました。迫害を免れるために、改宗せねばならなかったのでした。スペインではユダヤ人迫害の嵐が吹き荒れていましたが、フランスでもそのような動きがあったのです。

 

◆なおノストラダムス[Nostradamus]はラテン名で(当時はまだラテン語式に呼ぶ習慣があったようです)、フランス語ではミシェル・ド・ノートルダム[Michel de Notredame]です。フランス語でノートルダムは「聖母マリア」のことですが、どうしてそのような名になったかというと、もともとは生まれた町の通りの名まえかも知れないということです。

 

ノストラダムスは、当時の向学心に燃えた青年たちと同様、フランス各地の大学を遍歴しました。アヴィニョントゥールーズボルドーモンペリエなどで、医学や法学を学びました。のちに医師としてペストなどの防疫活動にあたり、プロヴァンスで名医として信望される一方、次の本を出版して、フラン中に名まえを知られるようになりました。

  ・『化粧用品・果物砂糖煮について』(1552、家庭用衛生治療書)

  ・『予言集』(1555、占星学に基づく予言書)

 

◆その結果、カトリーヌ・ド・メディシスの信任を得るところとなり、1555年、宮廷の侍医となったのでした。カトリーヌの夫、アンリ2世の治世のことです。4年後の1559年、アンリ2世は、馬上槍試合にのぞみ、相手の折れた槍が右眼を貫通するという事故のため、亡くなりました。この時、人々は、『予言集』の中の「老いた獅子が若い獅子に負かされてむごい死に方をする」という一節を思い出したということです。

 

◆1564年には引退して、故郷のプロヴァンスに戻りました。引退後まもなく、カトリーヌ・ド・メディシスが、王シャルル9世、アンリ・ド・ナヴァルとともに、プロヴァンスノストラダムスを訪れたというのですから、よほど信頼が厚かったのでしょう。ただ、少し不思議な感じもします。もうユグノー戦争は始まっており(1562~)、アンリ・ド・ナヴァルとは後のアンリ4世なのですから。

 

◆1566年、ノストラダムスは63歳で亡くなりました。莫大な財産を残したようです。

 

カトリックに改宗したユダヤ人として、16世紀のフランスを生きたノストラダムスカトリックユグノーカルヴァン派)の激しい争いが始まっていました。ユグノーからは陰険なカトリックと見なされたり、カトリックからはにせカトリックと思われたりする状況がありました。当時のカトリックの指導者たちは、エラスムスさえ異端とみなしていたのです。「愚劣な人間の狂信と不寛容」に巻き込まれないよう、ノストラダムスは細心の注意をはらっていたようです。

 

◆栄誉を手にしたノストラダムスですが、改宗ユダヤ人の生き方を考えさせられます。祖父の代の改宗とはいえ、なんらかの傷跡は心に残っていたかも知れません。しかし、カトリックとして生きねばなりませんでした。ユグノーの友人を持つことさえ危険でした。そのような微妙な立場とユダヤ人の血が、ノストラダムス占星術を究めさせようとしたのかも知れません。

 

渡辺一夫は「世間一般の人々よりも違った軸によって思考するということもユダヤ的と言えるならば、ノストラダムスにもモンテーニュにも、一貫したものがあるような気がします。」と述べていました。モンテーニュ(1533~92)にも、改宗ユダヤ人の血が4分の1流れていました。

 

◆スペインでは、フランスとは違った表れ方をしたようです。スペインの改宗ユダヤ人の家系からは、神秘主義で名高い、アビラのテレサ(1515~82)が現われました。修道女テレサの内向する情熱は神秘体験となりました。一方、根本的な改宗をせずにポルトガルからオランダに逃れたユダヤ人の家系からは、のちにスピノザ(1632~77)が出ました。彼は、ユダヤ教会からも破門されたのち、汎神論的な『エチカ』を著しました。いずれも、「世間一般の人々よりも違った軸によって思考」した人たちだったと思います。<ユダヤ性>と「違った軸による思考」を常に結びつけることは危険ですが。

 

◆私のような、ごく一般的な日本人にとっては、<宗教・社会・自分の生き方>が絡み合う状態は、なかなか考えにくいものです。しかし、<宗教・社会・自分の生き方>が絡み合った状態は、日本の古代から中世までずっと続いていました。それを仏教史、神道史などと名づけると、少し遠いものになってしまいますが。

 

◆さらに、新たな状態が、16世紀後半から17世紀前半にかけて出現しました。キリシタンの増加です。ヨーロッパとは違う様相ではありましたが、日本でも「宗教戦争」があったのです。日本で絵踏みが始まったのは、ユグノー戦争の終結からまもなくの時期でした。日本の精神風土の中の、一見「違った軸」が、潜伏キリシタンとして続きました。

 

◆改宗したユダヤ人として生きたノストラダムスを考えながら、日本の歴史に話が飛んでしまいました。しかし、<宗教・社会・自分の生き方>の絡み合いは、日本の歴史とも無縁ではないのです。そのような絡み合いは、実は、今の日本にもあるのではないかと思っています。多分、あまりにも生活文化の中に浸透しているため、可視化されないだけなのです。