★このテーマの趣旨については(その1)で述べてあります。恣意的な資料の選択に見えると思いますが、問題意識の所在はわかっていただけるでしょう。読み物として読んでいただいても楽しめると思います。
資料5[イタリアが受けた衝撃(ネーデルラント絵画)]
「ブリュージュのトンマーゾ・ポルティナーリも、ヒューホ・ファン・デル・フースに大型の祭壇画を描かせた。北方ルネサンスの主要都市ブリュージュにあったメディチ銀行を切り盛りしていたフィレンツェ出身のポルティナーリは、この祭壇画を、北方の大画家に描かせ、フィレンツェのサンテジーディオ聖堂のために送ったのである。(中略)
1483年に北方からフィレンツェにもたらされた際、この大型の祭壇画(横幅は5メートル86センチもある)が人々に与えた衝撃は、もしかしたら依頼主ポルティナーリの予想をはるかに超えるものであったかもしれない。フィレンツェの画家たちは、祭壇画のなかに描き込まれたこれほど正確きわまりない細部描写を、それまでほとんど見る機会がなかったからである。
たとえば、草木や、花を活けたガラスの器の透明感など、この北方の徹底した自然主義は、当時のイタリアの常識を覆すものであった。また、ポルティナーリ家の人々の肖像表現やキリスト降誕の場を訪れた羊飼いたちの野卑ともいえるほどの描写は、イタリアの理想主義的な表現とは異なり、その結果多くの追随者を生むこととなった。」
【遠山公一『西洋絵画の歴史Ⅰ ルネサンスの驚愕』(小学館101ビジュアル新書、2013)】
◆ヒューホ・ファン・デル・フースの「ポルティナーリ祭壇画」(現在はウフィツィ美術館蔵)については、申し訳ありませんが、パソコン、スマートホンなどでご覧いただきたいと思います。すばらしい絵画です。
◆「ルネサンスと言えばイタリア」というのが多くの人の受け取り方だと思います。しかし油絵技法も、ネーデルラントからイタリアに伝わりました。ネーデルラント美術のとらえ返し、ネーデルラントとイタリアの交流の重視が、近年の研究の流れのようです。
◆シリーズの2冊目でも、高橋裕子がこの祭壇画を取り上げ、宗教画から静物画・風俗画への移行を論じており、たいへん興味深いです。
資料6[フランソワ1世の王権強化と文化政策]
『(フランソワ1世が1539年に出したヴィレール・コトレの王令には、教区簿冊作成義務づけのほかに)もう一つとても重要な法令が含まれています。それは公文書にはフランス語の使用を義務づける法令です。
ローマ帝国の支配下にあったガロ・ローマ期以来、この王令が出されるまで公文書にはすべて「ラテン語」が用いられてきました。ラテン語は当時のヨーロッパの共通言語であり、教会言語でもありました。それがこの王令以降、すべて「フランス語」で記されることになったのです。
そのため「フランス語」というものの正統性ということが、これ以降非常に強く打ち出されるようになっていきます。このとき始まった動きは、17世紀になると「アカデミー・フランセーズ」という今も続く組織の創設に繋がり、正統なフランス語を確立するための文法の整理や単語の確認が行われていきます。(中略)
さらにフランソワ1世は1530年に、現在の「コレージュ・ド・フランス」という、国立の特別高等研究機関の前身にあたる「王立教授団/コレージュ・ロワイヤル」創設に繋がる組織を設置しています。(中略)
フランソワ1世は、たいへんしっかりした教養の持ち主であった母后ルイーズ・ド・サヴォワと、2歳年上の姉マルグリット・ド・ヴァロワの強い影響下に育てられたのですが、この2人の女性は、ルネサンスの文化、学識を身につけた才女だったのです。(中略)
1516年、ボローニャ政教協約が結ばれた、フランソワ1世と教皇レオ10世の会談に招かれた人物がいます。レオナルド・ダ・ヴィンチです。フランソワ1世は、そのときダ・ヴィンチを招聘したと言われていますが、詳しい事情はわかっていません。(中略)
フランソワ1世は他にもイタリアからルネサンス期に活躍していた建築家や技術者をフランスに連れてきています。(中略)彼らがその後のフランスで、知的、文化的発展に寄与したことは間違いないので、これもイタリア戦争のひとつの恩恵と言えるのかもしれません。』
【福井憲彦『教養としてのフランス史の読み方』(PHP研究所、2019)】
◆文中のボローニャ政教協約は非常に重要なもので、これによりフランソワ1世は、フランス国内の高位聖職者の任命権をフランス国王が持つことを、教皇に認めさせました。カトリック教会からの分離というかたちではありませんでしたが、国家教会体制(フランスではガリカニスムと呼びます)を成立させたのでした。ルターの「九十五か条の論題」発表の前年の出来事でした。まもなくイングランドでは、カトリック教会からの分離により国家教会体制(「イギリス国教会」という日本語訳によく表されています)が成立します。
こうして考えると、アルプス以北では、形態は違うものの、カトリック教会からの自立は、すでに大きな流れだったのかも知れません。
神聖ローマ帝国では、1555年のアウクスブルクの和議で領邦教会体制が成立しますが、これも国家教会体制のヴァリエーションの一つと言えます。
◆フランソワ1世の死(1547)後、ヴァロワ朝は極めて困難な時期を迎えます。薄命な王たちとカトリック対ユグノーの血みどろの抗争とが重なりました。
◆なお、フランソワ1世の姉マルグリットは、ナヴァル公妃となりました。激動の時期に、多くの知識人を庇護した女性として知られています。彼女の娘がブルボン家に嫁ぎ、生まれたのが後のアンリ・ド・ナヴァルでした。彼こそ、ユグノー戦争に終止符を打ったアンリ4世にほかなりません。フランソワ1世の姉マルグリットは、アンリ4世の祖母だったのです。
『(中世から)ブリテン諸島の男女はきわだって信仰深かったとされるが、教会と聖職者が人びとの生活と心を完全に掌握していたのではない。ウィクリフやロラードの心性が生きていて、まもなく宗教改革を下から支えることとなる。またネーデルラントからライン川中流域の「敬虔な人びと」との交流が重要だった。』
「重要な決定(ヘンリ8世の上訴禁止法・首長法)は専制君主の布告ではなく、法律すなわち国王と議会の共同行為としてなされた。行政官、議員、聖職者が命をかけたのは国王の浮気心ではなく、国家と教会の将来であり、正嫡の王子であった。(上訴禁止法・首長法を起草した)トマス・クロムウェルはまたプロパガンダ冊子やビラを大量に印刷配布し、ローマ教会の迷信や贖宥状を攻撃し、教皇庁からの自立を訴えた。」
『プロテスタンティズムはエドワード6世のもとで急速に進んだ。(中略)クランマ大主教は「共通祈祷書」を定めて礼拝をラテン語から英語にかえ、1549年、議会で「信仰統一法」を成立させた。全国の教会における祈祷のしかたを議会で定めたのである。模範説教集も刊行された。旧教派とラディカルな改革派のいずれにも不満を残す折衷だったが、共通祈祷書も模範説教集も美しい近世英語で表現され、国民の心の琴線にふれた。』
◆イングランド宗教改革の実際のすがたがよくわかる叙述だと思います。「ヘンリ8世が離婚問題から個人的に始めた」わけではありません。首長法は、行政官・議員・聖職者が国王と一体となって推進し、議会で制定されたものでした。王令ではなかったのです。そしてそれを、中世から続く、人びとの敬虔な信仰心が支えたのでした。
◆メアリ1世の短いカトリック政策の後、「旧教派とラディカルな改革派のいずれにも不満を残す折衷」を、エリザベス1世も選択しました。こうしてイギリス国教会が確立したのですが、エリザベス1世の時代からピューリタンが徐々に増えていきます。ちょうどフランスでナントの王令が出された時期でした。
◆ルターの『新約聖書』ドイツ語訳だけが取り上げられる傾向にありますが、資料7のフランス語、資料8の英語にも目配りがあれば、豊かな近世ヨーロッパ像に近づけるのではないかと思います。
◆文中の「敬虔な人びと」とは、どういう人たちでしょうか? 資料8でその一端を見てみます。
資料8[「新しい敬虔」というムーヴメント]
『「新しい敬虔」は、助祭司ヘールト・フローテの先導によって14世紀にフランドルに生み出された。この運動は、当時の聖職者たちの堕落を悲観し、行き過ぎたり退廃した知性重視の思弁的神秘思想、唯名論、エリート向けの宗教に対して、反思弁的で反修道会的な信心のあり方を掲げた改革的動勢である。(中略)
この動向において、思弁主義的傾向に対して彼らが重んじたのが「瞑想」の実践であった。(中略)「新しい敬虔」は、過度なまでに主知主義的傾向に陥った当時の状況を憂慮した結果、むしろ教義よりも主観的で情動的な瞑想の実践に新たな強調点をおいて、さらにそれを修道院の柵を超えて一般信徒に普及させていく道を切り拓いたのである。』
【水野千依『イメージの地層』(名古屋大学出版会、2011)】
◆水野によれば、このムーヴメントの中で、たくさんの「在俗信者むけに俗語で書かれた宗教作法書」が作られ、普及していったそうです。
◆このことは、中世末期に、識字力のある下級聖職者や商人層などの読書経験が一定の広がりを持っていたことを示すものです。女性にも読書が勧められるようになっていきます。それは、受胎告知の絵画において、マリアが聖書を読む姿で描かれるようになったことにも、現われています。
◆宗教改革では、ルターやカルヴァンに目が行きがちです。ただ、そうなると、宗教改革史は「偉人史」になってしまいます。「偉人史」は、「英雄史観」のヴァリエーションの一つです。
◆最近は、どういう大きな地下水脈の中から彼らが現れたのか、と考えるようになりました。日本ではまだ研究途上のようですが、地下水脈の一つが、ネーデルラントからラインラント、イタリアへと広まった「新しい敬虔」だったことは間違いないと思います。このネーデルラントの水脈が、資料8で見たように、イングランドの人々にも影響を与えました。また、そのような水脈の中から、エラスムスも現れたのでしょう。
◆ジャック・ル・ゴフによれば、「新しい敬虔」の影響は、イエズス会の信仰内容にも見られるということです。[ジャック・ル・ゴフ『ヨーロッパは中世に誕生したのか?』(菅沼潤訳、藤原書店、2014)]
[(その3)につづく]