世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★ユグノー戦争(1562~98)直前のフランス

 

◆16世紀フランスの内乱であるユグノー戦争では、サンバルテルミの虐殺(1572)とナントの王令(1598)が,よく知られています。

 

◆授業時間の制約もあり、高校の世界史では、なぜ内乱に至ったのか、防ごうとした人はいたのか、どういう国際情勢の中で起きたのかなどは、なかなか取り上げることができません。ただこれらは非常に重要ですので、大きく2つに分けて書いておきたいと思います。

 

<1>何が起こっていたのか

 

  ① フランソワ1世により国家教会体制[ガリカニスム]成立(1516)

  ② ルター、宗教改革開始(1517)☆

  ③ ルフェーブル・デタープルによる『新約聖書』のフランス語訳(1523)

  ④ イングランドで首長法発布(1534)◇

  ⑤ 檄文事件(1534)

  ⑥ カルヴァン、『キリスト教綱要』を発表(1536)

  ⑦ カルヴァンジュネーヴ神権政治(1541~64)

  ⑧ イエズス会教皇により認可(1540)

  ⑨ カトリック側、トリエント公会議開催(1545~63)

  ⑩ 神聖ローマ帝国アウクスブルクの和議成立(1555)☆

  ⑪ イングランドのメアリ1世、カトリックを復活(1553~58)

  ⑫ フランス・カルヴァン派第1回全国会議(1559)

  ⑬ イングランドで統一法発布(1559)◇

  

 ①について

  教皇レオ10世との間に結ばれたボローニャ政教協約により、フランス国内の高位聖職者の任命権をフランス国王が持つことになりました。フランスは、④⑫とは違うスタンスで主権国家形成に向かっていきました。

 

 ③について

  ルターによる『新約聖書』ドイツ語訳と、ほぼ同じ時期です。ここから、フランスにおける福音主義(広い意味での聖書重視派)の活動が活発になり、のちのカルヴァン派ユグノー)の広がりの土台となりました。

 

 ⑤について

  カトリックを誹謗するビラが各所に張り出された事件。フランソワ1世の寝室の扉にも張られたということです。福音主義に比較的寛容だったフランソワ1世は、取り締まりに転じていきます。ガリカニスムの国王と福音主義の対立は激しくなり、1540年代には数十人が処刑されていました。

 

 ⑥について

  イングランドの首長法と同じ時期に、カルヴァンが登場しました。ラテン語で書かれ、スイスのバーゼルで出版されました。重要なことは、まもなくフランス語版が出たことです。1541年にフランス語版がジュネーヴで出版され、カルヴァンの主張がフランスに広まることとなりました。カトリックの牙城であったパリ大学神学部は、『キリスト教綱要』を禁書にして対抗します。

 

 ⑦について

  カルヴァンは、1550年代の半ばから、ジュネーヴで養成した牧師を次々と母国フランスに派遣して勢力を拡大し、⑫につながります。農民を除いて、各階層に広まりました。重要なのは、官僚層・貴族層にも信者が増えたことです。

 

 ⑧⑨について

  ルターの改革やイングランドの首長法の時期と異なり、フランスにカルヴァン派が増えていった時期は、カトリック側が総力をあげて対抗改革に踏み出した時期と重なっています。カトリック側も信仰心が高揚しつつあり、それだけ、対立は先鋭化したと言えます。また、ユグノー戦争の時期は、カトリックの大国スペインの最盛期に重なっています(フェリペ2世の在位は1556~98)。

 

 ⑩について

  領邦教会制を、④首長法・⑫統一法やナントの王令と比較して考えることが大切です。のちのウェストファリア条約(1648)で明確になる領邦主権につながる動きでした。

 

 ⑪について

  イングランド史の一挿話のように扱われますが、強烈な5年間であり、大主教を含む300人のプロテスタントが処刑されました。“ Bloody Mary ” の記憶はイングランド国民の中に残り続けました。メアリ1世はフェリペ2世と結婚し、短い旧教同盟が成立したのでした。

 

 ⑬について

  ユグノー戦争は、イングランドのエリザベス1世の時代(1558~1603)と重なっています。エリザベス1世は統一法で「ローマ」と「ジュネーヴ」の中間のプロテスタントの道を選びました。しかし、メアリ1世の記憶の生々しい時ですから、カトリックへの対抗意識は強烈でした。カトリックのスペインと対抗するためにも、ユグノーを支援します(イングランド国内にピューリタンが徐々に増えていくのもこの時期です)。スペインは当然カトリック側を支援しました。ユグノー戦争は、国際的な宗教戦争でもあったのです。なお、カルヴァン派の多いネーデルラント北部がスペインとの戦いに入ったのは、ユグノー戦争開始からまもなくのことでした(1568)。

 

<2>宰相ロピタルの試みの挫折

 

◆ミシェル・ド・ロピタルは、歴史の中に埋もれてしまいましたが、重要な人物だと思います。1560年(フランソワ2世の時)から1568年(シャルル9世の時)まで、フランスの宰相だった人です。カトリックユグノーの争いが激化する中で、カトリーヌ・ド・メディシスに請われて就任し、彼女によって解任されました。解任の4年後には、サンバルテルミの虐殺(1572)が起きました。

 

◆ロピタルは、フランス・カトリックの代表としてトリエント公会議にも出席しました。ただ、教皇の異端糾問裁判所設置の要請を巧みに拒みました。そして、1560年末にオルレアンで開かれた三部会では、次のように演説しました。

  「ルッター派とかユグノー派とか教皇派とかいう徒党分派を表す呪わしい言葉はやめにして、キリスト教徒という名前をそのまま用いたいものである。」

            【渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』】

 

◆公の会議でこのような発言をするのは、きわめて勇気の要ることだったと思います。しかし、ほとんどの人は聞く耳を持ちませんでした。カトリーヌ・ド・メディシスには、優柔不断に見えたでしょう。ロピタルはカトリックユグノーの調停を試み、失敗したのでした。ロピタルは終生カトリックでしたが、その妻と娘はユグノーになったということです。

 

◆ロピタルとポリティーク派(宗派の別よりも国家主権の確立を重視した人々、『国家論』[1576]を著したジャン・ボダンが有名です)のつながりは定かではありません。しかし、ロピタルの問題意識は、モンテーニュ(1533~92)にも、アンリ・ド・ナヴァル(のちのアンリ4世[在位1589~1610])にも、共有されていました。ロピタルが直面していたのは、18世紀にヴォルテールが取り上げた宗教的寛容の問題であり、第三共和政から前面に出てくる「ライシテ(政教分離)」の問題であったと思います。

 

◆なお、ロピタルの後押しにより宮廷詩人となったのが、ピエール・ド・ロンサール(1524~85)でした。彼はフランス・ルネサンス期の代表的詩人で、イタリア・ルネサンスのペトラルカの模倣に終わっていたフランス詩を、フランス独自の抒情詩へと高めました。彼もまたカトリックでしたが、内乱で荒廃するフランスに心を痛めていました。

 

 

【参考文献】

・長谷川輝夫ほか『ヨーロッパ近世の開花』(世界の歴史17、中央公論社、1997)

佐藤彰一・中野隆生編『フランス史研究入門』(山川出版社、2011)

川出良枝・山岡龍一『西洋政治思想史』(岩波書店、2012)

渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』(岩波文庫、1992)

井上究一郎訳・解説『ロンサール詩集』(岩波文庫、1974)