★ルネサンスから宗教改革・対抗宗教改革・宗教戦争の時期に、長い間強い関心を持ってきました。10世紀から11世紀の頃、西・中央ヨーロッパの原型が出来上がったとすると(数百年かかりました)、14世紀から17世紀にかけては、第二の(近現代西・中央ヨーロッパの)原型形成期でであると考えています。なお、+αは「主権国家形成」を指しています。
★現在、ルネサンスに関する本は、多数出版されています。宗教改革に関する本も、一定程度出版されています。しかし、「ルネサンスと宗教改革」をテーマとする本は、ほとんど見かけません。なぜなのかはわかりませんが、ルネサンスと宗教改革の関連を問うという問題意識は弱まったようです。このこと自体興味深いテーマですが。[トレルチ『ルネサンスと宗教改革』(1925)の日本語訳は1959年に出ました。日本では、1970年頃までは、このような問題意識が強くあったと思われます。]
★「ルネサンスと宗教改革 +α」に関する資料を、多少アトランダムになるかも知れませんが、計11あげてみます。専門の研究者ではありませんので、限られた邦語文献にしか目を通していません。したがって、資料の選択は恣意的なものです。ただ、この時代をどのように理解しようとしてきたか(⇒どのように授業を組み立てようとしてきたか)は、ある程度わかっていただけるかと思います。
資料1[ルネサンスの光と影]
『14世紀からつぎの世紀にかけて、黒死病と、そして東方のトルコ人の脅威とが、あいついでイタリアを圧したとき、知的好奇心や美への希求は、かえって人びとの人間存在を根底から、ゆさぶることになった。死や滅亡に直面し、その悲惨を目撃した人びとは、世界の意味に問いを発し、人間のかけがえのない全体性を覚知したことであろう。(中略)
かれらにとって、生とは、喜ばしくもありまた、辛苦と暗礁とにもみちていた。現世に生きる愉楽は、同時に、人間の苦悩への直面をもふくんでいた。だからこそ、ルネサンス人は、熱い心で真理と美とを追求して、称賛さるべき均衡のとれた万能人となるかたわら、死の影におびえ、不可視の亡霊や魔術に身を託し、悪徳と傲慢とを友としたのである。(中略)
ルネサンスには、光と影とが、目くるめくように交錯している。前者は未来、後者は過去に属するというぐあいの、素朴な進歩感覚が、いっとき20世紀の歴史家たちをとらえたことがある。しかし、その光と影は、そもそも人間と世界のありのままの構図であり。ルネサンス人も現代人も、おなじようにひきうけているものだ。むろん、ちがった状況のもとで。そう思いさだめるとき、現代人はようやくルネサンスの世界と人間を「再発見」するようになった。それが、現今での、ルネサンス像である。』
【樺山紘一『ヨーロッパの出現』(ビジュアル版世界の歴史7、講談社、1685)】
◆文中の「滅亡」は、ビザンツ帝国の滅亡(1453)のことです。
資料2[ルネサンスと両教会の抗争]
「ルネサンス期のローマ教会と新教(プロテスタント教会)との対立抗争(宗教改革)は、ローマ教会に幾多の誤謬を犯させつつも、、これを鍛えたともいえる一つの大きな試練となっていたようにも思われます。(中略)旧教のほうは、思い過去と伝統とのゆえに、のた打ちまわるほどの苦悶を味わったわけでしょうが、新教のほうも、生まれたてではあり、旧教側からの甚だしかったために、このルネサンス期に、非常な試練を受けたようです。この両教会は、いずれもキリストの名を唱え人間救済を口にしながら、剣をふるって殺し合いをいたしましたし、根本の精神を忘れ去ってキリストの教えにそむくようなこともし、結局は多くの人々を塗炭の苦しみに陥れたこともたびたびありました。」
「この時代の人々は、自分を育て自分を生んだ中世文化を批判し修正し、更に別人として成長するために、ほんとうに血みどろな苦心をせねばなりませんでした。ルネサンスと言うといかにも華やかですし、この華やかさは讃えられ仰がれてもよいのですが、それと同時に、我々は、華やかな業績を残したこれらの人々の苦悶をも知ろうとせねばなりますまい。(中略)
旧教の大本山であるローマ教皇庁も、新教の一牙城であるジュネーヴのカルヴァンの教会も、今日から見て明らかに過誤と思われるほどの過酷な行動に出ていた場合がしばしばありました。ルネサンス時代の苦悶とは、こうしたところにもうかがわれるはずです。しかし、かくのごとき苦悶のなかで、人類の近代史は力強く書き始められるのでした。」
【渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』(岩波文庫、1992)】
◆実際に書かれたのは、敗戦後まもない時期でした。
◆16世紀のフランスは、ラブレーやモンテーニュが現れたルネサンスの時代であり、同時に苛烈なユグノー戦争の時代でした。16世紀フランスの文学・思想研究の泰斗であった渡辺一夫にとっては、ルネサンスと宗教抗争は不可分のものでした。
◇現在のことも考えてしまいます。新型コロナウイルスの感染拡大がもたらした、人びとの苦悶は、何を生み出すのでしょうか?
資料3[ルターのローマ訪問]
『1510年のローマ。ひとりのドイツ人修道士が、はるばるアルプスをこえてキリスト教会の首都にやってきた。所属するアウグスティヌス修道会にかかわるちょっとした紛争に、教皇の裁可をうけるために、はじめてローマを訪れたのだ。27歳のマルティン・ルターである。田舎育ちのルターは、腰もぬけんばかりに驚いた。聞きしにまさるローマの栄耀栄華、人の群れ。けたたましいほどの富のさまである。これが、教会の首位をしめ、全信徒の救済をつかさどる「神の代理人」の都だとは。かすかな疑いが若いルターのこころの隅をかすめても、不思議ではあるまい。その記憶は、のちの改革者の脳裏をさらなかったようだ。
無名の修道士は知るべくもなかったろうが、そのころ、おなじ1483年生まれ、27歳の芸術家ラファエロは、壁画の制作中だった。「アテネの学堂」である。』
【樺山紘一『ルネサンスと地中海』(世界の歴史16、中央公論社、1996)】
◆のちに(1516年)ルターは、ローマを激しく非難しています。
◆今年(2020年)は、ラファエロの没後500年にあたっています。
資料4[コペルニクスのイタリア留学]
「コペルニクスがクラコウを去ったのは、1494年の秋であるらしい。そうして1496年イタリアのボロニアへ行った。(中略)コペルニクスはボロニアへ行くと、先ずギリシア語を習い、やがてプラトンなどを読み、またギリシアの天文学を勉強した。主なる興味は数学と天文学にあったのである。これらについては既にクラコウでかなり勉強していたに相違ないのである。ボロニアで、ドメニコ・マリア・デ・ノヴァラという天文学者に習った。この人は黄道傾斜の観測からプトレマイオスの理論は訂正を要すると結論していた。コペルニクスはノヴァラの生徒としてよりも、むしろ助手・協力者として遇されたようである。(中略)1500年にローマへ行っている。同年11月6日ローマで月食の観測をおこなった記録がある。(中略)1501年[一時ポーランドに戻った後]今度はパドワに行った。1503年フェララに行き、そこで宗教規則のドクトルを貰った。(中略)このようにしてイタリアに10年ばかり滞在したのである。」
【コペルニクス『天球の回転について』(矢島祐利訳、岩波文庫、1953)の訳者解説】
◆文中の「クラコウ」の現在の表記はクラクフです。
◆コペルニクスは、キリスト教会の高位聖職者の資格を得るため、イタリアに赴きました。コペルニクスは、ルネサンス真っただ中のイタリアで10年を過ごしたのでした。この経験がなければ、地動説の提唱はなかったかも知れません。
◆『天球の回転について』の出版は、1543年でした。ラテン語で書かれました。死の床に見本刷りが届けられたと伝えられています。
◆1543年には、やはり重要な書物である、ウェサリウス『人体構造論』が出版されています。近世解剖学の成立です。なお、同年、ポルトガル人を乗せた船が種子島に漂着しました。そのような時代だったのです。
◆授業で、コペルニクスに続いてガリレオ・ガリレイを取り上げる際は、注意が必要です。コペルニクスが生きた時代とガリレイが生きた時代は、約1世紀隔たっているからです(『天球の回転について』の出版からガリレイの宗教裁判まで、ちょうど90年です)。ガリレイの同時代人は、ハーヴェイ、デカルト、グロティウスなどです。
[(その2)につづく]