世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★魔女狩りとルネサンス(與那覇・津田の偏った見方が拡散すると困ります)【最終稿 2/6】

※最終更新 2021/02/06  19:57

(当初の記事よりは、多少まとまったかたちになったかと思います。) 

 

◆2021年1月の「論壇時評」で、津田大介は次のように述べていました。

 

 與那覇潤は歴史学の立場から中井久夫の議論を参照し、各国で反知性主義が広がっていった経緯を具体的に示しつつ、この流れがルネサンス期の西洋社会と似ていたと指摘する。当時は長きにわたって陰謀論に基づく「魔女狩り」が横行したが、この背景にグーテンベルクが開発した活版印刷の普及があったという。ありもしない敵を脳内で作り上げ、誤情報に基づき同じ考えを持つ者がつながり、集団で排除する行為はまさしく「魔女狩り」に他ならない。「グーテンベルク以来の情報革命」と評されたインターネットによって議事堂襲撃が起こされたのは、歴史的な必然だったのだ。【1月27日付「朝日新聞」】

 

◆いくつかの基本的な問題点があります。専門のルネサンス研究の方々は、このような文章にいちいち疑問を呈さないでしょう。そうすると、「魔女狩りルネサンスに関する誤情報」が社会に流れることになります。それでは困りますので、問題点を大きく五つ指摘しておきたいと思います。

 

◆津田が取り上げている與那覇潤の論文は「繰り返されたルネサンス期の狂乱」【「Voice」2021、2月号、PHP研究所】です。首肯できる点もありますが、魔女狩りルネサンスの捉え方はきわめて一面的なものでした。

 

◆また、與那覇潤が依拠している中井久夫の「西欧精神医学背景史」は、『分裂病と人類』(東京大学出版会、1982)に収められています。

 

<1 歴史を大きく見ると>

 

 津田も「長きにわたって」と書いていましたが、魔女狩りルネサンスを単純にイコールで結ばないために、歴史の大きな流れを確認してみます。

 魔女狩りが盛んに行われたのは、13世紀(中世末期)から17世紀(近世末期)までと考えられています。

 ルネサンスは14世紀初めから16世紀前半までです。

 ルネサンス期だけが「狂乱」だったわけではありません。ルネサンスによって魔女狩りが始まったわけでもありません。魔女狩りのピークは17世紀前半ですので、ルネサンスが終わりを告げても、魔女狩りは盛んに行われていたことがわかります。

 與那覇は、中井久夫に依拠して「魔女狩りは1490年代、つまりコロンブスアメリカ到達のころに始まり」と述べていますが、誤りと言うほかありません[*1]。

 魔女狩りという「狂乱」は、ヨーロッパで約500年も続きました。その間に、ペスト大流行、百年戦争ビザンツ帝国の滅亡、ルネサンス、イタリア戦争、宗教改革・対抗宗教改革、大航海、地動説提唱、オスマン帝国との対抗、三十年戦争イングランドの内乱、奴隷貿易の開始など、さまざまなことが起きました。

 魔女狩りが行われた時期は、中世末期から近世までの、長い過渡期でした。この長い、混沌とした過渡期に近代が胚胎しました。

 

[*1]中井久夫の「西欧精神医学背景史」は、もともと半世紀前の1970年に書かれたものです。広い視野と深い思索から書かれていて、現在でも説得力がありますが、誤りもあります。與那覇のように、中井久夫の文章を無謬のものとして取り上げるのは、学問的態度とは言えないでしょう。かえって、中井久夫の精神に背くことになってしまうと思います。 

 

 <2 現在のルネサンス観>

 

 「ルネサンスから近代ヨーロッパが花開いた」という、ブルクハルト的なルネサンス観がまだ残っているかも知れません。このような旧来の見方を前提にすると、「ルネサンス期の狂乱」という言い方が刺激的に響くことになります。しかし、ルネサンスは、「近代ヨーロッパの開花」や「近代的な理性の幕開け」ではありません。<1>で見たように、ルネサンスは「中世末から近世前半」の時期です。「近代」には入りません(近世を「初期近代」と呼べば少し違ってきますが)。500年にわたる、大いなる混沌の中の一時期です。

 「占星術錬金術・新プラトン主義なども盛んな、混沌とした時代の中に、芸術家や思想家や科学者のすばらしい営為を位置づける」というのが現在のルネサンス観です。大いなる混沌の中に、新しい取り組みも輝きもあったのでした[*2]。

 人文主義者は古代ギリシア・ローマ文化とキリスト教の融合を考えていましたが、古代ギリシア・ローマ世界にも魔女はいましたので、撲滅の対象とは考えていなかったと思います。

 與那覇は、中井が「ルネサンス期の西洋社会を、むしろ暗黒面の大きい狂乱のカオスとして」描いている、と強調しています。しかし、このようなルネサンス観は一面的です[*3]。 

 

[*2]この点では、樺山紘一ルネサンスと地中海』(世界の歴史16、中央公論社、1996)が、バランスのとれた良書だと思います。

 

[*3]1970年代はまだブルクハルト的なルネサンス観が一般的でしたので、中井はそのような見方に鋭く異議申し立てをしたのでした。中井の文章は、そのような時代的文脈の中で理解されるべきです。

 

 

<3 むしろ「宗教改革・対抗宗教改革宗教戦争期の狂乱」>

 

 魔女狩りは「暴力のヨーロッパ」[*4]の最たるものですが、通常は、宗教改革や対抗宗教改革・異端審問と関連付けて論じられます。魔女狩りを行ったのは教会・聖職者でした。カトリックプロテスタントを問わず(ルターやカルヴァンも含めて)、教会・聖職者は魔女狩りに熱心でした。「ルネサンス期の狂乱」ではなく、むしろ「宗教改革・対抗宗教改革宗教戦争期の狂乱」と考えるほうが歴史的事実に即しています。

 歴史学者・與那覇は、なぜか「宗教改革・対抗宗教改革宗教戦争期の狂乱」にはまったく触れていません。中井はきちんと触れながら論じていたのですが。

 

[*4]ジャック・ル=ゴフは、中世末期のヨーロッパをこのように表現していました。ヨーロッパ世界の暗部は、現在ではヨーロッパ人自身によって指摘されています。【ジャック・ル=ゴフ『ヨーロッパは中世に誕生したのか?』(菅沼潤訳、藤原書店、2014)】 

 

<4 活版印刷術とインターネットの違い>

 

 グーテンベルク活版印刷術は、何よりも宗教改革に大きな影響を与えました。「活版印刷術なくしてはルターの改革はなかった」とさえ言われています。

 活版印刷術は、魔女狩りにも大きな影響を与えたのでしょうか? 確かに、そういう面はあります。魔女狩りのバイブルとも言うべき『魔女の槌』の出版は1458年でした。グーテンベルク活版印刷術の開発(1450年頃)から約10年後のことでした。

 しかし、『魔女の槌』や類書を読んだのは、民衆ではありません。知識人である聖職者たちでした。当時の識字率(高く見積もっても10%以下だと思います[*5])を考えずに、活版印刷術を現在のインターネットと同列に論じるのは、大きな誤りです。

 識字率が上がり、民衆にもさまざまな知識が広まるようになった18世紀(「啓蒙の世紀」)に、ようやく魔女狩りは終息していきました。

 

[*5]永田諒一『宗教改革の真実』(講談社現代新書、2004)に、もう少し詳しい記述があります。 

 

<5 魔女狩りと議事堂襲撃の違い>

 

 津田は、SNSでつながった魔女狩り的言動が議事堂襲撃につながったと述べていましたが、ここには、明らかに混乱があります。歴史上の魔女狩りは、トランプおよびトランプ支持者の言動とはまったく異なります。次のように整理できると思います。

 

 ●魔女狩りは、当時のエスタブリッシュメントだった教会・聖職者による、民衆への暴力だった。

 ●「連邦議事堂襲撃事件」は、エスタブリッシュメントに対する、特異な「民衆暴力」だった。

 

 これらを踏まえて論じてくれればよかったのですが、津田はこの二つを混線させながら、「歴史的必然」という語まで使ってしまいました。

 

◆以上、問題点を大きく五つ見てきました。歴史は複雑です。現在世界中で反知性主義が横行しているとしても、その文脈で論じることができるほど、魔女狩りは単純ではありません。魔女狩りは、反知性主義によって行われたわけではないのです。キリスト教聖職者という当時の「宗教的知性」によって、民衆の生活に寄り添っていた魔女が「反知性」として徹底的に裁かれました[*6]。この点において、魔女狩りは非常に深刻な出来事だったのです。

 

[*6]『魔女の槌』の2人の著者はいずれも神学者でした(1人はケルン大学神学部長)。彼らは、魔女の行いを、アウグスティヌスにまでさかのぼりながら、「精細なスコラ学的論理によって」立証していたのでした。【森島恒雄『魔女狩り』(岩波新書、1970)】 

 

陰謀論を批判する與那覇・津田によって、魔女狩りルネサンスに関する不適切な見方が流布されるとしたら、まったく皮肉なことになってしまいます。歴史は多面的に冷静に見る必要があることを、あらためて強く感じさせられました。

 

◆なお、「魔女」という語は自明ではありません。なぜ女性が標的とされたのか、なぜ女性が悪魔と結託するとされたのか、「ジェンダーと歴史」に関わる重要なテーマです。

 

蛇足ですが、與那覇潤は、上記の論文で「全世界的な知性の崩壊」や「知の惨状」を声高に指摘し、嘆いていました。危機意識は伝わってきましたが、ふつふつと湧いてくるルサンチマン的な感情を抑えられない、といった感じの文章でした。