★次回にかけて、中世ヨーロッパ後期のアヴィニョンとそこに置かれた教皇庁について考えてみます。
◆教皇庁がアヴィニョンに置かれた期間は、決して短いものではありませんでした。
◆ⅰ)はいわゆる「教皇のバビロン捕囚」ですが、この呼び方が誤解を招く原因になってきました。この呼び方は、ローマからの見方に基づいたものです。「ローマという宗教的磁場」には、それだけ強烈なものがあったからですが。また、ⅱ)は教会大分裂(大シスマ)と呼ばれる事態でした。
◆見落とされがちですが、この時期は、イタリアおよびフランドルの初期ルネサンスと重なっています。たとえば、次の人たちの生没年代と照らし合わせると、そのことがよくわかります。(後でも紹介しますが、ペトラルカはたびたびアヴィニョンに滞在していました。)
ダンテ 1265~1321
ジョット 1266頃~1337
ペトラルカ 1304~74
ボッカチオ 1313~75
ファン・アイク(兄) 1366頃~1426
◆ごく初期の宗教改革者たちの時代でもありました。
ウィクリフ 1320頃~84
フス 1370頃~1415
◆フスの火刑から約50年後にエラスムスが生まれ、約70年後にルターが生まれています。大きな転換が、ヨーロッパに生じていました。
<歴史学では⓵>
◆教皇庁が置かれたアヴィニョンについては、新たな見方が定着しています。20年前の著作で、フランスの歴史家ジャック・ル=ゴフは、次のように述べていました。
「(教皇庁移転のきっかけは)1300年の翌年以後ローマの住民を揺り動かしたたえまない対立にあった。この混乱を避けるため、(中略)フランス人のクレメンス5世は、ローマ行きをとりやめた。教皇は(中略)ローマ行きを可能にする平和を待ちながら、1309年にアヴィニョンに居を定めた。クレメンス5世につづく教皇たちはアヴィニョンを離れなかった。恐るべき重税が豊かな財政をもたらしてくれる制度の恩恵を受けた教皇たちは、そこに壮麗な教皇庁を建設し、キリスト教世界の効率的な行政機構を発達させた。(中略)アヴィニョン教皇庁は、14世紀のヨーロッパでもっとも完成された君主政政府となったのである。」[*1]
[*1]ジャック・ル=ゴフ『ヨーロッパは中世に誕生したのか』[菅沼潤訳、藤原書店、2014(原著は2003)]
◆教皇庁のアヴィニョン移転は、フランス王フィリップ4世の強制というわけではなく、教皇たちの選択でした。「教皇のバビロン捕囚」は、「ローマという宗教的磁場」から見た呼び方だったのです。なお、(2)で詳しく紹介しますが、教皇庁移転当時、アヴィニョンはフィリップ4世の支配下にあったわけではありません。
<国際都市アヴィニョン(2)につづく>