世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★国際都市アヴィニョン(2)

 

歴史学では②>

 

 アヴィニョンについて、ヨーロッパ美術史研究の水野千依は次のように述べています。

 

 『1312年以降、長きにわたりこの地に暮らしたイタリアの詩人フランチェスコ・ペトラルカは、(中略)アヴィニョン教皇庁の倫理的堕落に嫌悪を募らせていた。(中略)アヴィニョンへの嫌悪、反発、嘆き--それはしかし、一人ペトラルカに限られるわけではなかった。教皇庁のローマ帰還を願う多くのイタリア人にとって、こうした感情は広く共有されたものだった。しかもこのイタリア的視線は、長らく歴史学における「アヴィニョン捕囚」の理解にも影響を及ぼしてきた。アヴィニョン教皇庁が肯定的に捉え直されたのはようやく20世紀になってからで、ローマにあっては都市貴族の支配に阻まれていた独立した統治組織をこの地で確立させた功績があらためて認められるなど、偏った評価は是正されつつある。』[*2]

 

 水野は『アヴィニョン教皇庁が「世界の首都」「第二のローマ」たらんとして都市を整備し国際化するなかで、南フランスやイギリスだけでなくイタリアからも芸術家を招聘し、いかなる視覚文化を生み出そうとしたのか』を詳しく述べていて、とても参考になります。

 

[*2]水野千依『「アヴィニョン捕囚」とアヴィニョン派』[『西洋美術の歴史4』(中央公論新社、2016)所収]

 

<「世界史探究」教科書では⓵>

 

 以上のような新しい見方でアヴィニョンについて述べているのは、山川出版社の『新世界史』東京書籍の『世界史探究』です。

 

 ●山川の『新世界史』は、「アヴィニョン教皇庁時代」という語を太字で積極的に使い、注で次のように補足しています。

  『「教皇のバビロン捕囚」とも呼ばれるが、フランス王権に強制的に幽閉されたわけではなく、あくまで教皇側の意向によるものであった。』

 

 ●東書の『世界史探究』も、注で次のように述べています。

  『「教皇のバビロン捕囚」とよぶこともあるが、必ずしもフランス王権の強制によるものではなく、当時の教皇側の選択の結果であった。教皇は、政治的に不安定なローマを一時的にさけようとして、教皇に忠実なナポリ王国支配下にあったアヴィニョンに居を定めた。』

 

 山川出版社の『詳説世界史』は、教皇庁アヴィニョン移転の理由については立ち入らず、あっさりと中立的な書き方をしています。

 

<「世界史探究」教科書では②> 

 

 「ローマという宗教的磁場」の側から歴史を見ている教科書もあります。

 

 ●実教出版『世界史探究』の記述は、フィリップ4世中心の、まったく古い見方そのままです。中世ヨーロッパ史で「ラテン=カトリック圏」という、世界史教科書としては新しい用語を使いながら、古い見方を残してしまいました。残念というほかありません。

 

 ●帝国書院の『新詳世界史探究』は、「教皇庁内で親フランス派の力が強まりアヴィニョンに移転した」という表現をしています。実教とはニュアンスが違いますが、やはりアヴィニョン移転を否定的にとらえています。

 

<「国際都市アヴィニョン」という視点>

 

◆前掲の論文で、水野千依は、アヴィニョンの地理的位置にも注意をうながしています。アヴィニョンは「現在のフランス南東部に位置し、イタリア、スペインにも近く、いわばキリスト教圏の中心に座すとともに神聖ローマ帝国の一部」でもありました。また重要なことですが、「1274年以来、教皇領となっていたコンタ・ヴネッサンに隣接する安全な避難地」でもあったのでした。

 

◆水野は、アヴィニョンに招聘されたイタリアの画家シモーネ・マルティーニなどの業績を紹介しながら、「当時のアヴィニョンは、ヨーロッパ各地の文化や情報が流入する国際都市」だったこと、アヴィニョンにおいて「イタリアと北方の芸術的潮流の独創的な総合」が行われたことを強調していました。

 

◆授業者が、アヴィニョンの地理的位置に留意しながら、「国際都市アヴィニョン」という視点を持てば、「探究」にふさわしい授業につながっていくのではないでしょうか。

 

★これからも、広い視野で世界史を考えていきたいと思います。