世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★独仏戦争(1870~71)後の「単一の共和国」と「単一の帝国」

 

●今までは普仏戦争プロイセン=フランス戦争)と呼ばれてきましたが、プロイセンに南ドイツ諸邦も合流した戦争でした。したがって、ドイツ全体とフランスの戦争だったというとらえ方が出てきていますので、独仏戦争という名称を使いました(*1)。

 

<フランスでは>

 

◆独仏戦争の敗北後、パリ・コミューンを鎮圧して成立した第三共和政。この第三共和政期に、フランスは王政・帝政の記憶を払拭し、「単一にして不可分の共和国」として確立したと言われます。その象徴が、次の出来事です。

  1879  「ラ・マルセイエーズ」を国歌に制定

  1880  三色旗を国旗に制定

      7月14日を国民の祝祭日に制定

 

◆これらの出来事の直後(1881~82)には、「ジュール・フェリー法」により、初等教育に「無償、義務、非宗教性(ライシテ)」の三原則が導入されました。そして、カトリック教会の影響力を排除した公立学校では、フランス語教育が重視され、フランス人アイデンティティの形成が目指されたのでした。

 

◆この時期のフランスでは、全人口の5分の1はフランス語を話していなかったと言われています(*2)。それだけ、フランス国内は多様性に富んでいたのです。しかし、「単一にして不可分の共和国」を目指す側からは、それは文化的な遅れと見なされました。フランス語強制政策の中、ブルターニュ地方では19世紀末から地域主義運動が起こっていくことになります(*3)。

 

◆ブーランジェ事件(1887~89)、ドレフュス事件(1894~99)という危機を乗り越えて、第三共和政は確立しました。ドレフュス事件の解決の背景には、教育の普及もあったと言われています。

 

◆一方、「単一にして不可分の共和国」は「植民地帝国」でもあり、すでに移民受け入れ国でもありました(*4)。今までのフランス史は、これらをトータルに捉えてきたとは言えません。平野千果子は、「近代国家の形成と海外進出」で、これらの関連を追究しています。「単一にして不可分の共和国」は、移民と言う点でもすでに多様性を含んでいたのです。

 

◆共和政確立から100年余り、ムスリムの増加もあり、「多様性を含んだ、単一にして不可分の共和国」は、フランスにとって大きな課題であり続けています。

 

<ドイツでは>

 

1871年ドイツ帝国が成立しました。ビスマルクの剛腕とドイツ帝国という名称に惑わされてしまうのですが、プロイセン中心とはいえ、もともと諸邦が集まってできた国でした。揺るぎない「単一の帝国」だったように見えますが、その中に多様性を含まざるを得ませんでした。

 

◆たとえば、宗教です。プロイセンなど北ドイツのプロテスタントが多い地域と南ドイツのカトリックが多い地域の違いは大きな問題でした。帝国成立後すぐに、ビスマルクが「文化闘争」を開始しなければならなかったのは、このためです。しかし、勝利ではなく、妥協で終わりました。ウィーン議定書で獲得していたラインラントも、カトリックの強い地域でした(*5)。

 

◆また、連邦参議院の票の配分でも、プロイセンが圧倒的票数を持っていたわけではありませんでした。プロイセンが持っていたのは、58票中17票でした(*6)。ビスマルクは、「ドイツ帝国」という「単一の帝国」の多様性に、一応配慮しなければならなかったのです。たとえば、ベルリンを中心とした地域、ハンザ同盟の中心地域、ラインラント、バイエルンは、それぞれ違った歴史を歩んできたことを忘れてはなりません。

 

◆多様性を徹底的に排除した「均一な単一の帝国」への願望を極大化させたのが、ヒトラーのナチ帝国だったと思います。「均一な単一の帝国」によってヨーロッパを支配するという法外な野望が潰え、東西分断という苦難を経たドイツは、現在「ドイツ連邦共和国」となっています(今年は統一後30年です)。坂井が述べていたように、現在のドイツが連邦制をとっているところに希望があるのかも知れません(*6)。「均一な単一の帝国」の苦い記憶が、地域の多様性の尊重につながっているのだと思います。

 

●なお、独仏戦争前後の時期から、日本もまた、「天皇制を土台とした、単一で不可分の帝国」の形成に向かっていったのでした。

 

 

(*1)福井憲彦『教養としてのフランス史の読み方』(PHP研究所、2019)、平野千果子「近代国家の形成と海外進出」【平野千果子編『新しく学ぶフランス史』(ミネルヴァ書房、2019)所収】

 

(*2)前田更子「学校と宗教」【平野千果子編、前掲書所収】

 

(*3)原聖「ブルターニュ」【佐藤彰一・中野隆生編『フランス史研究入門』(山川出版社、2011)所収】

 

(*4)イタリアやスペインなどからの移民のほかに、アルジェリアカリブ海地域からの移民もいました。たとえば、画家マネの「オランピア」(1863)には、黒人女性の使用人が描かれていました。

 

(*5)現在のドイツではカトリックの人口がプロテスタントを若干上回るようになっていますので、「ルターの宗教改革」で現在のドイツを見ることはできません。

 

(*6)坂井榮八郎『ドイツ史10講』(岩波新書、2003)