世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

◆フランス革命下の中央集権(ヴァンデの反乱と国家語)

★新課程の「歴史総合」、「世界史探究」、「日本史探究」のために。★

 

フランス革命(1789~99)の後半、共和国政府は革命推進と対外戦争遂行のため、徹底した中央集権化政策をとりました。厳しい中央集権化政策の是非を論じるのは簡単ではありませんが、ヴァンデの反乱と革命政府の言語政策から、現代につながる問題を考えたいと思います。

 

◆フランス西部で1793年に起きたヴァンデの反乱は、フランス革命史の中で、以前よりも重視されるようになっています。現在は、単なる反革命とは見なされなくなりました。どちらかというと、革命政府による多様性の封殺という文脈で論じられていると思います。

 

 『ヴァンデの反乱の本質は、必ずしも反革命貴族が率いる軍勢とイコールではなかったのですが、都市を拠点としていた革命派は農村部の人々が何を望み、何に不満を感じ、日々暮らしていたのかということを把握できていなかったので、「反革命」と断じて徹底的に弾圧することになり、凄惨な事態になってしまったのです。』[*1]

 

◆徹底した中央集権化政策は、その言語観にも端的に現れていました。当時、フランスの人々の母語は、フランス語以外にもたくさんあったのですが(ブルターニュ語、ノルマンディー語、ラングドック語、アルザス語など[*2])、共和国政府はその存在を否定しようとしました。

 

 □国民公会におけるロトマの発言(1792)

 「共和国の利害は、今日、そのすべての成員に知られていなければならない。だがそのような、しかるべき状態は、国語( la  langue  nationale )を全員にすっかりなじませることによってもたらすことができる。世にもてはやされるところが全くなく、前世紀の野蛮の名残りでしかない各地のばらばらのことばによって人々の交流が妨げられているところではどこでも、こうしたことばをできるだけ早く消滅させるために、あらゆる必要な手段をとらざるを得ない。」[*3]

 

 □公安委員会におけるバレールの発言(1794)

 「我々は、公共的思考の要具であり革命の最もたしかな推進力である同一言語を市民に課すべきである。自由な国民のもとでは、言語は単一であり、万人にとって等しくなければならない。」[*3]

 

フランス革命期における、地域間、都市・農村間のコミュニケーションの困難という問題は考えなければなりませんが、共和国政府には「母語を話す自由」という考え方はありませんでした。「言語間の平等」にも思い至りませんでした。当時としては、やむを得ないことだったでしょうが。フランスの地域語は根強く、フランス語が教育を通じて全国に普及するのは、第三共和政になってからでした。

 

◆こうして、国家語(標準語)イデオロギーフランス革命期に成立し、まもなく世界各国に広がっていったことは、きわめて重要です。地域語や方言は規範としての国家語の下位に置かれ、「前世紀の野蛮の名残り」として蔑視されることになったのです。これが、近代という時代でした。

 

◆このような国家語イデオロギーは、明治以降の日本でも積極的に採用されました。しかも日本では、16世紀から規範化されてきたフランス語の場合とは違って、「規範としての国語」を国家として形成する必要がありました。

 

 『「国語」はできあいのものとして存在していたのではない。「国語」という理念は明治初期にはまったく存在しなかったのであり、日本が近代国家としてみずからを仕立てていく過程と並行して、「国語」という理念と制度がしだいにつくりあげられていったのである。』[*4]

 

◆近代という時代を特徴づける、このような言語政策が文化の多様性を踏みにじるものであることは、19世紀末から徐々に認識されるようになり、20世紀以降、地域語の復権や先住民の言語の復権が各国で実現することになりました。

 

◆現在、<多様性>は、私たちの生きる世界を考えるうえで、最大のキーワードになっています。まだまだ多くの困難がありますが、一つの国家の中で複数の言語が存在すること、複数の人種・民族が存在すること、複数の文化が存在することは、ようやく当たり前になりつつあります。

 

[*1]福井憲彦『教養としてのフランス史の読み方』(PHP研究所、2019)

[*2]1794年の国民公会の演説で、グレゴワールは約30の地域語を列挙していました。(歴史学研究会編『世界史史料6』岩波書店、2007)

[*3]田中克彦『言語からみた民族と国家』(岩波書店、1978)

[*4]イ・ヨンスク『「国語」という思想』(岩波書店、1996)