世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★ナポレオン3世の第二帝政をどう捉えるか

 

★ナポレオン3世の第二帝政(1852~70)の捉え方は、この30年ほどで大きく変わりました。

 

★以前は、ルイ・ナポレオンという「取るに足りない人物」(マルクスの評)が、ナポレオン1世の甥であることを宣伝しながら、階級対立の調停を装って権力を握り(「ボナパって」と言われたものです)皇帝となった、と捉えられてきました。このような捉え方は根強かったのでしょう、現行世界史B教科書の第二帝政の扱いは、ごく簡単なものです。

 

★しかし、ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)は「取るに足りない人物」というわけではありませんでした。彼なりの政治理念と社会政策・産業政策を持っていました。それは、七月王政期に出版した『ナポレオン的諸理念について』(1839)、『貧困の撲滅』(1844)という著書に記されています。

 

ルイ・ナポレオンの理念>

 

◆『ナポレオン的諸理念について』の一節です。

 

 「君主と人民の利害の一致こそが、世襲王朝の本質的基礎である。最大多数に利益をもたらすもの、市民の自由と国の繁栄を保障するものがまた、<私>の権威の力を生み出し、<私>の権力を強化するのでもあるといえるとき、政府は盤石である。(中略)   もはや皇帝制度をつくり直す必要はない。それは自然に蘇るだろう。君主も人民も、あらゆる人々がその再建に手を貸すだろう。なぜなら、誰もがそこに秩序と平和と繁栄の保証を見出すであろうから。」[*1]

 

[*1]歴史学研究会編『世界史史料6』(岩波書店、2007)

 

ルイ・ナポレオンは、国民投票という方式(人民主権を表すものでした)で圧倒的多数(96.5%)の賛成を得て、皇帝ナポレオン3世となりました。多分「君主と人民の利害の一致」が実現したと思ったことでしょう。人びとも、打ち続いた革命・動乱に終止符を打ち「秩序と平和と繁栄」をもたらすであろう帝政に、大きく期待したのだと思います。

 

ナポレオン3世の経済政策>

 

◆ナポレオン3世の産業政策は、時代の要請にこたえるものでした。サン・シモンの思想の影響を受けながら、七月王政期から続く産業革命を継続・強化しました。それは、インフラ整備に端的に現れていました。

 

 「帝政とは平和なのです。(中略)われわれには、開墾すべき広大な未開拓地があります。通すべき道路、掘るべき港、航行可能にすべき河川、仕上げるべき運河、完成させるべき鉄道網があります。」[*2]

 

[*2]皇帝即位直前の「ボルドー演説」[歴史学研究会編『世界史史料6』(岩波書店、2007)]

 

◆鉄道網の整備はめざましく、第二帝政の18年間で5倍近くになったと言われます。鉄道の発達は、関連する鉄鋼業、機械工業、石炭業の発達を促し、農産物を含む商品市場の全国化をもたらしました。第二帝政が「産業帝政」とも言われる所以です。インフラ整備の首都版が、オスマンによるパリ大改造でした。このような政策は、レセップスによるスエズ運河建設にまでつながっていました。

 

◆「産業帝政」を象徴するもう一つの出来事が、英仏通商条約の締結(1860)でした。産業界の反対を押し切り、保護関税政策から自由貿易体制へと大きく舵を切った条約でした(イギリスは1840年代までに自由貿易体制を確立していました)。結果的には、フランス産業の国際競争力を高めたと言われています。

 

◆イギリスとの連携という傾向は、貿易面だけでなく、クリミア戦争やアロー戦争でも見られました。この点で、ナポレオン3世の政策は、常にイギリスと対抗したナポレオン1世の政策とは大きく異なります。第二帝政はドイツ=フランス戦争で幕を閉じますが、大きく見れば、第二次世界大戦まで続く「イギリスとの協調、ドイツとの対抗」という対外関係は第二帝政期に始まる、と言っていいのかも知れません。

 

◆ナポレオン3世が自由貿易を選択したことと関連があるのかどうかわかりませんが、1860年代、国内では議会の力が増し、言論統制が緩和され、労働者の争議権も容認されました。1850年代の「権威帝政」に対して、「自由帝政」と呼ばれています。

 

<「フランスの栄光」と挫折>

 

◆一方で、帝政に欠かせないものが「フランスの栄光」(国威発揚)でした。戦争や植民地獲得の面から見ると、おおよそ次のようになります。

 

 ① 東方問題への積極的関与とクリミア戦争(1853~56)。黒海~バルカン方面へのロシアの南下を阻止し、パリで講和条約が結ばれました。ナポレオン3世の人気は否応なく高まりました。

 

 ② イタリア統一戦争への中途半端な関与(1859~60)。共和派からは非難されました。サヴォアとニースがフランス領となりました。

 

 ③ ベトナム南部の獲得~カンボジア保護国化(1857~63)。

 

 ④ イギリスと共に、清との間にアロー戦争を起こしました(1856~60)。

 

 ⑤ アルジェリア支配の強化。セネガルでの支配地域の拡大。マダガスカルにも手を伸ばそうとしており、19世紀末のアフリカ全土の分割に向かう動きが本格化した時代でした。

 

 ⑥ メキシコ出兵の無残な失敗(1861~67)。6,000の兵を失い、擁立した皇帝はメキシコ軍に銃殺されました。ナポレオン3世の権威は失墜します。彼は、中央アメリカに「ラテン帝国」をつくるという構想(夢想)を持っていたのでした。

 

<まとめ>

 

★「産業帝政」と「フランスの栄光」を組み合わせたものが、2度にわたるパリ万国博覧会の開催(1855、1867)でした。

 

★不思議な感じがしますけれども、産業政策も、帝政後半の自由主義も、植民地政策も、万国博覧会開催も、すべて第三共和政に引き継がれました。

 

★なお、江戸幕府と日仏修好通商条約を締結したのも、ナポレオン3世です(1858)。日米修好通商条約締結から3カ月後のことです。ナポレオン3世からすれば、多分日本もまた、アルジェリアや中国と同じく「文明化」の対象であったと思います。

 

★以上、ナポレオン3世の第二帝政の概略を見てきました。従来の高校世界史では、ウィーン体制の成立~動揺~崩壊やイギリスの自由主義的改革、ドイツ・イタリアの統一などに重点がおかれ、フランスの第二帝政第三共和政は軽く扱われてきたように思います。しかし、第二帝政から第三共和政の時期をしっかり捉えることで、見えてくるものがたくさんあると考えています。

 

【参考文献】

●谷川稔・渡辺和行編著『近代フランスの歴史』(ミネルヴァ書房、2006)

平野千果子編著『新しく学ぶフランス史』(ミネルヴァ書房、2019)

福井憲彦著『教養としてのフランス史の読み方』(PHP研究所、2019)

柴田三千雄著『フランス史10講』(岩波新書、2006)

佐藤彰一・中野隆生編『フランス史研究入門』(山川出版社、2011)