世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

【資料】アヴィニョンへの眼差し(授業で多角的に考えるために⑥)

 

◆中世ラテン・キリスト教世界(ローマ・カトリック世界)の危機について、まず基本的な事実を確認したいと思います。

  1303  フランス王フィリップ4世、教皇ボニファティウス8世を捕える

        (アナーニ事件)

  1309  フィリップ4世、教皇庁を南フランスのアヴィニョンに移す

        (教皇のバビロン捕囚、~1377)

  1378  教会大分裂(~1417)

 

◆「教皇のバビロン捕囚」期に教皇となった7人は、すべてフランス人でした。

 

◆重要なことですが、ウィクリフとフスは、「教皇のバビロン捕囚」期から教会大分裂の時期の人物です。大分裂収拾からちょうど100年後にルターが「九十五か条の論題」を発表しますが、「宗教改革は14世紀末に始まった」と言っても過言ではありません。

 

◆この略年表に次の事項を付け加えると、歴史は少し違って見えます。

  1347~50  ペスト(黒死病)大流行

 ペスト大流行は、「教皇のバビロン捕囚」期に起きた惨事でした。

 

◇なお、ペスト大流行からルネサンスに至るという見方がありますが(ゆげひろのぶ「感染症による社会の変質を考える」[朝日新聞、2020年4月15日付])、ジョットもダンテもペスト大流行より前に活躍したという事実を無視しないでほしいと思います。12世紀ルネサンスギリシア・ローマの古典文化の影響などを考えない見方でしょう。また、ペトラルカ(アヴィニョンと深い関わりがあります)やボッカチオは大流行期を生き、その後も断続的に襲ったペストにより亡くなりました。

 

アヴィニョンに戻ります。アヴィニョン教皇庁は、教科書には簡単に触れられているだけです。しかし、歴史上の一挿話のように扱うのでは、もったいないと思います。国際都市アヴィニョンの歴史的意義は大きかったのです。そのことがよくわかる文章を、資料としてあげてみます。

 

◆【資料】水野千依『「アヴィニョン捕囚」とアヴィニョン派』◆

 「(教会大分裂は)ローマ教皇キリスト教会の威信の動揺を示す事件であったが、他方で、教皇の居住地として豪奢な教皇宮殿が築かれたアヴィニョンは、文化と芸術の中心として繁栄を極めることとなった。」

 『1312年以降、長きにわたりこの地に暮らしたイタリアの詩人フランチェスコ・ペトラルカは、(中略)都市の喧噪、異臭、雑踏、そして教皇庁の倫理的堕落に嫌悪を募らせていた。(中略)教皇庁のローマ帰還を願う多くのイタリア人にとって、こうした感情は広く共有されたものだった。しかもこのイタリア的視線は、長らく歴史学における「アヴィニョン捕囚」の理解にも影響を及ぼしてきた。アヴィニョン教皇庁が肯定的に捉え直されたのはようやく20世紀になってからで、ローマにあっては都市貴族の支配に阻まれていた独立した統治組織をこの地で確立させた功績があらためて認められるなど、偏った評価は是正されつつある。』

 「(イタリア人画家シモーネ・マルティーニのアヴィニョンの壁画は)フランスを含む広範な図像資料から想を得て制作された可能性を再考する必要が唱えられている。当時のアヴィニョンは、ヨーロッパ各地の文化や情報が流入する国際都市であり、シモーネやステファノスキもまた、多様な図像の情報を吟味し取捨選択しながら壁画の構想を練ったに違いない。イタリアからフランスへという一方的な影響関係に帰しえない、双方向的で、より複雑な文化交流が盛んに行われていたことを忘れてはならないだろう。」

<『西洋美術の歴史4 ルネサンスⅠ』(中央公論新社、2016)所収>

 

◆水野は、アヴィニョンからイタリアのシエナなどへの文化的影響についても述べています。また、同じく『西洋美術の歴史4 ルネサンスⅠ』では、小佐野重利がネーデルラント美術とイタリア美術の密接な交流について述べています。従来のイタリア中心のルネサンス美術史は、書き換えられ始めています。

 

◆美術史から学ぶものも大きいと、あらためて感じています。授業では、アヴィニョンの場所を生徒たちに地図で確認させ、各自のスマートホンやタブレットアヴィニョン教皇庁の画像を見てもらうといいと思います。