世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

◇新型コロナ危機:人権と社会(欧米・日本)4/12[付 政府と「局面打開の意志」]

 

新型コロナウイルスの感染拡大が止まりません。感染者は、まもなく、世界で200万人に達するでしょう。死者は11万人に及んでいます。日本も、すでに危機的状態だと思います。

 

◆4月7日、ようやく、安倍首相が緊急事態宣言を7都府県に発しました。この世界史的な惨事の中で、基本的人権をどう考えるべきなのでしょうか? 明確に説明できないもどかしさがありますが、とても気になっていますので、素人の覚え書きとして書いておきます。

 

毎日新聞は8日緊急世論調査を行いました。緊急事態宣言を「評価する」という回答が72%、発令時期が「遅すぎる」という回答が70%、という結果でした。(4月9日付毎日新聞

 

◆またアメリカでは、ワシントンポストやCNNが、「遅い対応、甘い内容」と厳しく批判しました。中国や韓国のメディアも、「強制力がないから効果は乏しい」と報じていました。

 

◆一方朝日新聞は、8日付の社説でもなお「緊急事態宣言には、慎重な判断が必要だと主張してきた」と述べていました。毎日新聞の調査結果に表れた世論とも、海外メディアの受け止め方とも、かなりのズレがあります。

 

◆かつてアメリカ独立宣言やフランス人権宣言で「自由・平等」を謳った国々が厳しい封鎖措置をとり、「大日本帝国」崩壊後民主化した日本は諸活動の自粛を求める政策をとりました。この差は,、なぜ生じたのでしょうか? 基本的人権を制限できる根拠はどこにあるのでしょうか?

 

◆まず基本的人権を制限できる根拠についてですが、基本的人権の根底にある権利は何かを、右往左往しながら考えてきました。「日本国憲法」では、次の二つなのではないかと、今のところ考えています。生命権と生存権です。第13条には「(個人の)生命の権利」が、第25条1項には「国民の生存権」が規定されています。生存権とセットで、2項には「(国の)公衆衛生の向上・増進」の義務が規定されています。

 

朝日新聞のような、公衆衛生徹底に向けた行政権力の強化に対して、個人の人権を対置するという考え方は、一理あるでしょう。しかしそこには、何か不十分なものがあります。多くの人々も「それだけでは危機を乗り切れない」と感じています。厳密に考えれば、感染者を隔離すること自体人権侵害に当たります。でも、この人権侵害は必要な措置です。朝日新聞論説委員にも感染者が出ていますが、まさか隔離に反対はしないでしょう。

 

◆この単純な事実が示しているのは、ウイルスに対抗し社会を崩壊させないためには、厳しい人権制限が認められているということです。それは、多分、各種の人権の根底にある生命権・生存権を守ることが最優先だからだと思います。

 

感染症による危機では、各種の人権を制限してでも、生命権・生存権を最優先に守らなければなりません。それが、社会の崩壊を防ぐことに直結しています。また、経済活動の自由の制限が別の形で生命権・生存権を侵害することにつながらないよう、経済的な支援が求められている、そういう構造になっていると思います。

 

◆医療が崩壊すれば、個人の生命権は守られません。社会が崩壊すれば、個人の人権は守られません。個人の人権はそれぞれ独立して存在してはいますが、それは「社会的なつながり」を土台として存在していることを、今回の新型コロナ危機は教えているのではないでしょうか。人権は、ばらばらに各個人が保持しているものではなく、社会的紐帯として保持されているものなのだと思います。

 

◆ヨーロッパやアメリカでは、政治的・社会的危機の中から人権思想が生み出されてきましたので、個人の人権は社会的紐帯としてとらえられています。したがって、社会の崩壊を防ぐためには、政府が強力な権限で人権を制限することは当然だと考えられているのでしょう(◆)。多分、基本的人権は、そもそもは抽象的な自然権ではなかったのです。

 しかし、戦後の日本では基本的人権は個人の自然権として受容され、「個人の人権を社会的にとらえる」という考え方は弱かったのだと思います。基本的人権は、残念ながら自分たちの力でつかみ取ったものではありませんでしたが、曲がりなりにも定着してきました。人権を社会的紐帯として再確認できれば、人権思想は私たちの新たな力になると思います。

 新型コロナウイルスによる危機は、今後さらに深刻化するかも知れません。ただ、あえてポジティブに言えば、日本の政治と社会を点検し再構築する機会となるのではないかとも考えられます。衰えているとはいえ、日本人には、そのためのエネルギーがまだ残っていると思います。(*)

 

(*)本年1月以降の日本政府・官僚組織の対応のスピード感のなさは、多くの国民が感じているところです。誰も、政府がこんなに右往左往するとは思わなかったでしょう。「現状維持を図りながら、課題の解決は先延ばししていく」という日本政治の性格は、今回の危機においても変わりませんでした。一斉休校のような思いつき的な政策もありましたが、「従来の政策をベースに対応策を小出しに積み重ね、何とか危機が過ぎ去るのを待つ」というようなやり方が続いてきました。PCR検査数を抑制するという誤った政策に典型的に現れているように、「思い切って新しいやり方を工夫し、自ら局面を打開する」という意志や力が乏しいのです。

 多くの国民は政府の自粛要請に従うでしょう。しかし、マスクや消毒薬は手に入りませんし、収入減少への補償は中途半端で混乱しています。保健・医療体制がきわめて不十分であることも明らかになりました。これでは、国民の不安は消えません。ドイツのように、国民の健康と命を守る体制がある程度しっかりしている中で、国民一人一人に自粛の努力が呼びかけられるのであればよかったのですが。

 令和(政府は Beautiful Harmony と英訳していました)2年目のこの現実は、きわめて厳しいものです。しかし、だからと言って「批判はするな、耐え忍ぼう」というような考えに流れるのは、よくないと思います。そのような考え方を Beautiful Harmony と錯覚すると、社会を変える力が人々から削がれていきます。 

 危機だからこそ、建設的な意見を出し合うべきです。そして、具体的な行動で力を出し合うべきです。そうでないと、皆で泥沼に沈み込んでいくことになります。思い切って新しいやり方を工夫し合えれば、少しでも局面を打開することにつながるのではないでしょうか。そのような意志を、私たちはなくすべきではありません。

 

(◆)追記(4月15日)

 本日付の朝日新聞・オピニオン面に、歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏のインタビューが掲載されていました。非常にすばらしい内容でしたが、その中でハラリ氏は「政府に断固とした行動を求めることは民主主義に反しません」と述べていました。朝日新聞は強力な政府権限に反対してきましたが、ハラリ氏の考えは違っていました。政府の緊急措置と独裁を、明確に区別して論じていたのです。

 

◆追記(4月18日)

 日本の新型コロナウイルス感染者数が、今日とうとう1万人を超えました。わずか9日間で、倍増しました。今日中に、あるいは明日には、韓国(徹底したPCR検査を行いました)の感染者数を上回るでしょう。[韓国の人口は日本の4割ほどですが。]