世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★宗教・歴史・政治(ローマ教皇来日、そして「法王」が消えた)

 

【多くの困難の中のフランシスコ教皇

 

◆2019年11月、ローマ教皇フランシスコが来日しました。ハードな日程にもかかわらず、長崎、広島、東京で、心のこもったスピーチをしました。長崎、広島の人々にとっても、40数万の日本のカトリック信者にとっても、忘れがたい出来事となったことと思います。日本のプロテスタントの人々(50数万人と言われます)も、好意的に受けとめたのではないでしょうか。

 

◆私は、クリスチャンではありませんが、フランシスコ教皇のスピーチや人々への接し方は、カトリックという枠を越えたものだったと思います。ただ、東京ドームでの5万人のミサという「メガ・チャーチ」には、違和感をおぼえました。数々の記念グッズまで売られていたそうです。13億人の信者の最高指導者ですので、偶像化は避けられないのかも知れませんけれど。

 

◆考えてみれば、ローマ教皇という地位は、宗教界でも珍しいものです。プロテスタント全体の最高指導者も、東方正教全体の最高指導者も、イスラームの最高指導者も、仏教全体の最高指導者もいません。今は。

 

◆フランシスコ教皇は、カトリック教会の歴史を背負っています。カトリックはもともと「普遍的」という意味でしたが、歴史上数々の過ちを犯してきました。たとえば、魔女狩りジャンヌ・ダルクガリレオ・ガリレイの異端裁判、ラテンアメリカ侵略への加担などです。そして、今も問題を抱えるカトリック教会。その最高指導者として生きるというのは、大変なことだと思います。

 

カトリック教会には、今もさまざまな問題があります。たとえば、現在も女性の司祭を認めていません。ベネディクト会などのシスターたちも声をあげていますが、まだ大きなうねりにはなっていないようです。非クリスチャンから見ると、根強い聖母マリア信仰(崇敬)とのアンバランスが気になります(*)。妊娠中絶や同性婚をめぐっても、議論が続いています。また聖職者による性的虐待が、この間ずっと問題になってきました。報道にもありましたが、教皇の日本滞在中にも、アルゼンチン(フランシスコ教皇の母国です)では2人の神父が性的虐待で有罪判決を受けました(**)。アイルランドローマ帝国の領域外では最も古いカトリック地域です)をはじめとして、ヨーロッパではカトリック信者が減少しています。

 

教皇核兵器廃絶のメッセージはすばらしいものでした。しかし、残念なこともありました。歴史的な東南アジア・東アジア訪問にもかかわらず(今年はザビエルの来日から470年目にあたっていました)、フランシスコ教皇は香港の民主化運動や中国政府の人権弾圧には言及しませんでした。言及できなかったのだと思います。昨年、1,000万人といわれる中国のカトリック信者のために、強権的な習近平指導部と妥協したからです。教皇は中国、香港、台湾に平等にメッセージを送りました。それが、今できる最大限のことだったのでしょう。教皇もまた、国際政治の渦中にいるのです。

 

教皇カトリック教会が抱えている問題とは、私たちが生きている現実そのものにほかなりません。不透明なこの世界の中で、多くの困難に直面しながら、真摯に祈るフランシスコ教皇。その姿に共鳴できるのは、私たち自身が、祈るほかないような現実に向き合っているからだと思います。

 

(*)カトリック教会における、女性司祭の否定と聖母マリア信仰(崇敬)とのアンバランス(それとも、巧みなバランス?)は、きわめて興味深いテーマです。残念ながら、高校の世界史教科書は、聖母マリア信仰について触れていません。ヨーロッパの美術や建築の理解に(ひいては東方正教のイコン理解に)、そして宗教改革の理解にも、欠かせないことがらなのですが。

 

(**)根深い問題だと思います。13世紀に、日本では、親鸞が自らを「非僧非俗」とし、公然と妻帯したことを思い出します。

 

【「法王」と「教皇」に関連して】

 

今回の訪問から、日本では「法王」という言い方がなくなりました。これは、当然です。「法」は、もともと仏教用語だからです。サンスクリット語の「ダルマ」という語が、中国で漢訳されて「法」となりました。「真理」という意味です.。そこから、法話、法師、法隆寺などと使われてきました。

 

「法王」という語が、1942年(昭和17年)、日本とヴァチカンが国交を結んだ時から使われてきたということを、今回初めて知りました。なぜ、「教皇」ではなく「法王」だったのでしょうか? 当時「天皇」は、国家神道の頂点に君臨する「現人神(あらひとがみ)」でした。カトリック教会の最高指導者を「教皇」と呼べば、「天皇」と同じ漢字を使うことになります。「天皇を教えみちびく」と読めないこともありません。「法王」は、「天皇」と同じ漢字を使わないようにするため、考え出された語であったと思います。

 

第二次世界大戦中の1942年に、日本とヴァチカンの国交が結ばれたという事実には、驚きました。真珠湾攻撃の翌年です。ヨーロッパでは、独ソ戦が始まっていました。ヴァチカンの立ち位置は、枢軸国側にあったということでしょう。もともとヴァチカン市国は、ムッソリーニ政権との協定によって初めてが成立したのでした(1929年、ラテラノ条約)。

 

◆一方、当時の日本政府は、何を意図したのでしょうか? ムッソリーニ政権との関係強化だったのでしょうか、それとも「法王」に何らかの仲介役を期待したのでしょうか? 軍部の戦略とは少し異なる動きだったのかも知れません。戦後をにらんで、外交ルートを増やしておこうとしたという説もあります。

 

なお、第二次世界大戦中の、ナチスへのヴァチカンの対応については、来年3月秘密文書が公開されるそうです(フランシスコ教皇が公開を決めました)。来年、あらためて論議を呼ぶことになるでしょう。当時の日本のキリスト教界や仏教界が戦争に巻き込まれていったことも、思い返しておかなければなりませんが……。

 

※「法王」の使用について、幕末の1862年番所調書が「羅馬法王」という訳語を使ったという記事がありました。(朝日新聞、2020.1.11 、ことばサプリ)【2020年1月12日追記】