世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★小川幸司『世界史とは何か』への危惧[最終更新 8/24]

 

何度も書き直しましたので、少し前に読んだ方には、ご迷惑をおかけしたと思います。まだ書き足りないことがあるような気はしていますが、加除・訂正を終わりにします。[8/24]

 

◆小川幸司『世界史とは何か』(岩波新書、2023)を読んでみました。

 

◆世界史教育への限りない情熱、該博な知識、膨大な読書量、強靭な思考に圧倒されてしまいました。同じ世界史教員でも、私などとは雲泥の差があります。しかも、校長職を投げうって教諭に戻ったというのですから、すごい方です。

 

◆映画「ショア」(私もかつて1日がかりで観ました)の上映という「歴史実践」の場面は、すばらし過ぎて、まるで小説を読んでいるような感じでした。誰にでもできることではありません。ずば抜けた能力を持った教員による、稀有な実践だったと思います。他の「歴史実践」同様、小川の強い倫理感が表れていました。強い倫理感は「諸刃の剣」ですが。

 

ベンヤミンの「歴史の概念について」の引用には、若干違和感を覚えました。引用され、援用されることで、「歴史の概念について」の独特の輝きは消えざるを得ません。終末論的なアウラを持つ「歴史の概念について」(メシアという語も使われています)で日本の世界史(歴史)教育を基礎づけようとすると、どうしても無理が生じるのだと思います。

 

◆本書は小川の世界史(歴史)教育研究の集大成だと思います。世界史(歴史)教育者としての強い自負心も感じられました。共感できることも多かったのですが、その根本にある思想には危惧の念を抱かざるを得ませんでした。「蟷螂の斧」であることは承知しつつも、小川の思想を<「歴史実践」主義>・<「歴史倫理」主義>という語で特徴づけています。

 

◆最後の<少し別な道>は大まかなスケッチに過ぎませんが、高校現場の状況も考えながら書きました。

 

<「歴史実践」への過剰な意識>

 

◆まず気になったのは、世界史教育(広い意味では歴史教育、小川の言葉で言えば「歴史実践」)へのあまりにも過剰な意識です。高校教育の中で、世界史教育(歴史教育)だけが特別の価値を持つわけではないでしょう。にもかかわらず、「いのちを相互にリスペクトしあう」や『「今ここで」どう生きるか』というフレーズに表れているように、世界史教育(歴史教育)に多くのことを包含し過ぎています。著書に流れているのは、<「歴史実践」主義>(歴史教育を、生徒たちに強い影響力を持つ特別な分野とみなす考え方)と呼べるような傾向です。あたりまえのことですが、高校生は歴史の授業だけからさまざまのことを学んでいるわけではありません。「いのちを相互にリスペクトしあう」ことなどは、人生の中でそのつどそのつど学んでいくことでしょう。

 

上原専禄の大上段に構えた文章が引用されていましたが[*1]、歴史教育において「ひとりひとりの変化」を求めるなどということは、大それたことです。「右」であれ、「左」であれ、その中間であれ。もしも「歴史実践」によって「生徒の生き方を変えられる」と考えるとすれば(「生徒が主体的に選択する」と言い換えることを忘れなかったとしても)、恐ろしいことです。

 

[*1]上原専禄などの評価や「主体」という語の多用、掲げられている参考文献などから考えると、小川は、戦後歴史学の遺産を幅広く継承しているようです。ただ、ベンヤミンへの傾倒からは、やや異質なものも感じられます。ベンヤミンと同じユダヤ系の歴史哲学者ハンナ・アーレントへの言及はありませんでした。フランスのアナール派や近現代のフランス思想への言及もありません。

 

<「歴史倫理」の強い要請>

 

◆世界史(歴史)教育を論じる際に、対話の条件として「いのちを相互にリスペクトしあう」という倫理性の強いイデー(理念)を強調することは、あまり適切ではないと思います。なぜなら、生徒を隘路に追い込む可能性もあるからです。リスペクトできない事態に直面することは、残念ながら、よくあることです。国際社会でも、日本国内でも、個々の人生でも。その際「リスペクトしあう」ことを至上命題にすると、行き詰まってしまうことがあると思います。むしろ、リスペクトのずっと手前の「憎み合わない」工夫、「非難し合わない」工夫が大事になることも多いのです。もちろん、歴史においては、リスペクトと非リスペクトあるいは反リスペクトは、あざなえる縄のように入り組んできました。

 

◆小川の熱烈な<「歴史実践」主義>には、濃厚な<「歴史倫理」主義>(歴史の探究に生き方や倫理的判断を強く含める考え方)が潜んでいます。それは、『「今ここで」どう生きるか』というフレーズに端的に表れていましたし、少々しかつめらしい「歴史実践の六層構造」(六つの用語にはどうしてもなじめないのですが)の「F 歴史創造」にも明示されていました。

 

  F 【歴史創造】歴史を参照しながら、自分の生きている位置を見定め、自分の進むべき道を選択し、自らが歴史主体として生きることにより、「行為の探究」を行う。(61ページ)

 

 このような考え方は随所に見られ、読んでいて息苦しくなるほどでした。東日本大震災を取り上げた「現在進行形のファクトを問い直す」にも、きわめてよく表れていたと思います。歴史や現在進行形の出来事への問いは、ブーメランのように、いつも自分の生き方への問いにもどっています。過去や現在の探究が、まるで「求道」でもあるかのように、強い倫理的要請に縛られているのです(小川の根底に「宗教的な情熱」があるわけではないと思いますけれど)。小川の授業では、生徒たちはかなりの緊張を強いられるのではないでしょうか。

 

<少し別な道>

 

◆歴史研究者や歴史の教員は、歴史教育を、生徒たちの生き方を左右するような、特権的な分野に祭り上げてはなりません。熱心な歴史の教員は、授業の中で生徒たちが決定的な体験をすること(「歴史主体として生きる」契機をつかむこと)を求めがちですが、それはとても危険なことです。自分の歴史認識だけでなく、自分の歴史への情熱をも、歴史の教員は相対化しておく必要があるでしょう。難しいことかも知れませんが、「歴史教育にできることは限られている」という気持ちを持つことも大切なのです。

 

◆「ヒストリア(探究)」とは何でしょうか? 緻密に考えられた「歴史実践の六層構造」や「世界史の学び方10のテーゼ」を眺めていると、「自分が考えてきた歴史の学びは、人びとの喜怒哀楽をも見つめる、もう少しゆるやかなものだった」と気づかされます。「堅固な歴史教育論を構築するのだ」という執念さえ感じられますが、このような「構造」や「テーゼ」をリジッドな範とすると、「ヒストリア」の自由度は狭まることになります。小川にとっては、この「構造」や「テーゼ」が歴史学習の「王道」なのでしょう。しかし、多分、「王道」からの「逸脱」にも、「エラン(飛躍)」にも、豊かな「ヒストリア」はあると思います。

 

◆歴史は矛盾に満ちた多様性そのものです。人間は収奪もしてきましたが、贈答も行ってきました。自然を破壊してきましたが、花も育ててきました。歴史には、憎しみに満ちた争いの日々も、穏やかな歓待の日々もありました。私たちの日常と同じく、歴史にはさまざまのことが悲喜こもごもに流れてきました。どんなに悲惨な時代にも(あるいは悲惨な時代だからこそ)、人間は美しく力強い芸術や深い思索を生み出してきました。歴史の授業で、生徒たちが矛盾に満ちた多様性を知ることができれば、それで十分だとも言えます。

 

◆「歴史の荒野」の中に「清冽な泉」もあることは、小川もよく知っています。文化(政治を含んだものです)への言及は少ないのですが、知里幸恵について述べた部分はよかったと思います。ただ私は、知里幸恵を、「涙」や「アイヌ」としてだけでなく、普遍的な「光」のように受け取っています。[*2]

 

[*2]小川のように、知里幸恵を「国民国家批判」のコンテクストで取り上げるのは、きわめて「歴史総合」的です。ただ、詳述はしませんが、「国民国家批判」は割合簡単に行えると思います。重要なのは、単純な批判に流れず、諸地域での「国民国家形成」の複雑さに向き合いながら、批判的に検討することです。

 

◆小川の著書に足りないものがあるとすれば、大きく言って、次の三つでしょうか。一つは、「歴史教育にできることは限られているという、謙虚な自己限定」です。<「歴史実践」主義>とは正反対のベクトルです。二つ目は、「ジェンダーから歴史を見る視点」です。歴史における女性については、戦争協力をめぐってわずかに触れられているだけです。10年前の著書ならやむを得ないでしょうが、今年出版の世界史教育研究書としては疑問符をつけざるを得ません。「歴史総合を学ぶ」というシリーズの1冊としてもふさわしくないと思います。三つ目は、「歴史を学ぶ楽しさ」です。過去のさまざまな危機に向き合い、自分の生き方を鋭く問うことは大切ですが、それだけが歴史の学びではないと思います。多分、本来の「ヒストリア」には、楽しみや喜びも含まれているはずです。

 

◆華々しい「歴史実践」からは、少し離れていたいような気がします。「学ぶ楽しさを感じられる、本質は外さない、少しラフな歴史の授業」というようなものが、必要なのかも知れません。「少しラフな」は誤解を招く表現だと思いますが、<「歴史実践」主義>や<「歴史倫理」主義>から距離をとることを意味しています。「構造」や「テーゼ」から少しずれることを意味しています。歴史の矛盾をあえてアウフヘーベン止揚)しないことを意味しています。そして、生徒たちが、真剣なまなざしだけでなく、時にはやわらかな笑顔で授業に臨むことも意味しています。平凡で地味な内容であっても、「荒野」の中に人びとの営みのぬくもりが感じられる授業であれば、もうそれで言うことはありません。

 

【 追記(8/24)】

 

●帯に『「歴史総合」最終講義』とありましたが、誤解を招く表現です。小川自身が『「歴史総合」を素材に「世界史とは何か」を考える試み』と断っています。そのためでしょう、本書の性格はかなり曖昧です。シリーズ名(「歴史総合」を学ぶ)とは違い、「歴史総合」は世界史に呑み込まれてしまっています。書名とは違い、古代・中世・近世を含めた「世界史とは何か」が明らかになっているわけではありません。本書だけ読む読者には、新科目「歴史総合」と新科目「世界史探究」の近現代史部分との区別もつきにくいでしょう。

 

●本書は、アカデミズムの一部や歴史に関心のある市民・学生には、好感をもって迎えられているようです。ただ重要なのは、全国の歴史の教員の反応です。本書の内容は、多忙な中で地道に授業を行っている、多くの歴史教員に共有されるでしょうか?