世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

【ラテン語・ギリシア語とヨーロッパ】<探究的な授業へ②>

 

<はじめに>

 

■高校の世界史の授業で言語を取り上げることは簡単ではありません。ただ、言語文化(圏)というとらえ方をすると、理解しやすくなる場合があります。ここでは、ラテン語文化(圏)とギリシア語文化(圏)を取り上げます。探究的な授業への手がかりになればと思います。

 

1 ラテン語文化圏とギリシア語文化圏

 

★言語文化と宗教は密接な関係にあります。たとえば、中世西ヨーロッパは「ラテン・キリスト教世界」(ラテン語文化圏のキリスト教世界)と呼ぶことができます。ビザンツ帝国ギリシア正教でしたが、同じような言い方で言えば、「ギリシア語・キリスト教世界」ということになります。

 

★「ラテン・キリスト教世界」という語は、高校の教科書では使われていません。しかし、ローマ・カトリック圏を「ラテン・キリスト教世界」と呼んだ方が、西ヨーロッパ(+中央ヨーロッパ)をよりよく理解できると考えています。(「ラテン・キリスト教世界」という語は、ジャック・ル=ゴフの『ヨーロッパは中世に誕生したのか?』で、ごく普通に使われています。)

 

★395年のローマ帝国東西分裂の背景には、言語文化圏の違いがありました。大きく見ると、西ローマ帝国ラテン語文化圏、東ローマ帝国ビザンツ帝国)の大半はギリシア語文化圏でした。東ローマ帝国ビザンツ帝国)は、6世紀のユスティニアヌス帝の頃まではラテン語文化圏にもとどまっていましたが、7世紀にはギリシア語を公用語とするようになります。

 

2 ギリシア語文化圏

 

東ローマ帝国ビザンツ帝国)がギリシア語文化圏になったのは、なぜでしょうか? ヘレニズム時代に小アジア、シリア、パレスチナ、エジプトまでギリシア語文化が広まったからです。ヘレニズム時代の授業をアレクサンドロス大王中心に行ったり、軽く扱ったりすると、実際の歴史が見えにくくなります。ヘレニズム時代は、前30年まで、300年も続きました。この時代に、ローマにもギリシア文化は浸透していったのです。それは、ストア派の哲学がローマで隆盛を迎えたことからもわかります。

 

★また、ヘレニズム時代が終わっても(ヘレニズム王朝が滅びてローマ支配下になっても)、小アジア、シリア、パレスチナ、エジプトはギリシア語文化圏でした。このことは、きわめて重要です。この事実を押さえないと、『新約聖書』がなぜギリシア語で書かれたのか、わからなくなってしまいます。東ローマ帝国ビザンツ帝国)は、このギリシア語文化圏を引き継いだのです。

 

★なお、イスラーム勢力は、正統カリフ時代に、ビザンツ帝国からシリア・パレスチナ・エジプトを奪いました。アラビア語を話すアラブ人が、ギリシア語文化圏の人々を支配することになったのです。ここで、イスラーム世界とギリシア語文化の出会いが生じたのでした。このことが、やがて「知恵の館」での翻訳活動につながっていきます。

 

3 ラテン・キリスト教世界

 

★一方、西ローマ帝国では、ヒエロニムスによる新約聖書旧約聖書ラテン語訳が完成しました。405年頃とされていますので、アウグスティヌスが『告白』を書いた頃になります。これ以降、西ローマ帝国~中世西ヨーロッパでは、ラテン語訳聖書がスタンダードとなりました。(困ったことですが、現行の世界史教科書は、ヒエロニムスと聖書のラテン語訳に触れていません。)

 

西ローマ帝国は政治的には滅びましたが、ラテン語文化圏はキリスト教と結びついて続き、ラテン語は中世西ヨーロッパの普遍的言語となりました。また、キリスト教世界になっても、ラテン語で書かれたローマの古典は、読み続けられました。

 

★したがって、中世西ヨーロッパの人々自身にも、「ラテン・キリスト教世界」という意識はありました。そうでなければ、第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領した後、「ラテン帝国」という名称を使ったりはしなかったでしょう。

 

4 中世後半以降のラテン・キリスト教世界

 

★しかし、「ラテン・キリスト教世界」が普遍性を持てなくなる時代が来ます。宗教改革によるプロテスタント諸派の形成は、「ラテン・キリスト教世界」の分裂でした。強力なカトリック圏として残ったイタリア、スペイン、ポルトガル、フランスは、いずれもラテン語系の言語の国々です。プロテスタント諸派を取り入れたのは、おおむねゲルマン系の国々でした。

 

★一方、ルネサンスは、ラテン語文化に含まれていたギリシア文化の顕在化でした。12世紀ルネサンスは重要ですが、「ラテン語文化に含まれていたギリシア文化」という視点も大切です。アルファベットはその最たるものですし、12世紀ルネサンス以前から、ギリシア語の語彙はラテン語に入っていきました。たとえば、ラテン語のアンゲルス  angelus[天使] は、ギリシア語のアンゲロス anngelos から来ています。ギリシア語の単語を借用したのです。また、ギリシア語・ラテン語の語彙は、フランス語や英語にもたくさん入りました。ラテン語のアンゲルスは、フランス語を経由して英語のエンジェル angel となったのでした。

 

★なお中世後半に入ると、後の各国語(俗語と呼ばれました)の形成があり、ラテン語と各国語のせめぎ合いは近世まで続いていきます。14世紀初めの『神曲』は、このような中で書かれました。ダンテは、「ラテン・キリスト教世界」を、トスカナ語で壮大に描いたのでした。ウィクリフの聖書英訳やルターの聖書ドイツ語訳も、この文脈の中に位置づけることができます。

 

5 近世以降のラテン語文化

 

★近世では各国語の作品が増えていきます。文学は、シェークスピアの諸作品をはじめ、各国語で書かれるようになりました。哲学の言語にとっては、17世紀は過渡期でした。デカルトは『方法序説』をフランス語で書きましたが、『省察』はラテン語で書いています。スピノザの『エチカ』はラテン語でした。また、科学書は、ニュートンの『プリンキピア』(17世紀末)をはじめ、ラテン語で書かれたようです。

 

★現在でも、動植物などの学名にはラテン語が使用されています。これは、18世紀のリンネのラテン語の分類を継承したものです。近代以降も、ラテン語の語彙は学術語として普遍性を保ってきたと言えるでしょう。

 

<おわりに>

 

■言語文化の探究的な授業は、教科書記述の面から見ても、なかなか難しいのが現状です。新課程の「世界史探究」では、どうなるのでしょうか? 歴史の理解を深めるためには、言語を宗教・社会・政治とも関連させて取り上げることが大切だと思っています。