世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★「レコンキスタ( Reconquista )」から考える世界史の授業

 

イベリア半島におけるキリスト教諸国のレコンキスタ( Reconquista 、8世紀~1492年)は長らく「国土回復運動」と訳されてきましたが、「世界史探究」ではようやく「再征服」あるいは「再征服運動」、「国土再征服運動」と記す教科書が増えました。山川の『新世界史』、東書の『世界史探究』、実教の『世界史探究』、帝国の『新詳世界史探究』が、そのような訳語を使っています。

 

◆「国土回復運動」という意訳もいいのですが、スペイン語の< re + conquista >を文字通り「再征服」と訳す利点もあります。他の事項とのつながりが理解できるからです。

 

  ⓵ コルテスやピサロなどをコンキスタドール( conquistador 、征服者)と呼ぶことが理解しやすくなります。

 

  ② ノルマン・コンクエスト( Norman Conquest )の授業で Conquest が「征服」の意味であることを学んでいれば、英語の conquest とスペイン語の conquista の共通性が理解できます。

 

◆さらに、英語の conquest とスペイン語の conquista が、ともにローマの言語であったラテン語からきていることにも触れれば、「世界史探究」の授業としては申し分ないでしょう。ラテン語の影響力の強さを確認できます。(また、ローマの歴史が共和政の時代から「征服の歴史」であったことも思い起こせるでしょう。)

 

グローバル化( globalization )が進展している時代の世界史の授業のあり方を、言語から再考してみてもいいと思います。私はスペイン語の単語をいくつか知っているだけですが、世界史の授業を通じて、英語以外の言語に関心を持つ生徒が増えてくれればと考えてきました。重要な語の多くは、教科書にはアルファベットでも表記されています。アルファベット表記を積極的に活用した授業を工夫できれば、生徒たちの視野も広がるのではないでしょうか。

★東インド会社は重要ですが、そもそも「東インド」とは?

 

●「西インド諸島」という呼称については、ほとんどの「世界史探究」教科書が、「自分たちはインディアスに到達した」というコロンブスの誤解から生まれた語と説明しています。

 

●一方、「東インド」については、ほとんどの教科書に説明がありません。イギリス(イングランド)やオランダの東インド会社の記述においても、説明なしで済ましています。

 

◆この点に気づいた実教出版の『世界史探究』は、コラムで次のように述べています。

 

 「もともとヨーロッパでは、おおむね南アジアより東のアジアを漠然とインド(スペイン語でインディアス)とよんでいた。コロンブスの到達したのがインドでないとわかったあとも、アメリカを西インド、カリブ海の諸島を西インド諸島とよび、本来のインドを東インドとよんだ。」【下線は引用者】

 

◆「東インド」について説明しようとした姿勢はすばらしいのですが、残念ながら下線部は正確ではありません。下線部のような説明では、1853年に浦賀に来航したペリーが「東インド隊司令長官」であったことも、理解できなくなります。

 

◆羽田正の次のような説明が適切だと思われます。

 

 『17世紀初め頃の北西ヨーロッパの人たちの世界認識では、ヨーロッパから船に乗って西に向かうと出会う島や大陸は、新大陸の南端のマゼラン海峡に至るまですべてが「西インド」に含まれていた。カリブ海の島々やアメリカ大陸がこれにあたる。一方、アフリカ南端の喜望峰からマゼラン海峡に至る間に位置する海岸沿いの諸地域はすべて「東インド」と認識された。従って、現在のインド亜大陸だけではなく、アラビア半島やペルシアから東南アジアを経て中国に至るまでのアジア諸地域はすべて東インドの国々ということになる。日本も当然東インドの中に含まれる。当時のヨーロッパの人たちにとっては、ペルシアもインドも中国も日本も皆、同じ東インドに属する地域だったのだ。』

  【羽田正『東インド会社とアジアの海』[興亡の世界史15、講談社、2007](現在は講談社学術文庫)】

 

◆『東インド会社とアジアの海』は、グローバル・ヒストリーという語が日本で一般化する前の時期の、すばらしいグローバル・ヒストリーだったと思います。

 

◆ただ残念なことに、羽田正も著作者に名を連ねている、山川出版社の『新世界史』には、「東インド」の説明はありませんでした。

★インディオ、インディアンという語

 

 今の高校生の場合(エリート校は別でしょうが)、インディオやインディアンという語については、授業でていねいな説明が必要です。

 

◆次の文章は山川『詳説世界史』のものですが、このままだと不十分だと思われます。

 

 『コロンブスの船団は1492年にカリブ海の島に到着した。彼はその後、今日のアメリカ大陸にも上陸したが、そこを「インド」」と信じ、その住民をインディオ(インディアン)と呼んだ。』

 

 ●最初に到達したところであれば、「カリブ海の島」は正確ではありません。コロンブスが最初に到達したのは、バハマ諸島のサンサルバドル島(現ウォトリング島)ですので、大西洋の西端にあたります。その後、カリブ海域に向かいました。

 ●「インディオ」と「インディアン」が区別されていません。コロンブスたちが使ったのは、スペイン語の「インディオ」のほうです。

 

◆東書の『世界史探究』は、注で次のように述べていて、割合ていねいです。

 

 『コロンブスアメリカ大陸をインディアス(インドや中国のあたりを漠然とさす語)と誤解したことから、中南米の先住民は「インディオ」、北米の先住民は「インディアン」とよばれていたが、いずれも現在では差別用語として、使用をさける動きも出ている。』

 

 ●授業では、スペイン語ポルトガル語で「インディオ( Indio )」、英語で「インディアン( Indian )」と呼ばれてきたことを付け加えるべきでしょう。アルファベットで書いたほうが、生徒たちは理解しやすいと思います。

 

◆次回に取り上げる「西インド諸島」も同じなのですが、誤解から生じた用語が長く使われてきたのは、驚くべきことです。まさにヨーロッパ中心史観の用語だったからでしょう。

★トルキスタンの成立

 

◆トルコ系民族の西方移動(西進)や東西トルキスタンの成立は、生徒たちにとっては理解しづらい部分だと思います。したがって高校の世界史の教科書も、ある程度ていねいな記述が必要だと思ってきました。

 

◆ていねいな記述がなされているのは、東京書籍の『世界史探究』と帝国書院の『新詳世界史探究』です。

 

◆東書は、「草原地帯のトルコ化とイスラーム化」というタイトルで、2ページにわたって記述しています。「トルコ人の西進」の地図と中央アジアの地勢・オアシス都市がわかる地図も載せています。東トルキスタン西トルキスタンの区別は、本文と地図で理解できるようになっていて、親切です。なお、ハザール(7~10世紀)について触れていて、すばらしいと思いました。

 

◆帝国では、「突厥帝国とウイグルチベット」および「トルコ人の西方移動とユーラシアの変動」で、詳しく述べられています。「トルコ系王朝の西方展開」という地図も載せていますが、特に次の記述が光っています。

 

 「このように9世紀に始まるトルコ人の西方移動は、数世紀をかけて、西へ向かうトルコ化(住民の言語のトルコ語化)と東へ向かうイスラーム化(住民のイスラーム受容)の波を引き起こし、世界史に大きな影響を与えた。」

 

山川出版社の旧課程版の『詳説世界史』にはていねいな記述とわかりやすい地図があり、大変良かったのですが、なぜか新課程の「探究」では簡略化されてしまいました。東トルキスタン西トルキスタンの区別も記されていません。中央ユーラシア史の記述の後退は好ましいことではありません。

 

▼山川の『新世界史』の記述も簡単なものです。しかも一連の流れが2か所に分けて書かれていますので、生徒たちはわかりにくいと思います。

 

実教出版の『世界史探究』もきわめて簡単な記述です。しかも、ウイグルトルキスタンも中国史に付随して書かれています(まるで半世紀前の教科書のようです)。このような取り上げ方では、生徒たちは、中央ユーラシアの歴史を軽視してしまうでしょう。

★小川幸司『世界史とは何か』への危惧[最終更新 8/24]

 

何度も書き直しましたので、少し前に読んだ方には、ご迷惑をおかけしたと思います。まだ書き足りないことがあるような気はしていますが、加除・訂正を終わりにします。[8/24]

 

◆小川幸司『世界史とは何か』(岩波新書、2023)を読んでみました。

 

◆世界史教育への限りない情熱、該博な知識、膨大な読書量、強靭な思考に圧倒されてしまいました。同じ世界史教員でも、私などとは雲泥の差があります。しかも、校長職を投げうって教諭に戻ったというのですから、すごい方です。

 

◆映画「ショア」(私もかつて1日がかりで観ました)の上映という「歴史実践」の場面は、すばらし過ぎて、まるで小説を読んでいるような感じでした。誰にでもできることではありません。ずば抜けた能力を持った教員による、稀有な実践だったと思います。他の「歴史実践」同様、小川の強い倫理感が表れていました。強い倫理感は「諸刃の剣」ですが。

 

ベンヤミンの「歴史の概念について」の引用には、若干違和感を覚えました。引用され、援用されることで、「歴史の概念について」の独特の輝きは消えざるを得ません。終末論的なアウラを持つ「歴史の概念について」(メシアという語も使われています)で日本の世界史(歴史)教育を基礎づけようとすると、どうしても無理が生じるのだと思います。

 

◆本書は小川の世界史(歴史)教育研究の集大成だと思います。世界史(歴史)教育者としての強い自負心も感じられました。共感できることも多かったのですが、その根本にある思想には危惧の念を抱かざるを得ませんでした。「蟷螂の斧」であることは承知しつつも、小川の思想を<「歴史実践」主義>・<「歴史倫理」主義>という語で特徴づけています。

 

◆最後の<少し別な道>は大まかなスケッチに過ぎませんが、高校現場の状況も考えながら書きました。

 

<「歴史実践」への過剰な意識>

 

◆まず気になったのは、世界史教育(広い意味では歴史教育、小川の言葉で言えば「歴史実践」)へのあまりにも過剰な意識です。高校教育の中で、世界史教育(歴史教育)だけが特別の価値を持つわけではないでしょう。にもかかわらず、「いのちを相互にリスペクトしあう」や『「今ここで」どう生きるか』というフレーズに表れているように、世界史教育(歴史教育)に多くのことを包含し過ぎています。著書に流れているのは、<「歴史実践」主義>(歴史教育を、生徒たちに強い影響力を持つ特別な分野とみなす考え方)と呼べるような傾向です。あたりまえのことですが、高校生は歴史の授業だけからさまざまのことを学んでいるわけではありません。「いのちを相互にリスペクトしあう」ことなどは、人生の中でそのつどそのつど学んでいくことでしょう。

 

上原専禄の大上段に構えた文章が引用されていましたが[*1]、歴史教育において「ひとりひとりの変化」を求めるなどということは、大それたことです。「右」であれ、「左」であれ、その中間であれ。もしも「歴史実践」によって「生徒の生き方を変えられる」と考えるとすれば(「生徒が主体的に選択する」と言い換えることを忘れなかったとしても)、恐ろしいことです。

 

[*1]上原専禄などの評価や「主体」という語の多用、掲げられている参考文献などから考えると、小川は、戦後歴史学の遺産を幅広く継承しているようです。ただ、ベンヤミンへの傾倒からは、やや異質なものも感じられます。ベンヤミンと同じユダヤ系の歴史哲学者ハンナ・アーレントへの言及はありませんでした。フランスのアナール派や近現代のフランス思想への言及もありません。

 

<「歴史倫理」の強い要請>

 

◆世界史(歴史)教育を論じる際に、対話の条件として「いのちを相互にリスペクトしあう」という倫理性の強いイデー(理念)を強調することは、あまり適切ではないと思います。なぜなら、生徒を隘路に追い込む可能性もあるからです。リスペクトできない事態に直面することは、残念ながら、よくあることです。国際社会でも、日本国内でも、個々の人生でも。その際「リスペクトしあう」ことを至上命題にすると、行き詰まってしまうことがあると思います。むしろ、リスペクトのずっと手前の「憎み合わない」工夫、「非難し合わない」工夫が大事になることも多いのです。もちろん、歴史においては、リスペクトと非リスペクトあるいは反リスペクトは、あざなえる縄のように入り組んできました。

 

◆小川の熱烈な<「歴史実践」主義>には、濃厚な<「歴史倫理」主義>(歴史の探究に生き方や倫理的判断を強く含める考え方)が潜んでいます。それは、『「今ここで」どう生きるか』というフレーズに端的に表れていましたし、少々しかつめらしい「歴史実践の六層構造」(六つの用語にはどうしてもなじめないのですが)の「F 歴史創造」にも明示されていました。

 

  F 【歴史創造】歴史を参照しながら、自分の生きている位置を見定め、自分の進むべき道を選択し、自らが歴史主体として生きることにより、「行為の探究」を行う。(61ページ)

 

 このような考え方は随所に見られ、読んでいて息苦しくなるほどでした。東日本大震災を取り上げた「現在進行形のファクトを問い直す」にも、きわめてよく表れていたと思います。歴史や現在進行形の出来事への問いは、ブーメランのように、いつも自分の生き方への問いにもどっています。過去や現在の探究が、まるで「求道」でもあるかのように、強い倫理的要請に縛られているのです(小川の根底に「宗教的な情熱」があるわけではないと思いますけれど)。小川の授業では、生徒たちはかなりの緊張を強いられるのではないでしょうか。

 

<少し別な道>

 

◆歴史研究者や歴史の教員は、歴史教育を、生徒たちの生き方を左右するような、特権的な分野に祭り上げてはなりません。熱心な歴史の教員は、授業の中で生徒たちが決定的な体験をすること(「歴史主体として生きる」契機をつかむこと)を求めがちですが、それはとても危険なことです。自分の歴史認識だけでなく、自分の歴史への情熱をも、歴史の教員は相対化しておく必要があるでしょう。難しいことかも知れませんが、「歴史教育にできることは限られている」という気持ちを持つことも大切なのです。

 

◆「ヒストリア(探究)」とは何でしょうか? 緻密に考えられた「歴史実践の六層構造」や「世界史の学び方10のテーゼ」を眺めていると、「自分が考えてきた歴史の学びは、人びとの喜怒哀楽をも見つめる、もう少しゆるやかなものだった」と気づかされます。「堅固な歴史教育論を構築するのだ」という執念さえ感じられますが、このような「構造」や「テーゼ」をリジッドな範とすると、「ヒストリア」の自由度は狭まることになります。小川にとっては、この「構造」や「テーゼ」が歴史学習の「王道」なのでしょう。しかし、多分、「王道」からの「逸脱」にも、「エラン(飛躍)」にも、豊かな「ヒストリア」はあると思います。

 

◆歴史は矛盾に満ちた多様性そのものです。人間は収奪もしてきましたが、贈答も行ってきました。自然を破壊してきましたが、花も育ててきました。歴史には、憎しみに満ちた争いの日々も、穏やかな歓待の日々もありました。私たちの日常と同じく、歴史にはさまざまのことが悲喜こもごもに流れてきました。どんなに悲惨な時代にも(あるいは悲惨な時代だからこそ)、人間は美しく力強い芸術や深い思索を生み出してきました。歴史の授業で、生徒たちが矛盾に満ちた多様性を知ることができれば、それで十分だとも言えます。

 

◆「歴史の荒野」の中に「清冽な泉」もあることは、小川もよく知っています。文化(政治を含んだものです)への言及は少ないのですが、知里幸恵について述べた部分はよかったと思います。ただ私は、知里幸恵を、「涙」や「アイヌ」としてだけでなく、普遍的な「光」のように受け取っています。[*2]

 

[*2]小川のように、知里幸恵を「国民国家批判」のコンテクストで取り上げるのは、きわめて「歴史総合」的です。ただ、詳述はしませんが、「国民国家批判」は割合簡単に行えると思います。重要なのは、単純な批判に流れず、諸地域での「国民国家形成」の複雑さに向き合いながら、批判的に検討することです。

 

◆小川の著書に足りないものがあるとすれば、大きく言って、次の三つでしょうか。一つは、「歴史教育にできることは限られているという、謙虚な自己限定」です。<「歴史実践」主義>とは正反対のベクトルです。二つ目は、「ジェンダーから歴史を見る視点」です。歴史における女性については、戦争協力をめぐってわずかに触れられているだけです。10年前の著書ならやむを得ないでしょうが、今年出版の世界史教育研究書としては疑問符をつけざるを得ません。「歴史総合を学ぶ」というシリーズの1冊としてもふさわしくないと思います。三つ目は、「歴史を学ぶ楽しさ」です。過去のさまざまな危機に向き合い、自分の生き方を鋭く問うことは大切ですが、それだけが歴史の学びではないと思います。多分、本来の「ヒストリア」には、楽しみや喜びも含まれているはずです。

 

◆華々しい「歴史実践」からは、少し離れていたいような気がします。「学ぶ楽しさを感じられる、本質は外さない、少しラフな歴史の授業」というようなものが、必要なのかも知れません。「少しラフな」は誤解を招く表現だと思いますが、<「歴史実践」主義>や<「歴史倫理」主義>から距離をとることを意味しています。「構造」や「テーゼ」から少しずれることを意味しています。歴史の矛盾をあえてアウフヘーベン止揚)しないことを意味しています。そして、生徒たちが、真剣なまなざしだけでなく、時にはやわらかな笑顔で授業に臨むことも意味しています。平凡で地味な内容であっても、「荒野」の中に人びとの営みのぬくもりが感じられる授業であれば、もうそれで言うことはありません。

 

【 追記(8/24)】

 

●帯に『「歴史総合」最終講義』とありましたが、誤解を招く表現です。小川自身が『「歴史総合」を素材に「世界史とは何か」を考える試み』と断っています。そのためでしょう、本書の性格はかなり曖昧です。シリーズ名(「歴史総合」を学ぶ)とは違い、「歴史総合」は世界史に呑み込まれてしまっています。書名とは違い、古代・中世・近世を含めた「世界史とは何か」が明らかになっているわけではありません。本書だけ読む読者には、新科目「歴史総合」と新科目「世界史探究」の近現代史部分との区別もつきにくいでしょう。

 

●本書は、アカデミズムの一部や歴史に関心のある市民・学生には、好感をもって迎えられているようです。ただ重要なのは、全国の歴史の教員の反応です。本書の内容は、多忙な中で地道に授業を行っている、多くの歴史教員に共有されるでしょうか? 

 

▼第一学習社の教科書・資料集の地図に「カリブ海」が…

 

第一学習社の教科書・資料集の巻末(または巻頭)地図「中央アメリカ」に、驚くべきことですが、「カリブ海」という文字がありません。

 

▼直接確かめたのは、「歴史総合」の教科書・資料集と「グローバルワイド最新世界史図表」ですが、同じ地図が使いまわされているようですので、「世界史探究」の教科書も同じだと思います(もしかしたら日本史も)。

 

▼「グローバルワイド最新世界史図表」は、すぐれたところが多い資料集ですので(「ニーチェ虚無主義」という記載は論外ですが)、残念です。

 

▼通常では考えられないことです。「うっかり」では済まされないでしょう。カリブ海地域の歴史は非常に大事だと思いますので、早急に訂正し、来年度使用の教科書・資料集には間に合わせてほしいものです。

 

▼なお、「中央アメリカ」よりも「中央アメリカとカリブ海地域(あるいはカリブ地域)」としたほうがベターです。

★国際都市アヴィニョン(2)

 

歴史学では②>

 

 アヴィニョンについて、ヨーロッパ美術史研究の水野千依は次のように述べています。

 

 『1312年以降、長きにわたりこの地に暮らしたイタリアの詩人フランチェスコ・ペトラルカは、(中略)アヴィニョン教皇庁の倫理的堕落に嫌悪を募らせていた。(中略)アヴィニョンへの嫌悪、反発、嘆き--それはしかし、一人ペトラルカに限られるわけではなかった。教皇庁のローマ帰還を願う多くのイタリア人にとって、こうした感情は広く共有されたものだった。しかもこのイタリア的視線は、長らく歴史学における「アヴィニョン捕囚」の理解にも影響を及ぼしてきた。アヴィニョン教皇庁が肯定的に捉え直されたのはようやく20世紀になってからで、ローマにあっては都市貴族の支配に阻まれていた独立した統治組織をこの地で確立させた功績があらためて認められるなど、偏った評価は是正されつつある。』[*2]

 

 水野は『アヴィニョン教皇庁が「世界の首都」「第二のローマ」たらんとして都市を整備し国際化するなかで、南フランスやイギリスだけでなくイタリアからも芸術家を招聘し、いかなる視覚文化を生み出そうとしたのか』を詳しく述べていて、とても参考になります。

 

[*2]水野千依『「アヴィニョン捕囚」とアヴィニョン派』[『西洋美術の歴史4』(中央公論新社、2016)所収]

 

<「世界史探究」教科書では⓵>

 

 以上のような新しい見方でアヴィニョンについて述べているのは、山川出版社の『新世界史』東京書籍の『世界史探究』です。

 

 ●山川の『新世界史』は、「アヴィニョン教皇庁時代」という語を太字で積極的に使い、注で次のように補足しています。

  『「教皇のバビロン捕囚」とも呼ばれるが、フランス王権に強制的に幽閉されたわけではなく、あくまで教皇側の意向によるものであった。』

 

 ●東書の『世界史探究』も、注で次のように述べています。

  『「教皇のバビロン捕囚」とよぶこともあるが、必ずしもフランス王権の強制によるものではなく、当時の教皇側の選択の結果であった。教皇は、政治的に不安定なローマを一時的にさけようとして、教皇に忠実なナポリ王国支配下にあったアヴィニョンに居を定めた。』

 

 山川出版社の『詳説世界史』は、教皇庁アヴィニョン移転の理由については立ち入らず、あっさりと中立的な書き方をしています。

 

<「世界史探究」教科書では②> 

 

 「ローマという宗教的磁場」の側から歴史を見ている教科書もあります。

 

 ●実教出版『世界史探究』の記述は、フィリップ4世中心の、まったく古い見方そのままです。中世ヨーロッパ史で「ラテン=カトリック圏」という、世界史教科書としては新しい用語を使いながら、古い見方を残してしまいました。残念というほかありません。

 

 ●帝国書院の『新詳世界史探究』は、「教皇庁内で親フランス派の力が強まりアヴィニョンに移転した」という表現をしています。実教とはニュアンスが違いますが、やはりアヴィニョン移転を否定的にとらえています。

 

<「国際都市アヴィニョン」という視点>

 

◆前掲の論文で、水野千依は、アヴィニョンの地理的位置にも注意をうながしています。アヴィニョンは「現在のフランス南東部に位置し、イタリア、スペインにも近く、いわばキリスト教圏の中心に座すとともに神聖ローマ帝国の一部」でもありました。また重要なことですが、「1274年以来、教皇領となっていたコンタ・ヴネッサンに隣接する安全な避難地」でもあったのでした。

 

◆水野は、アヴィニョンに招聘されたイタリアの画家シモーネ・マルティーニなどの業績を紹介しながら、「当時のアヴィニョンは、ヨーロッパ各地の文化や情報が流入する国際都市」だったこと、アヴィニョンにおいて「イタリアと北方の芸術的潮流の独創的な総合」が行われたことを強調していました。

 

◆授業者が、アヴィニョンの地理的位置に留意しながら、「国際都市アヴィニョン」という視点を持てば、「探究」にふさわしい授業につながっていくのではないでしょうか。

 

★これからも、広い視野で世界史を考えていきたいと思います。