世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★国際都市アヴィニョン(1)

 

★次回にかけて、中世ヨーロッパ後期のアヴィニョンとそこに置かれた教皇庁について考えてみます。

 

アヴィニョン教皇庁が置かれた時代>

 

教皇庁アヴィニョンに置かれた期間は、決して短いものではありませんでした。

  ⅰ)アヴィニョン教皇庁    1309~77

  ⅱ)アヴィニョンとローマに教皇庁   1378~1417

 

◆ⅰ)はいわゆる「教皇のバビロン捕囚」ですが、この呼び方が誤解を招く原因になってきました。この呼び方は、ローマからの見方に基づいたものです。「ローマという宗教的磁場」には、それだけ強烈なものがあったからですが。また、ⅱ)は教会大分裂大シスマ)と呼ばれる事態でした。

 

◆見落とされがちですが、この時期は、イタリアおよびフランドルの初期ルネサンスと重なっています。たとえば、次の人たちの生没年代と照らし合わせると、そのことがよくわかります。(後でも紹介しますが、ペトラルカはたびたびアヴィニョンに滞在していました。)

  ダンテ     1265~1321

  ジョット    1266頃~1337

  ペトラルカ   1304~74

  ボッカチオ   1313~75

  ファン・アイク(兄) 1366頃~1426

 

◆ごく初期の宗教改革者たちの時代でもありました。

  ウィクリフ   1320頃~84

  フス      1370頃~1415

 

◆フスの火刑から約50年後にエラスムスが生まれ、約70年後にルターが生まれています。大きな転換が、ヨーロッパに生じていました。

 

歴史学では⓵>

 

教皇庁が置かれたアヴィニョンについては、新たな見方が定着しています。20年前の著作で、フランスの歴史家ジャック・ル=ゴフは、次のように述べていました。

 

 「(教皇庁移転のきっかけは)1300年の翌年以後ローマの住民を揺り動かしたたえまない対立にあった。この混乱を避けるため、(中略)フランス人のクレメンス5世は、ローマ行きをとりやめた。教皇は(中略)ローマ行きを可能にする平和を待ちながら、1309年にアヴィニョンに居を定めた。クレメンス5世につづく教皇たちはアヴィニョンを離れなかった。恐るべき重税が豊かな財政をもたらしてくれる制度の恩恵を受けた教皇たちは、そこに壮麗な教皇庁を建設し、キリスト教世界の効率的な行政機構を発達させた。(中略)アヴィニョン教皇庁は、14世紀のヨーロッパでもっとも完成された君主政政府となったのである。」[*1]

 

[*1]ジャック・ル=ゴフ『ヨーロッパは中世に誕生したのか』[菅沼潤訳、藤原書店、2014(原著は2003)]

 

教皇庁アヴィニョン移転は、フランス王フィリップ4世の強制というわけではなく、教皇たちの選択でした。「教皇のバビロン捕囚」は、「ローマという宗教的磁場」から見た呼び方だったのです。なお、(2)で詳しく紹介しますが、教皇庁移転当時、アヴィニョンはフィリップ4世の支配下にあったわけではありません。

 

<国際都市アヴィニョン(2)につづく>

★「世界史探究」教科書の検討18[「琉球処分」は注で述べればいい?]

 

★今回はいわゆる「琉球処分」(明治政府による沖縄県設置)について考えてみます。

 

山川出版社の2冊の「世界史探究」教科書(『詳説世界史』と『新世界史』)は、いずれも「琉球処分」については本文でごく簡単に触れ、注で補足しています。多分「世界史の教科書なのだから(日本史の教科書ではないのだから)注で述べれば十分」という考え方なのだと思います。山川の「世界史探究」のこのような姿勢は、はたして妥当でしょうか?

 

東京書籍の『世界史探究』実教出版の『世界史探究』帝国書院の『新詳世界史探究』は、「琉球処分」を本文で記述しています。

 

◆以下は、東京書籍『世界史探究』の本文の記述です。

 

 「日本は、1871年に平等条約である日清修好条規を締結し、さらに日清両属の地位にあり、フランスやアメリカ合衆国と条約を締結していた琉球王国琉球藩とし、その後、清との冊封朝貢関係を断絶させた。1874年の台湾出兵は日清両国間での戦争の危機をまねいたが、79年に日本は沖縄県を設置して国土編入を強行した。」[*]

 

[*]台湾出兵については、注に記しています。

 

◆「琉球処分」は19世紀後半の東アジア史における、きわめて重要な出来事でした。東書のような記述が適切だと思われます。

 

◆なお、帝国書院『新詳世界史探究』は一歩踏み込み、注で「琉球側の抵抗を押し切って」と述べていました。また、小笠原諸島の領有についても本文で記していて、すばらしいと思います。

 

▼たいへん残念なことですが、山川の2冊の「世界史探究」は、「琉球(沖縄)を19世紀後半の東アジア史に位置づける」という視点が希薄な教科書になってしまいました。「世界史探究」を選択し山川の教科書で学ぶ生徒たちは、「琉球処分」を軽く見てしまうのではないでしょうか。

 

 

★「世界史探究」教科書の検討17[ハワイ王国最後の王リリウオカラニ]

 

アメリカ合衆国によるハワイ併合(1898)は、「列強によるオセアニア支配」の最終段階に当たる、重要な出来事でした。リリウオカラニ女王は、ハワイ王国最後の王となってしまいました(在位1891~93)。各社の教科書ではどのように取り上げているでしょうか、比較してみます。

 

東京書籍の『世界史探究』は、本文で次のように述べています。

 

 「ハワイ王国立憲君主政をとって近代化をすすめたが、アメリカ軍の介入により王政が倒され、その後、1898年にアメリカに併合された。」

 

★また、リリウオカラニ女王の写真を載せ、『「アロハ・オエ」の作曲者としても知られる。』と記しています。

 

★さらに東書は、「ハワイ王国と日本」という短いコラムで、1881年、当時のハワイ国王が来日して明治天皇と会見し、日本からの移民を要請したと述べています。[*1]

 

◆一方、実教出版の『世界史探究』の場合は、本文は簡単な記述ですが、リリウオカラニ女王の写真[*2]の解説でやや詳しく述べています。

 

 『(リリウオカラニは)1891年に即位すると、制糖業を背景に強まった白人の影響力を排除しようとしたが、1893年、白人のクーデタによって退位させられた。代表的なハワイ民謡「アロハ・オエ」の作詞・作曲者でもある。』[*3]

 

山川出版社の『詳説世界史』の場合は、本文では簡単に併合に触れ、リリウオカラニの写真の解説で次のように述べています。

 

 「ハワイ王国1840年来、立憲王政であったが、93年アメリカ合衆国の圧力でリリウオカラニ女王は退位させられ、98年に併合された。」

 

山川出版社の『新世界史』は、アメリカによるハワイ併合にごく簡単に触れているだけです。リリウオカラニは取り上げていません。

 

帝国書院の『新詳世界史探究』は、驚くべきことに、アメリカによるハワイ併合についても、リリウオカラニについても、触れていません。

 

[*1]「世界史探究」では、このような視点も大切だと思います。日本からハワイへの移民の本格的な開始は1885年でした。ただ、興味深いことですが、最初のハワイへの移民は1868年でした。

 

[*2]東書と同じ写真ですが、東書はモノクロで実教はカラーですので、もとは肖像画のようです。

 

[*3]リリウオカラニは『「アロハ・オエ」の作曲者』と紹介されることが多いのですが、実教の記述のほうが正確です。

★「世界史探究」教科書の検討16[後期印象派?]

 

◆美術史家の高階秀爾さんも10年ぐらい前に述べておられましたが、美術史ではゴッホゴーギャンセザンヌを、後期印象派ではなくポスト印象派と呼ぶようになっています。この3人の画家を「印象派の影響を受けているけれども、それぞれ独自の画境に進んでいったので印象派には含めない」という考え方です。むしろ、フォーヴィスムキュビスムなどへの影響のほうを重視するようになったのだと思います。

 

◆しかし、「世界史探究」の教科書5冊(山川出版社の『詳説世界史』・『新世界史』、東京書籍の『世界史探究』、実教出版の『世界史探究』、帝国書院の『新詳世界史探究』)のうち、ポスト印象派という用語を使っているのは帝国の『新詳世界史探究』だけでした。

 

◆「歴史総合」の各教科書でも同じだったのですが、残念なことに、美術史の新たな見方が取り入れられていないのでした。「政治史・経済史・国際関係史が中心で文化史は二の次」という暗黙の前提が、まだ歴史研究者の間に残っているのでしょう。

 

◆また文化史も、男性中心史観から抜け出せていないと思われます。<文化史+ジェンダー史>という視点で世界史の教科書を刷新するところまでいくには、これから何年もかかるのでしょう。ピアニストであり作曲家でもあったクララ・シューマンやメキシコの画家フリーダ・カーロなどを取り上げれば、世界史はもっと豊かになると思うのですが……。

 

◆ポスト印象派にもどりますが、帝国の『新詳世界史探究』は目配りが効いていました。他の教科書は、改訂の際に改めてほしいものです。

☆「探究」教科書の表紙デザイン(シンプルな山川『詳説』、素敵な東書『日本史探究』)

 

 今回は少し視点を変えて、「世界史探究」・「日本史探究」教科書の表紙のデザインについて書いてみます。もちろん、内容より表紙のデザインを重視するわけではありません。

 

山川出版社の『詳説世界史』は、旧課程版よりもやや鮮やかなスカイブルーになりました。書名の部分は濃紺の地に白と青の文字です。『詳説日本史』は朱色のような赤で、書名の部分は濃紺の地に白と赤の文字です。どちらもすっきりしたデザインで、美しさもあると思います。

 

◆なかなか凝っているのは、東京書籍の『日本史探究』です。奥付のページによれば、葛飾北斎の「富岳三十六景」から相州梅沢左、「佐竹本三十六歌仙絵」から小野小町野々村仁清の「色絵月梅図茶壷」、そして「那智山曼荼羅」が使われているとのことです。これらが絶妙に組み合わされていて、素敵な表紙になっています。書名の部分は黒地に白。銀色と金色の帯もうまく使われています。また、ページを開くと、狩野元信の豪華な「四季花鳥図屏風(右隻)」が現れます。いつも座右に置いておきたくなるような教科書です(ページ数を抑えながら内容も充実させています)。高校生にとっても、日本史の勉強に意欲がわくような教科書デザインでしょう。

 

 

◆理解しがたいのは、山川出版社の『新世界史』の表紙です。ローマ帝国リビアに建てた凱旋門の大きな写真を使っています。凱旋門は言うまでもなく軍事的勝利を記念する建造物ですから、それを歴史教科書の表紙に使ったのは時代錯誤と言うべきでしょう。また、ロシアとウクライナの悲惨な戦闘が続いている時に、なぜ凱旋門の写真を使ったのでしょうか? 無神経だと思いますが、もし意識的に使ったのであれば問題でしょう。未来を担っていく高校生たちにも、戦勝記念の建造物はふさわしくありません。

 

山川出版社の教科書の表紙は、ホームページでご覧ください。

 

 

★「世界史探究」教科書の検討15[フランス革命の複合性と功罪]

 

フランス革命(1789~99)の捉え方は、大きく変わってきました。半世紀前は、自由・平等を掲げた、典型的なブルジョワ革命(市民革命)とされていました。その後(30年ぐらい前からでしょうか)革命の心性や政治文化に焦点が当てられ、やがて国民国家の創生に重点をおいた見方が一般的になりました。この見方は現在も続いていますが、近年は、革命の複合性と功罪が多角的に検討されるようになったと思います。

 

フランス革命の複合性に焦点を当てているのは、山川の『新世界史』です。「複合革命」というコラムで詳しく述べています。貴族、ブルジョワジー(平民の中の裕福な階層)、都市民衆、地方の農民という4つの勢力の対立・協調から、フランス革命を捉えようとしています。ただ、高校の教科書としてはやや難解かも知れません[*1]。また、農民の視点も重視しているにもかかわらず、本文でヴァンデの反乱(1793)に触れていないのは片手落ちでしょう。

 

[*1]実教の『詳述歴史総合』は、フランス革命の導入部で、4つの勢力について簡潔にまとめていました。

 

フランス革命の複合性と功罪を多角的に考えようとすれば、①<検討14>で述べた「女性の権利」と②内戦とも言うべきヴァンデの反乱に触れないわけにはいかないと思います[*2]。ヴァンデの反乱をきちんと取り上げているのは、東書と実教です(山川・詳説は「フランス西部」という表現でした)。

 

[*2]ヴァンデの反乱については詳述できませんが、近年発行の一般書では、福井憲彦著『教養としてのフランス史の読み方』(PHP研究所、2019)と竹中幸史著『図説フランス革命史』(河出書房新社、2013)が、ヴァンデの反乱を詳しく取り上げています。前者は、ていねいでわかりやすい記述です。また、後者にはめずらしい図版が複数あって、考えさせられます。

 

フランス革命の複合性と功罪を多角的に考える視点としては、このほかにも、言語や教育、さらには植民地の問題があります[*3]。授業できちんと取り上げる余裕はないでしょうが、現代につながる重要な視点です。生徒たちに課題として投げかけておくことはできるのではないでしょうか。

 

[*3]平野千果子編著『新しく学ぶフランス史』(ミネルヴァ書房、2019)が、とても参考になります。

 

◆なお各社の教科書とも、従来の「ジャコバン派」から「山岳派ジャコバン派)」ないしは「ジャコバン派山岳派)」という表記に、ようやく変わりました。「山岳派ジャコバン左派)」と表記する教科書があってもよかったと思います。

◇『文藝春秋』の特集「代表的日本人100人」に思う

 

◆『文藝春秋』2023年8月号は、「代表的日本人100人」という特集を組んでいます。私としては珍しく、買ってみました。

 

◆識者24人が「代表的日本人」を5人ずつ選んでいます(ある程度恣意的な選び方になるのはやむを得ないのでしょう)。編集部は、識者24人を選んだ段階で、どんな100人になるか、ある程度予想がついたのではないでしょうか。たとえば、片山杜秀佐伯啓思、牧原出、先崎彰容などが選んでいる人々は、従来からの『文藝春秋』の読者層にぴったりだと思います。

 

◆一方、『文藝春秋』とは肌が合いそうにない梯久美子を選者に選んだのは、編集部の良心かも知れません。梯が選んだ5人には、考えさせられました。林芙美子茨木のり子は他の識者も選んでいますが、森崎和江金子文子知里幸恵の3人を梯が選んだことで、特集全体が引き締まったように思います(金子文子まで選ばなくてもという気はしますが)。

 

国谷裕子田中優子石牟礼道子をあげていて、少しホッとしました。功成り名遂げた感じの田中優子に選ばれて、石牟礼道子はあの世で苦笑しているでしょうけれど。

 

◆5人の人物をあげながら、単なる解説ではない、読ませる文章を書くのは、なかなか大変だと思います。ロバートソン、本郷恵子御厨貴坂東眞理子などの文章には、心に響くものがありました。

 

◆もちろん、今回100人に選ばれなかった人たちがたくさんいます。松尾芭蕉葛飾北斎田中正造伊藤博文夏目漱石森鴎外鈴木大拙柳宗悦岡本太郎武満徹などは、選ばれてしかるべきだったと思います。また、ドナルド・キーンをあげる方がいたら、すばらしい特集になったでしょう(どの国で生まれようと、どういう民族であろうと、日本国籍を取得した人は日本人ですから)。

 

◆このような特集の場合は、柔軟な受けとめが大切だと思います。雑誌の100人以外にも有名・無名のすばらしい日本人がたくさんいたことに、むしろ思いをはせるべきなのかも知れません。