世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★「世界史探究」教科書の検討14[グージュ「女性の権利宣言」](ジェンダーの視点に欠ける山川)

 

ジェンダーをどう取り上げるかは、歴史学の中心的課題の一つとなっています。「ジェンダー史学」という語も使われるようになりました。

 

◇今回の「フランス革命と女性」というテーマは、日本では20世紀後半から大きな課題となってきました。近代における家族や子どもの歴史の見直しが進んだことや、オランプ・ド・グージュの「女性の権利宣言」の「発見」が、大きなきっかけだったと思います。ウーマン・リブの影響もあったかも知れません。

 

<よく考えられている東書、帝国、実教>

 

◆東京書籍の『世界史探究』と帝国書院の『新詳世界史探究』は、「探究」という科目にふさわしく、「人権宣言」(「人間と市民の権利宣言」)と「女性の権利宣言」(「女性および女性市民の権利宣言」)を並べて載せています。多くの高校生が強い関心をもって2つの宣言を読み比べ、現在の日本のジェンダー状況も考えるのではないかと思います。

 

実教出版の『世界史探究』は、「ジェンダー」と題するコラムを全体で15掲載していて、新しい歴史の見方の紹介に力を入れています(旧課程版の「女性史」を発展させています)。その一つが「女性の権利宣言」で、フランス革命期からナポレオン期にかけての女性の状況を述べています。コンパクトながら、すぐれた概説になっていると思います。

 

ジェンダーの視点に欠ける山川>

 

◆一方、山川出版社の2冊の教科書(『詳説世界史』、『新世界史』)は、グージュについても、「女性の権利宣言」についても、まったく触れていません。本文で述べたり史料として掲載したりできなければ、注でも触れることができるはずですが、それすらありません。なぜこのような無視を続けているのか(以前述べましたが「歴史総合」でも同じなのです)、理解に苦しみます。

 

◆2冊とも、フランス革命の記述だけでなく、教科書全体としてジェンダーの視点に欠けています。それは、たとえばナイティンゲールやマリ・キュリーの取り上げ方にも表れています(この2人の取り上げ方ですぐれているのは東書です)。また、巻末のさくいんに「女性参政権」あるいは「女性選挙権」という語がないのは、山川の2冊だけです。残念なことですが、「歴史教科書の山川」という看板は今や色褪せてしまいました。

 

◆『詳説世界史』は、まるで「免罪符」のように、巻末近くに「女性の平等化とジェンダー」という文章を載せています。多分、「ジェンダーに触れないのはまずい」ということになって、編集作業の途中で追加したのでしょう。それとも、最初から「ジェンダーについては最後に述べればいい」という安易な考えがあったのでしょうか? 女性参政権獲得運動を担ったパンクハーストについても述べているのですが、先駆者のグージュなどには触れず、巻末近くでパンクハーストだけを取り上げても、説得力はありません。

 

◆気の毒なのは、ジェンダーの視点に欠けた世界史教科書を手にしている高校生たちです。歴史をジェンダーの視点から考えるという経験がないまま、大学に進学したり社会人になったりせざるを得ないでしょう。それを避けるためには、山川の教科書を採択した先生たちが、ジェンダーの視点を加えて授業を構成するほかないと思います。

 

<歴史を学ぶ原点>

 

◇フランス近代史の研究者・竹中幸史は、次のように述べていました。

 

 「歴史学はただ過去を知るのではなく、現在と未来の問題をより深い次元で理解するために、そして現代に生きる自己の価値観を見つめ直し世界を相対的に把握するために、一度過去に迂回する学問である。」

 【竹中幸史『図説フランス革命史』(河出書房新社、2013)のあとがき】

 

◇歴史を学ぶ際の原点を、再確認させられる文章でした。この原点に照らしても、ジェンダーの視点は不可欠です。

★「世界史探究」教科書の検討13[アメリカ独立革命の見方(山川・詳説など)]

 

独立戦争の開始(1775)から合衆国憲法の制定(1787)あるいは憲法修正(1791)までの一連の出来事を「アメリカ独立革命」と呼ぶことは、かなり一般化しています。この用語を最も積極的に使用しているのは、実教の教科書です。

 

 「この一連のアメリカの独立の過程は、イギリスの重商主義政策と結びついた特権的なエリートの支配を打破し、人民主権をかかげて共和政を実現したことから、アメリカ独立革命とよばれる。」(230ページ)

 

◆山川・新は「アメリカ革命」という語を使って4ページを割き、合衆国憲法の修正条項まで史料として掲載しています。やや煩瑣な説明も見られますが、新国家の生みの苦しみにも焦点を当てた内容です。

 

◆一方、山川・詳説は「アメリカ合衆国の独立は革命としての性格ももつことになった」と述べ、やや控えめです。ただ山川・詳説には、注目すべき記述がありました。

 

 「アメリカ合衆国の独立は、広大な共和国の誕生として、君主国の多かったヨーロッパに衝撃を与えた。」(210~211ページ)

 

◆「ようやくこのような記述に出会えた」と思いました。私は、五十嵐武士の以下のような文章[*1]を参考に、アメリカ合衆国が共和政(共和国)を選択したことに留意して、授業を行ってきたからです。

 

 「フィラデルフィア会議で合衆国憲法を起草する際の理論的な問題とは、広大な領土という、共和国というよりも帝国にふさわしい条件の下で、連邦政府に帝国を統治する君主政の活力を備えさせながら、共和国の自由をいかに確保するかということであった。」

 『それ(引用者注:合衆国憲法草案)は、共和国は小さな領土でしか存続しえないとする共和主義の一般的な見方を打ち破って、帝国的な領土に共和国を樹立するために、「連邦共和国」を創設する、思想的にも独創的な提案だったのである。』

 

[*1]五十嵐武士「啓蒙のかがり火、民衆のめざめ」[『世界の歴史21・アメリカとフランスの革命』(中央公論社、1998)所収]

 

◆共和政(共和国)という選択は、簡単なものではありませんでした。また、君主政が当たり前だった、当時のヨーロッパ諸国にとっては、想像さえできない選択だったと思います。そのような見方があってはじめて、フランス革命から第三共和政にいたる、フランス政体の紆余曲折も理解できると思います。

 

◆一方、北アメリカ東部13植民地の喪失は、イギリスにどのような教訓をもたらしたのか、という視点も大切だと思います[*2]。13植民地を失ったことは、イギリスにとって大きな打撃とはなりませんでした。進行していた産業革命を阻害する出来事ではなかったからです。カナダなど自治的植民地のコントロールのし方を調整しながら、インドや中国への圧力は強めていきました。13植民地を失った後、イギリスは「世界の工場」となり、「パックス・ブリタニカ」へと向かったのです。

 

[*2]井野瀬久美惠『大英帝国という経験』[興亡の世界史16、講談社、2007]参照。

★「世界史探究」教科書の検討12[17世紀のオランダ(山川・新の充実した叙述、帝国の驚くべき表記)]

 

◇今まで3冊の教科書(山川出版社の『詳説世界史』、東京書籍の『世界史探究』、実教出版の『世界史探究』)を比較・検討してきましたが、今回から山川出版社の『新世界史』と帝国書院の『新詳世界史探究』も検討対象に加えます(山川・新、帝国と略記)。

 

<山川・新の充実した叙述>

 

◆山川・詳説の記述も旧課程版より良くなっていますが、17世紀のオランダについてすばらしい叙述をしているのは山川・新です。17世紀のオランダ社会を、文化を含めて総合的にとらえています。

 

 「商業の発達を背景に、17世紀のオランダはヨーロッパでもっとも都市化が進み、文化も成熟してレンブラントフェルメールなどの画家は、王侯や協会の庇護には頼らず、都市のブルジョワを顧客とした。オランダは宗教的寛容の気風をもち、当時のヨーロッパではポーランドヴェネツィアと並び、例外的にユダヤ人にも寛大であった。こうした土壌が法学者グロティウスや哲学者スピノザを生んだが、加えてフランス人のデカルトイングランド人ロックが住むなど、オランダは学問や出版においてもヨーロッパの中心となった。」(206ページ)

 

 ※上記の引用文では訂正してありますが、「17世期」という誤植がありました。情けないことです。

 

レンブラントを取り上げるのはごく標準的ですが、フェルメールにも触れて、その「地理学者」を図版として載せているのは、特筆すべきことです。世界史の教科書としては、初めてではないでしょうか。また、スピノザデカルト、ロックに触れているのもすばらしいと思います。[*1]

 

[*1]私は、17世紀オランダの授業で必ずフェルメールスピノザデカルトに触れてきましたので、共感をもって読みました。「自由な国オランダ」について述べた、デカルトの『方法序説』の一節やホイジンガの『レンブラントの世紀』の一節を、教材として使ったこともあります。(なお「イングランド人ロック」という表現は珍しいですが、このことについては後日述べたいと思います。)

 

◆少なからぬユダヤ人もアムステルダムで活動していましたが、ユダヤ人に触れている教科書は、残念なことに山川・新と実教だけです[*2]。

 

[*2]スピノザユダヤ人でしたが、ユダヤ教に疑問を持ち、ユダヤ教会から破門されました。キリスト教にも距離をおいて独自の思想を形成したスピノザは、やがて『エチカ』にその哲学を結実させました。時代は飛びますが、アンネ・フランクの一家が隠れ住んでいたのも、アムステルダムでした。

 

◆授業では、「宗教的寛容の気風」に留意する必要があります。人文主義エラスムスも、思い出しておくべきでしょう。

 

<帝国の驚くべき表記:「ネーデルランド」>

 

帝国書院の教科書がネーデルラントを「ネーデルランド」と表記していることには、驚かされました。オランダ語の発音はネーデルラントです。「ネーデルランド」と表記している教科書は、帝国以外にはありません。まるで、戦前か戦後まもなくの頃の教科書のようです。[*3]

 

[*3]手元に、古本屋で買った、1969年出版の「岩波講座・世界歴史15」がありますが、その中の栗原福也の論文にも、すでにネーデルラントと記されていました。

 

◆帝国は、ずっと以前から「ネーデルランド」という表記を使い続けてきたのでしょうか? 歴史教科書として恥ずかしいと思います。

 

 

★「世界史探究」教科書の検討11[奴隷貿易(充実の実教、粗略な山川・詳説には誤りも)]、追記[*3・4]

 

★大西洋三角貿易をどう取り上げるかは、世界史教科書の良し悪しを判断する際の「試験紙」みたいなものだと思ってきました。近世から近代にかけて行われた大西洋奴隷貿易南北アメリカカリブ海地域の奴隷制は、二度の世界大戦やユダヤ人虐殺などと並んで、人類史の中で最も暴力的な出来事だったからです。[*1]

 

[*1]もう一つの重要な「試験紙」は、ジェンダーの取り上げ方だと考えています。後日、比較・検討する予定です。

 

★3冊の「世界史探究」の教科書(実教出版、東京書籍、山川出版社)を比較・検討してみます。

 

<充実している実教『世界史探究』>

 

◆本文で1ページを割いているほか、「奴隷貿易奴隷制からみる16~19世紀の世界」という特集に2ページを割いています。

 特集には、大きな地図と6つの資料が掲載されています。6つの資料は次の通りです。

  ① ラス・カサスが見た光景

  ② ジャマイカサン・ドマング、ブラジルの砂糖生産高の推移(グラフ)

  ③ ヨーロッパ各国が運んだ奴隷数の推移(グラフ)

  ④ 奴隷船内の断面図

  ⑤ 奴隷売買を知らせる、北アメリカのポスター

  ⑥ 元奴隷フレデリック・ダグラスの証言

 

◆残念なことに、②を資料としてあげているにもかかわらず、地図ではカリブ海地域への奴隷貿易ルートがあいまいになってしまいました。

 

<東書の『世界史探究』は、ほぼ標準的>

 

◆本文で1ページ余りを割いています。全体として標準的な内容ですが、奴隷供給地として東アフリカにまで触れた記述は、他社の教科書には見られない視点です(山川・詳説は小さな地図には表示)。

 

<あまりにも粗略で、誤りもある山川の『詳説世界史』>

 

◆山川・詳説の取り上げ方には驚きました。他の個所(「ヨーロッパの海洋進出とアメリカ大陸の変容」)でも触れてはいるものの、大西洋三角貿易の記述は計8行で、欄外に地図を小さく載せているだけなのです(194ページ)。

 

◆19世紀の「イギリスの自由主義的改革」では、奴隷貿易の廃止と奴隷制の廃止を本文に明記しているだけに(この点は評価できます)、ちぐはぐな取り上げ方になってしまいました。しかも、194ページにある短い記述には、多くの人には信じられないでしょうが、誤りもありました。

 

◆誤っているのは、「(イギリスの大西洋三角貿易では)武器や綿織物など本国の製品がアフリカに輸出され」という部分です。18世紀の大西洋三角貿易でイギリスの奴隷商人がアフリカに運んだ綿織物は、ほとんどはイギリス製ではありません。実教や東書の教科書が述べている通り、国際商品となっていたインド産綿織物なのです(産業革命が進展する前の時期ですから、当然なのですが)。インド産綿織物の再輸出でした。[*2]

 

[*2]秋田茂は、『イギリス帝国の歴史』(中公新書、2012)において、イギリスによる、インド産綿織物のアフリカへの再輸出という事実を重視していました。秋田によれば、「インドとの貿易が大西洋三角貿易に組み込まれていた」という点でも、「奴隷貿易に欠かせない商品だったために、綿織物の国産化を促す大きな要因になった」という点でも、非常に重要な事実なのです。

 

◆執筆者の責任は重大だと思います[*3]。山川の編集担当者も、文科省の検定官も、気づかなかったとは……。

 

【追記、2023/7/3】

[*3]「産業革命が進展してからのことを書いたのだ」という反論があるかも知れません。ただ、そうであれば、194ページの内容・コンテクスト(1760年代までの歴史です)にはふさわしくない記述だったということになります。イギリスにおける綿織物の生産は1750年代から始まってはいましたが、生産量は微々たるものでした。原料の綿花の輸入量も、微増に転じるのは1780年代後半です[[*4]。綿織物の生産量が増加するのは、ミュール紡績機が普及する1790年代からになります。そして、まもなく(1807年)、奴隷貿易は禁止されました。

[*4]長谷川貴彦『産業革命』[世界史リブレット116、山川出版社、2012]

 

◆新しい『詳説世界史』の採択数がどのくらいだったのかはわかりませんが、『詳説世界史』を「信奉」する時代はすでに終わっています。このことを、高校の世界史担当の先生たちには、知ってほしいと思います。

 

 

 

 

 

★「世界史探究」教科書の検討10[南宋の記述の充実を]

 

南宋(1127~1276)についての記述は、従来から簡単でした。中国史では、六朝時代は別ですが、統一王朝の時代が重視され、分裂の時代は軽視される傾向があったからだと思います。新しい「探究」の教科書でもほぼ同じ扱いです。また、南宋の政治・外交、経済、文化が別々の個所に記されているため、南宋のトータルな理解が難しい状態が続いてきました。

 

南宋は、臨安(杭州)を都として、150年続いた王朝です。100年に満たなかった元の中国支配(1279~1368)よりも長い期間、淮河以南を統治していたのです。そのような南宋の歴史をもっと知らなければという思いをずっと抱いてきましたが、丸橋充拓『江南の発展 南宋まで』(シリーズ中国の歴史②、岩波新書、2020)が出版されて、南宋の歴史をより理解できるようになりました。『江南の発展 南宋まで』は、淮河以北中心になりがちだった古代~近世の中国史に一石を投じたと思います。

 

◆丸橋は、南宋と南海諸国との交易を重視し、南宋を「海上帝国」とまで呼んでいます。「海上帝国」と呼ぶべきかどうかはわかりませんが、海洋国家・南宋と位置付けることはできるでしょう。海洋国家の流れは、市舶司設置都市の増加に見られるように、(北)宋から始まっていました。また、元が南宋を滅ぼしたことにより、遊牧の民モンゴル人が初めて海に目覚めたことは重要です。そこから元のベトナム遠征・ジャワ遠征も理解できます。また中国にとっての海の重要性は、現在の中国の南シナ海~太平洋諸島進出にも表れています。

 

◆実教と東書の「世界史探究」は、海洋国家・南宋を重視しています。特に実教の教科書は、南宋のジャンク船の写真と史料を載せていて、充実しています。

 

◆一方、南宋と金の関係は、いずれの教科書でもあまり重視されていません。簡単に言えば、「金が南宋に貢がせていた」という記述になっています。しかし、実態は次のようであったと思います。

 

 「国境線の南北などに、(南)宋からの要請で官営の貿易場が設置され、活発な取引がおこなわれた。こうした貿易は、キタンと宋との澶淵の盟約のときにもおこなわれたことであった。金は茶、香料、薬品、絹織物、木綿、銭、牛、米などを宋から輸入し、はんたいに、毛皮、人参、甘草、馬などジュシェンの物産のほか、山東の絹織物などを宋に輸出した。しかし、華北に住む多数の漢人と、その生活を模倣していったジュシェン人たちのための消費物資が大量に必要となって、金側の輸入超過がつねであった。宋からの歳貢として金側に入った銀なども、皇室から民間にながれ、結局はこうした貿易によって宋に還流していったと考えられている。北宋時代の貨幣もそのまま流通し、金は華北漢人社会とその文化にたちまちにして染められていった。経済の実力は、あきらかに江南の宋がにぎっていたのである。」[*]

 

◆金は、ジュシェン(少なくとも数十万人が華北に移住していました)の間では猛安・謀克を維持していましたが、望むと望まざるとにかかわらず、漢化の波を避けることはできませんでした。漢人社会の統治のためには、科挙も実施せざるを得ませんでした。そして、経済的には実質的に南宋に依存していたのでした。

 

◆このようなところまで踏み込むのは、教科書としては難しいのかも知れませんが、字句を追加したり、注で述べたりすることはできると思いますので、改訂を期待しています。

 

◆なお、南宋で成立した朱子学については、山川の詳説が重要な指摘をしています。旧課程版の世界史Bにはなかった記述です。

 

宋学が礼の細かな字句の解釈を離れ、大きな思想の体系をつくりだすに至った背景には、みずからの内面をきびしくかえりみる禅宗の教えや、道教の神秘的な宇宙論との関わりがあった。」

 

南宋と金をとらえ直す授業をおこなえば、生徒たちの歴史への関心をいっそう高めることができると思います。

 

[*]伊原弘・梅村坦『宋と中央ユーラシア』(世界の歴史7、中央公論社、1997)

 

 

★「世界史探究」教科書の検討9[17世紀イギリスの革命(刷新された山川・詳説)]

 

◆旧課程の山川「詳説」(世界史B)には、17世紀イギリスの革命について奇妙な記述がありました。内戦~共和政(いわゆるピューリタン革命)期のみ「イギリス革命」と呼んでいたのです。

 

◆今年度の高校2年生から使用されている「詳説」の記述は、とてもよくなっています。タイトルも「イギリスの2つの革命」となり、いわゆる名誉革命が明解に位置づけられました。

 

◆「詳説」は、名誉革命(1688~89)が、カトリックのフランス(ルイ14世)に対抗するための、イギリス・オランダ同君連合(プロテスタント連合)であったことを述べたうえで、「イギリスの2つの革命」に入っています。そして、名誉革命直前の状況を、次のように述べています。

 

 「王(引用者注:ジェームズ2世)は、フランスでプロテスタントを迫害していたルイ14世と親密な関係にあったことから、国民のあいだには、フランスへの従属とカトリック化への危機感が高まった。」[*1]

 

◆イギリスの人びとは、悪夢のような女王メアリの時代の再来を恐れていました[*2]。ただ、オランダのウィレム3世を「一部の政治指導者」が招いたという記述には、疑問が残ります。

 

◆また、内戦(ピューリタン革命)期にホッブズの『リヴァイアサン』が著されたことはたいへん重要ですが、本文に明記されました[*3]。東書や実教の教科書が、相変わらずロックのみを名誉革命に関連して取り上げているのとは、対照的です。

 

[*1]このように理解することが大切です。授業では、ルイ14世による「ナントの王令の廃止」が1685年だったことを確認したほうがよいと思います。

 

[*2]近藤和彦『イギリス史10講』(岩波新書、2013)参照。

 

[*3]以前「世界史の扉をあけると」で述べていたことが、ようやく実現されました。

★「世界史探究」教科書の検討8[宗教改革(刷新された山川・詳説)]

 

山川出版社の『詳説世界史』には、かなり辛口の評価をしてきましたが、宗教改革のページは旧課程の教科書から大幅に刷新され、充実した内容になっています。

 

◆私は、「世界史の扉をあけると」でも述べたように、宗教改革期のイコノクラスム(聖像破壊運動)に注目してきました。プロテスタントによる聖像礼拝の否定は、聖像の破壊にまで進むことがありましたが、この事実を世界史の教科書は伝えてきませんでした。プロテスタントの研究者の影響力が強く、プロテスタントの暴力に触れたくなかったのでしょうか? たとえ執筆者がプロテスタントの方であったとしても、歴史的事実は直視しなければなりません。

 

◆山川の新しい『詳説』は、注においてではありますが、次のように明記しています。高校の世界史教科書としては、画期的なことだと思います。

 

 「これ(引用者注:カトリックの聖像使用)に対して、プロテスタント諸派は聖像や聖画を重視せず、宗教改革が実現した地域では、それらが破壊されることも多かった。」

 

◆また山川・詳説では、「カトリック改革」という用語を使っていて、ここでも歴史学の成果を積極的に取り入れています。東書や実教の教科書は、旧課程の教科書を踏襲して「カトリックの改革運動」と記し、「対抗宗教改革」を太字にしていますが、「カトリック改革」と「カトリックの改革運動」では意味するところが違います。「カトリック改革」という語は、カトリックの動きをプロテスタントの形成と同等に、宗教改革全体のなかに位置づけた表現だからです。

 

◆山川・詳説の「カトリック改革とヨーロッパの宗教対立」の項は、すぐれた内容になっています。美術史では定着した見方ですが、カトリック改革とバロック美術との関連が述べられています。図版にバロック絵画を載せているのも、「探究」にふさわしいものでした。ただ、ザビエルの肖像画(生徒たちにもよく知られたものだと思います)は、17世紀の初めに日本で描かれたことを記してほしかったと思います。

 

◆一方、「(カトリック)教会は禁書目録を定め、宗教裁判を強化するなど、知の弾圧者となった側面もあった」と指摘することも忘れていません。山川・詳説は、全体として、プロテスタントカトリックを公平にヨーロッパ近世社会の中に位置づけており、執筆した歴史研究者の良識がよく表れていました。

 

◆なお、実教と東書の「カトリックの改革運動」は、わずか10行から15行の記述で、きわめて軽い取り上げ方です。宗教改革全体がプロテスタントに偏った扱いになっているのです。新しい「探究」の教科書であるにもかかわらず、古い歴史の見方がそのまま残ってしまいました。

 

◆特に実教は、驚くほど貧弱な内容です。ルネサンスの記述の検討でも述べましたが、ジェンダーなど新しい視点をコラムでたくさん取り上げても、本文が古いままでは教科書としての評価は高くならないと思います。