世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

【国際比較】日本は看護師も医師も不足![とうとう自衛隊に看護師派遣要請(2020/12/7)]

 ※パンデミックという世界史的な出来事の渦中を私たちは生きていますので、本ブログでも取り上げています。 

 

新型コロナウイルスの感染拡大は、きわめて深刻な状況です。とうとう大阪府と北海道が自衛隊に看護師の派遣を要請する事態に至りました。

 

◆この1週間(11/30~12/6)で、全国の感染者は13,938人増加しました。1日当たり2,000人以上の新規感染が普通になってしまいました。また、この1週間で207人が亡くなりました。1月以来の累積の死者数は2,359人ですが、その1割近くはこの1週間で亡くなったのです。本日(12/7)の死者は39人。また重症者は530人で、過去最多を更新しています。

 

◆政府は「Go To キャンペーンで感染拡大したというエビデンス(証拠)はない」と言い張ってきました。しかし、「Go To キャンペーンによる感染拡大はないというエビデンス(証拠)」を示してはいません。感謝祭で人の移動が増え、アメリカで感染がさらに拡大していることを見てもわかるように、「人の移動が増えれば感染も拡大する」というのは動かしがたい事実だと思います。だから中国は、武漢を完全封鎖し、感染拡大を抑え込んだのでした。(7日、東大などの研究チームが「Go Toトラベル利用者ほど感染リスクが高い」というデータを発表しました。)

 

◆感染拡大を抑えながら宿泊業や旅客業、飲食業を支えようという考え方はわかりますが、「二兎を追うものは…」という状況になっています。政府は、感染が収まらない中で「Go To キャンペーン」を実施したらどのようなリスクが生じるか、実施前にシミュレーションしたのでしょうか? 医療現場のことをどの程度真剣に考えていたのでしょうか? 「ある段階まで感染拡大したらいったん中止する」というような準備もなかったのでしょう。今までの貴重な経験に学ばず、場当たり的に弥縫策を講じるやり方が続いています。

 

◆政府が「Go To 」という強いメッセージを出したため、感染拡大に対する国民の警戒心は緩んでしまいました。そして、医療の逼迫という事態を招いてしまったのです。

 

◆そもそも日本は看護師数も医師数も少ないということを、政府はきちんと認識しているのでしょうか? 調べてみると、100病床当たりの看護師数と医師数は次のようになっていました。(人口1,000人当たりの看護師数・医師数には、医院・クリニックの数字が含まれますので、入院患者のいる病院の医療の実態はわかりません。)

 

  <100病床当たりの看護師数>(2019年、OECD発表)

   日本        86.5人

   フランス     155.3人

   ドイツ      159.2人

   イギリス     306.0人

   アメリカ     394.5人

 

  <100病床当たりの臨床医師数>(2015年、OECD発表)

   日本        17.1人

   フランス      48.7人

   ドイツ       49.0人

   イギリス     100.5人

   アメリカ      85.2人

 

◆日本の病床数の多さや高齢者数の多さも考え合わせなければならないとは思いますが、愕然とするような数字です。日本の病院の医療は、医師・看護師の献身的的な努力でなんとか維持されてきたのです。過酷な勤務、ストレス、給料の安さのため、毎年11%前後の看護師が離職しているというデータもありました。そこに、新型コロナが襲ってきました。このような医療現場の実態があるため、欧米に比べて圧倒的に少ない感染者数であるにもかかわらず、医療の逼迫という事態になっているのです。(なお、自衛隊の看護官は約1,000人とのことです。それほど多くはありません。)

 

菅首相は国会でも記者会見でも「国民の命と健康を守る」と語っています。しかし、官僚の書いた原稿の棒読みですので、真剣さや誠実さが感じられません。子どもたちが楽しくクリスマスを迎えられるよう、また日本に住む人すべてが明るい気持ちで新年を迎えられるよう、早く政策を転換し、感染拡大を食い止めてほしいと思います。2週間に限って、「緊急事態宣言」か、それに近いものを出すべき時ではないでしょうか? 今手を打たなければ、深刻な状況で新年を迎えることになってしまうような気がします。

【資料】独仏戦争(1870~71)後変化した、フランスの音楽・美術

 

第二次世界大戦後の日本に見られるように、戦争は敗北した国に大きな変化をもたらすことが多いものです。日本の場合は残念ながらかなり他律的な変化でしたが、独仏戦争(プロイセン=フランス戦争)後のフランスは、第三共和政を確立すべく、自分たちの力で変化していったと思います。フランスの場合、音楽・美術の分野でも、大きな変化が生まれました。

 

◆多面的に歴史を見る授業を心がけていますが、次のような資料を紹介すれば、生徒たちも興味深く世界史を学ぶことができると思います。(引用した文章は中略させていただいた部分があります。)

 

<音楽における変化:国民音楽協会設立(1871)>

 

『19世紀半ばあたりまでのフランスには、自国で無視され続けていたベルリオーズをわずかな例外として、自前の大作曲家というものがいないも同然だった。当時パリで活躍した作曲家のほとんどがすべて外国人なのである。

 こんなフランスの音楽界が大きく変わるきっかけとなったのが、1870年のプロイセンとの戦争における敗北である。これが転機となって、1871年に国民音楽協会が設立される。フランク(ベルギー人)やサン=サーンスショーソンフォーレも参加したこの協会は、「フランスにもドイツに負けない正統的な器楽文化を創ろう」という目的で作られた。近代フランスの交響曲や協奏曲や室内楽の名作のほぼすべては、この国民音楽協会の設立以後の産物である。』

 【岡田暁生西洋音楽史』(中公新書、2005)】

 

<美術における変化:第1回印象派展開催(1974)>

 

 「印象派の画家たちの多くは共和主義者で愛国的でした。マネとドガ国防軍に参加。ルノワールも兵役につき、ピレネーの山中で騎兵馬の訓練をさせられたといいます。(モネとピサロは兵役にはつかずロンドンに疎開。そこで、のちに印象派を世に出すことになる画商デュラン=リュエルに出会います。)モネやルノワールの仲間だったバジールは28歳の若さで戦死。才能ある画家の惜しまれる死でした。

 しかし、彼らの絵には、そんな重苦しい戦争の空気はありません。なぜ市民社会の明るい普段の生活だけを描き続けたのでしょうか。

 ある程度裕福だった印象派の画家たちは、激動の時代にあって、労働者の悲惨は描かなかった。それを印象派の限界ということもできますが、一方で、世界中にこれだけ印象派の絵があって、今も愛され喜ばれているのだから、それは正しかったのだともいえます。人間は、よりよく生きたいと思えば、明るく歓びに満ちた絵を見ていたいと思うのかもしれません。

 印象派の画家たちは、生きる歓びを描くなかで、祖国フランスの復興を願っていたのではないでしょうか。」

 【三浦篤「19世紀フランス、革命の時代」(『印象派への招待』[朝日新聞出版、2018]所収」

 

◆歴史を多面的に見ることの大切さを、あらためて感じています。

★仏教のふしぎ・その1<初期仏教>

 ※最終更新 2020/11/30 (21:00)

 

☆「仏教って不思議だな」と思うことが時々あります。その不思議さをベースに、仏教について書いてみます。

 

☆ただ、読んだ文献も限られていますので、私の関心がある内容をメモしたという程度のものです。メモの観点は、おもに次の三つです。

 ① 素人の素朴な疑問から考える。

 ② 歴史の中で考える。

 ③ 他の宗教や思想と比較してみる。

 

<初期というのはいつ頃?>

 

◆以前は「原始仏教」という言い方がありましたが、現在は初期仏教で統一されているようです。

 

◆馬場紀寿に従い[*1]、<ブッダが活動した前500年頃から紀元前後の大乗仏教成立前まで>を初期仏教と考えます。ただ、<前3世紀の「教団分離(上座部と大衆部)~約20の部派成立」の前まで>を初期仏教とする考え方もあります。

 

<1>「ブッダは創造神や宇宙の原理を考えなかった」というふしぎ

 

ユダヤ教キリスト教イスラームなどの一神教とは、根本的に違います。多神教というわけでもありません。「万物の根源」という発想もなかったようですので、中国の老子ギリシアの自然哲学者とも違います。

 

◆同時代の中国(春秋時代末期)に生きた孔子の思想(「怪力乱神を語らず」)とは、似ている面はあります。

 

ブッダが「世界の始まりは?」という問いを持たなかったのはなぜなのか、わかりません。ただ、「そもそもの仏教には形而上学的な発想がなかった」ということは、とても重要だと思います。「極楽浄土」という世界も、ブッダが考えたことではありません。

 

<2>「ただひたすら現実を見つめた」というふしぎ

 

プラトンのようにイデアとの対比で現実を見ることはありません。ブッダは徹底して現実そのものを見つめ、私たちの現実を「無常」とか「縁起」という語で、言い表しました。先に述べたように、「神がそのように世界を造られた」というのではありません。ブッダは、「なぜ世界がこのようになったか」は問わずに、「この現実を深く理解しなさい、そのことが苦悩から解き放たれる道なのです」と語ったようです。

 

◆三枝充眞は、仏教の特徴をいくつか挙げる中で、「主体をふくむいっさいを、たえず生滅変化する無常というダイナミズムに漂わせる」[*2]と表現していました。三枝が「ダイナミズム」という語を使っているのはすごいと思います。日本的な「無常というむなしさ」ではないのです。

 

◆現代的な言い方をすれば、「生・老・病・死」という苦しみは「不条理」であり、「それは生の不確実性、無根拠性を露呈するものに他ならない」[*1]ということになります。よくはわかりませんが、ブッダは、無理に生の「根拠」や「意味」を見つけようとするのではなく、「生の不確実性、無根拠性」を穏やかに引き受けることを求めていたのかも知れません。しかし、私たちの心はさまざまのことで絶えず揺れ動きますので(それが「縁起」であり「無常」であり「無我」です)、修行者には「八つの正しい道」の実践という厳しい課題が課せられたのだと思います。

 

<3>「ブッダの教えは口頭で伝承された」というふしぎ

 

ブッダの死後、弟子たちによって教えの内容が確認されました。その教え(ブッダのことば=経[きょう])は400年にわたり、口頭で伝承されたというのですから、驚きです。経典として文字に書かれ、まとめられ始めたのは、前1世紀頃のことらしいです。

 

◆少なくとも400年間、仏教は「声の文化」だったことになります。テクストは、僧侶たちの声で伝承されたのでした。「テクスト=文字」と考える私たちの文化、おもに文章を読んで思考する(ことが良いとされてきた)私たちの文化とは大きく違います。

 

◆多分、経(ブッダのことば)を唱えることで、ブッダその人が僧侶たちに現前していたのでしょう。経が400年間口誦で伝えられたということは(現在でも読経にその名残が見られます)、人間にとっての「声の文化」の重要性を再認識させるものでもあると思います。(「隠れキリシタン」に伝承されてきたオラショを思い出しました。)

 

<4>「部派仏教」のふしぎ

 

◆前3世紀のマウリヤ朝アショーカ王の頃に、僧侶集団は約20のグループ(部派)に分かれました。仏教史の本には「分裂」と書いてあるため誤解しやすいのですが、部派は宗派的なものではなく、学派的なものだったようです。したがって、一つの地域的教団の中に、複数の部派の僧侶がいるというかたちでした。

 

キリスト教の歴史とは異なります。論争はありましたが、僧たちは「教えの唯一性」に拘泥することはなかったのです。したがって、ある部派を異端として排斥するというようなことはありませんでした。ブッダの教えの解釈の多様性が承認されていたということは、とても重要だと思います。佐々木閑は次のように述べています。

 

 『本来一つであったお釈迦様の教えがいくつもに分かれていったことを「よくないこと」と感じる方もいらっしゃるでしょう。しかし、様々な選択肢を含んだバラエティ豊かな宗教になったことで、仏教がより多くの人を救えるようになったと考えれば、逆にプラスととらえることもできるのです。』[*3]

 

 約20の学派に分かれ、「様々な選択肢を含んだバラエティ豊かな宗教になったこと」が、後の大乗仏教を準備したとも言えます。

 

◆各部派の中で口伝の経が整理されていったようです。経は3群にまとめられ、「三蔵(経蔵、律蔵、論蔵)」と言われるようになります。仏教を歴史的に考えた場合、「部派というフィルターの通らない経蔵と律蔵は存在せず、したがって部派分裂前に成立した経や律には触れることができない」[*4]という点は重要です。

 

◆今日の仏教学者たちは、部派仏教の諸経典を(もちろん大乗経典も)、歴史を超越した「聖なる書」のようには扱っていません。諸経典の比較研究の中から、部派仏教以前の仏教のすがたに迫ろうとしています。

 

[*1]馬場紀寿『初期仏教』(岩波新書、2018)

[*2]三枝充眞『仏教入門』(岩波新書、1990)

[*3]佐々木閑『集中講義 大乗仏教』(NHK出版、2017)

[*4]平岡聡『大乗経典の誕生』(筑摩選書、2015)

 

 

 

★18世紀フランスの宗教と社会(ナントの王令廃止後、ユグノーは)

 

 ◆ルイ14世のフォンテーヌブロー王令(1685)により、ナントの王令(1598)は撤回されました。この措置は、アンリ4世の暗殺(1610)後のカトリックユグノーの対立に終止符を打ち、ユグノーをフランス国内から一掃しようとするものでした。

 

◆高校の世界史教科書では、次のように記述されています。

 「ナントの王令の廃止(1685年)によって、ユグノーの商工業者が大量に亡命したことで国内産業の発展も阻害された。」【山川「詳説世界史」】

 

◆この時、オランダ、イギリス、スイス、ブランデンブルクプロイセン、新大陸などに亡命したユグノーは、約20万人と言われています。

 

◆私も、授業では、これ以上のことには触れないできたのですが(高校では触れる必要はないと思いますが)、重要なことを見落としてきたと感じています。

 

◆次のような事実を踏まえると、歴史はより興味深いものになるのではないでしょうか。

 ① フランス国内には60万人以上のユグノーが残った。

 ② 18世紀半ば以降、キリスト教信仰は世俗化した。

 

<国内に残ったユグノーは>

 

◇ナントの王令廃止後、国内に残ったユグノーは改宗を強制されました(「新カトリック」と呼ばれました)。しかし、日本の「隠れキリシタン」と同じで、信仰を持ち続けた人びとも多かったのです。都市部では摘発が厳しかったものの(処刑された人、投獄された人も少なくありません)、家庭内の奥まった部屋で少人数の礼拝が続いていきました。

 

◇一方、特に南フランスの農村部では摘発が行き届かなかったため、人里離れた場所で大規模な集会が持たれ、「荒野の集会」と呼ばれました。また、フランス南部のセヴェンヌ地方では、1702年ユグノーによる大規模な反乱が起きました(カミザール戦争)。最終的には鎮圧されましたが、渓谷が点在する山岳地帯で、2年にわたって農民軍がルイ14世の正規軍と対峙したのでした。

 

キリスト教信仰の世俗化>

 

◇18世紀フランスは啓蒙(「理性の光」)の時代でした。モンテスキューヴォルテール、ルソー、ディドロなどの啓蒙思想家が有名ですが、それらのフィロゾーフを生み出す社会的な土壌がありました。サロンやカフェの賑わいだけではありません。出版物の発行が増加し、識字率も徐々に向上していました。農村にも廉価本が出回っていました。

 

◇このような中で、以下のことが起きていました。

  ●宗教書の出版の比率の低下

  ●死後にミサをあげるよう記した遺言書の減少

  ●カトリック教会が禁止していた避妊や婚外出産の増加

  【山﨑耕一「近世のフランス」】

 

カトリックの根強い信仰が続いていた地方もありましたが(フランス革命中に反乱を起こしたヴァンデ地方などはその典型です)、都市部を中心とした、宗教への関心の低下は、カトリック教会とユグノーとの関係にも影響を与えました。

  『(各教区の)司祭たちの多くは、与えられる命令を遵守して「新カトリック」を相手に際限のない紛争を繰り返すよりも、むしろ、彼らと可能な限り妥協して、平和的な共存をはかりたい気持ちになっていたのである。』【木崎喜代治「フランス18世紀のプロテスタント」】

 

◇1761年、ユグノーのジャン・カラスの冤罪事件が起き、ヴォルテールがその無実を訴える活動を精力的に行いました。その中で書かれたのが『寛容論』です。ただ、上記のような状況がありましたので、この事件は例外的に狂信的な事件だったとも言われています。

 

開明的な官僚や司祭たちの活動により、フランス革命勃発の直前(1787)、ルイ16世の「寛容王令」が出されました。まだ信教の自由が認められたわけではありませんでしたが、ユグノーユダヤ教徒の法的地位が保証されたのです。

 

フランス革命期の激しい「非キリスト教化」運動の背景には、以上のような宗教的・社会的状況があったのだと思います。

 

◆メモ程度のものですが、18世紀フランスの信仰を、迫害されたユグノーを中心に見てみました。「ヨーロッパはキリスト教」とは言っても、その歴史にはさまざまの深い襞があることを、強く感じています。

 

【参考文献】

●木崎喜代治「フランス18世紀のプロテスタント」(京都大学「経済論叢」、第150巻2・3号、1992)[ repository.kulib.kyoto.u.ac.jp ]

●長谷川輝夫「フランス・啓蒙の時代」(世界の歴史17『ヨーロッパ近世の開花』、中央公論社、1997、所収)

●山﨑耕一「近世のフランス」(佐藤彰一ほか編『フランス史研究入門』、山川出版社、2011、所収)

●坂野正則「近世王国の社会と宗教」(平野千果子編『新しく学ぶフランス史』、ミネルヴァ書房、2019、所収)

 

 

★あるアラム語が2年前の新訳で『新約聖書』から消されたという問題

 

  ◆「31年ぶり、0から翻訳」と銘打たれた『聖書』(聖書協会共同訳)が出版されたのは2年前(2018年11月)でした。その翻訳の一部については、拙文(「世界史の扉をあけると」)ですでに述べていますが、今回は、旧訳(新共同訳)にあったアラム語が新訳では削除されてしまったことを取り上げます。

 

◆問題の部分は、『新約聖書』の「コリントの信徒への手紙一」(パウロギリシアコリントスの教会宛に書いた手紙)の末尾です。旧訳と新訳を比較してみます。

 

 <旧訳>

  「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。」

 

 <新訳>

  「主を愛さない者は、呪われよ。主よ、来りませ。主イエスの恵みが、あなたがたと共にありますように。」

 

◆「マラナ・タ」がアラム語です(『新約聖書』全体はギリシア語です)。「マラナタ」と表記する場合もあるそうです。訳は数種類あるようですが、「主よ、来り給え(おいでください)」という意味です。

 

◆この部分が非常に重要だと思うのは、「マラナ・タ」が当時の礼拝の最後に唱えられる言葉だったからです。現在の「アーメン」(もとはヘブライ語です)と同じように唱えられていたのでしょう。田川建三は次のように述べています。

 

 「礼拝のおそらくは最後のところで皆で声をそろえて唱えた重要なせりふであったと思われる。それがアラム語で唱えられたということは、パレスチナの教会は礼拝をアラム語でいとなんでいた、ということだろう。(中略)しかもパウロはこの語をギリシャ語で説明したりしていない。ということはつまり、ギリシャ語のキリスト教会においても礼拝に用いる重要な用語はアラム語のまま伝えられ、用いられていた、ということになる。」(『書物としての新約聖書』)

 

パウロの「コリントの信徒への手紙一」は、50年代半ばに書かれました。イエスの死(紀元後30年)から20数年後のことです。最初期のキリスト教会が、パレスチナアラム語世界(イエスも弟子たちもアラム語世界に生きていました)から、ギリシア語世界へと発展していた時期でした。ギリシア語の「マルコによる福音書」(『新約聖書』の配列とは違い、四福音書の中で最も古いものです)は、60年代~70年代に書かれたと言われていますが、キリスト教ギリシア語世界でほぼ確立したことを示すものでしょう。過渡期にあった50年代まで、アラム語の「マラナ・タ」が礼拝で使われていても、何ら不思議ではありません。

 

◆「マラナ・タ」は、最初期のキリスト教パレスチナアラム語世界で成立したことを示す語だったのです。どのような意図があって削除したのかわかりませんが、初期キリスト教の歴史の重要な部分を覆い隠すことになってしまいました。残念でなりません。(マルコが書いた、イエスの最後の叫び「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」やゲツセマネの祈りの「アバ」もアラム語ですが、さすがにこれらは削除していません。)

 

◆なおパウロは、「神から見捨てられるがいい」、「呪われよ」という激しい言葉を使っていました。ユダヤ教徒キリスト教内部の諸派との論争があったからでしょうが、強い違和感を覚えます。「ヨハネによる福音書」(90年代に書かれました)にも、「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」とか「悪魔である父から出た者である」というような、容赦ない言葉が見られます(8章)。自分たちとは違う考え方に対する不寛容が、すでに『新約聖書』に表れていたと言えるでしょう。

 

◆『新約聖書』が歴史上の諸文書を編集したものである以上(『旧約聖書』も同じです)、このようなことは避けられません。魔女狩りガリレイ裁判やユダヤ人迫害が誤りだったように、初期キリスト教徒たちにも行き過ぎや誤りはあったのです。『聖書』は、歴史を超えた、絶対的な「聖なる書物」ではありません。しかも、「マラナ・タ」の例でわかるように、ほとんどの日本人が接するのは、翻訳というフィルターを経た『聖書』です。

 

◆私は、特に「マルコによる福音書」のイエスに敬意を抱いてきましたが、キリスト教の不寛容の歴史もいやというほど知ってきました。ファンダメンタリズムから自由なクリスチャンが数少ないことも……。『聖書』が歴史上の重要文書の翻訳であることを踏まえた、他の宗教にも寛容なキリスト教信仰であってほしいと願っています。

 

【参考文献】

田川建三『書物としての新約聖書』(勁草書房、1997)

・上村静『旧約聖書新約聖書」(新教出版社、2011)

・荒井献『イエスとその時代』(岩波新書、1974)

 

☆ユーラシアの歴史の中の<阿修羅>☆

 

興福寺の阿修羅像は、多くの人びとを惹きつけてきました。8世紀(奈良時代)の彫刻ですが、まるで生きているようにさえ見えます。阿修羅像の何が私たちを惹きつけるのでしょうか? 阿修羅像は何を祈っているのでしょうか?

 

◆仏教の守護神としての<阿修羅>には、不思議な歴史がありました。

 

◆<阿修羅>は、古代インドのバラモン教(紀元前1000年頃までには成立したようです)では、最高神インドラと対立した、闘争を好む鬼神とされました。そのような神話から、わが国でも、悲惨な争いが繰り広げられる場を「修羅場」と呼んできたわけです。

 

◆その<阿修羅>は、しかし、インドで6~7世紀に成立した密教の中では、悔い改めて仏法を守る存在になりました。そして、中国、日本へと伝わってきたのです。

 

◆もともと<阿修羅>はサンスクリット語 asura の音訳(漢訳)ですが、古代イラン語の ahura と同じ語と考えられています。アスラ(=アフラ)は、「光り輝く聖なる力」を意味していました。ちなみに、古代イランで成立したゾロアスター教の光明神・善の神の名は、アフラ・マズダでした。宗教学者エリアーデは、「インドラがアスラ(アフラ)を屈服させ、その聖なる力を自分のものにした」と、バラモン教ヴェーダを解釈しています。

 

◆歴史を、さらにさかのぼってみます。イランに移動したアーリヤ人も、インドに入ったアーリヤ人も、ユーラシア中央部の草原地帯から移動してきたのでした。紀元前2000年紀のことです。西方へ移動した、のちのヨーロッパ人も、同じくユーラシア中央部にいた人々でした。そこから、「インド=ヨーロッパ語族」と総称されています。

 

◆多分、太陽信仰を母体としながら、ユーラシア中央部の草原地帯で、「光り輝く聖なる力」という観念が生まれたのだと思います(オリエントでも同様の考え方が生まれていました)。イランでは「光り輝く聖なる力」がアフラ・マズダとなり、インドではその力はインドラ(ギリシア神話のゼウスに同定されています)に吸収されたと考えられます。そして「光り輝く聖なる力」は、やがて、仏教の図像の光背やキリスト教の図像の後光に表されるようになりました。のちのヨーロッパでは、理性もまた光に譬えられたのでした。

 

◆古くは「光り輝く聖なる力」を表していた<アシュラ>。興福寺の阿修羅像も、その力を引き継いでいるのでしょう。阿修羅像は合掌しているように見えますが、実はわずかな隙間があります。阿修羅像の両手に包まれるようにして、「光り輝く聖なる力」は、今も生まれ続けているのかも知れません。

 

◆ユーラシアの歴史を身に帯びながら、阿修羅像は、仏法を守る(=世界を守る)ために、祈っています。

 

【参考文献】

エリアーデ世界宗教史Ⅰ』(荒木美智雄・中村恭子・松村一男訳、筑摩書房、1991)

鶴岡真弓『阿修羅のジュエリー』(理論社、2009)

中村元ほか編『岩波 仏教辞典』(岩波書店、1991) 

 

 

▼新型コロナ感染、欧米危機、日本も(11/12)

 

★ヨーロッパやアメリカは感染爆発と言ってもいいような、危機的状況です。

 

アメリカでは、きのう(11/11)、1日の新規感染者がなんと14万人でした(累計では1040万人を超え、死者は24万人を超えています)。もしかしたら、大統領選投票日(11/3)前のトランプの、感染対策を行わない大規模集会も影響しているかも知れません。トランプはまだ大統領なのですから、早急に対策を打つべきです。証拠もなく不正を云々している場合ではないのです。しかし、自分のことしか頭にないのでしょう。アメリカ国民が気の毒でなりません。

 

◆日本も、1日の新規感染者数が激増しています。

   11/11(水)    1,543人

   11/12(水)    1,649人 [21:30現在]

 ※半月前と比較すると、増加ぶりがはっきりわかります。

      10/29(木)      809人

   10/30(金)      778人

 ※来週には、重症者の数も増えていくのではないでしょうか。

 

◆政府の動きは、相変わらず鈍いままです。メリハリのある対策を果断に行ってほしいものです。Go To キャンペーンは、中断すべきでしょう。今は、経済活動を一時低下させても、国民の健康と命、医療体制を守るべき時です。そうでないと、大変な状況で師走を迎えることになってしまいます。

 

☆世界中の人たちが、明るい気持ちでクリスマスと新年を迎えられるようになることを、祈るばかりです。