世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★19世紀半ばの航路・鉄道③(1869年・米大陸横断鉄道への3つの視点)

 

◆最初のアメリカ大陸横断鉄道が、1869年に開通しました。この出来事を3つの視点から考えてみます。なお、「最初の」と述べたのは、1883年、合衆国の北部と南部に新たな大陸横断鉄道ができたからです。

 

◆また、1869年にはスエズ運河も開通しました。1869年は、まさに「グローバルな交通革命」の年でした。

 

<1 広大な国内市場の形成>

 

 「世界史探究」の教科書の中で最もていねいに説明しているのは、『新世界史』(山川出版社)です。

 

 「とくに重要なのは、東部および五大湖沿岸の工業製品と、西部・南部の食料・原材料・燃料が水路と鉄道、そして通信網で結ばれ、広大な国内市場が形成されたことである。西部と東部のあいだでは有線電信の開通に続き、1869年には最初の大陸横断鉄道が完成した。しかも、その国内市場は保護関税によって守られた。南北戦争後、鉄鋼、農業機械、繊維、精肉など従来からの業種も近代化を進めたが、石油精製・化学・電気・通信など新たな分野も一挙に発達した。」

 

 このような記述を読めば、1880年代にアメリカがイギリスを抜いて世界一の工業国になったことも、生徒たちはよく理解できると思います。

 

<2 太平洋横断航路との接続>

 

 世界史の授業では<1>の視点に簡単に触れて終わりがちですが、アメリカ政府の目は、西海岸を越えて、太平洋~東アジアへと注がれていました。アメリカはすでに1840年代から、大陸横断鉄道と(②で述べた)太平洋横断航路の接続を考えていたのです。それは、1869年開通の鉄道の名称にも表れています。正式名称は、「ユニオン・セントラル・パシフィック鉄道「(東西からの路線が結合された)中央太平洋鉄道」でした。83年開通の2つの鉄道は、「ノーザン・パシフィック鉄道」、「サザン・パシフィック鉄道」です。「パシフィック・オーシャン(太平洋)」への意識の強さがわかります。

 

 歴史家の小風秀雄は次のように述べています。

 

 『(1869年の鉄道開通の結果)それまでアメリ東海岸から西海岸まではパナマ地峡鉄道経由で3週間かかっていましたが、サンフランシスコ-ニューヨーク間は7日(週一便の特急は6日)へと劇的に短縮されました。さらに太平洋横断航路と結ぶと約1カ月で中国に達することになり、輸送速度の点で東回り(大西洋経由)をはるかに上回りました。大陸横断鉄道の開通で、「二つの大洋をむすぶ」ルートが開通し、「アメリカがアジアとヨーロッパの間に立った」のです。』

  【小風秀雄『世界史のなかの近代日本』(山川出版社、2023)】

 

 1871年に出発した岩倉使節団は、「グローバルな交通革命」の直後に、欧米視察を行ったのでした。使節団は、太平洋横断航路と大陸横断鉄道でアメリ東海岸に行き、さらに大西洋を渡ってヨーロッパに赴きました。帰路はスエズ運河を通っています。

 

<3 移民労働力による建設>

 

 大陸横断鉄道の建設は、おもにアイルランド人移民と中国人移民(苦力[クーリー]と呼ばれました)によって担われました。しかし、開通時の記念写真に中国人移民は写っていませんでした。WASP(ホワイト[白人]・アングロサクソン[イギリス系]・プロテスタント[新教徒])中心政策はまだ続いており、カトリックアイルランド人移民は苦労を強いられました。そして、中国人移民にはさらに厳しい現実が待っていました。

 

 『南北戦争後のアメリカには、西部開拓や急速な都市化・工業化により無尽蔵な労働需要があった。大陸横断鉄道は「東半分はアイルランド人移民が、西半分は中国人移民が作った」と言われるが、政府は大資本からの要請があれば清朝とも条約を締結し、中国人移民奨励策を取った。だが鉄道完成後、中国人労働者がサンフランシスコのチャイナタウンに集住し始めると、排華運動が始まった。

 西海岸の排華問題はまもなく連邦議会に持ち込まれ、自由移民の原則を堅持してきた米政府にとって初の移民制限立法である排華移民法が1882年に制定され、中国人労働者は全面入国禁止となり、「帰化不能外国人」というレッテルが貼られた。』

  【貴堂嘉之「移民の世紀」[『岩波講座 世界歴史16』、2023]】

 

 アメリカ大陸横断鉄道開通は「移民の世紀」を象徴する出来事でもありました。しかし、日本人移民を含むアジア系移民の苦難の歴史が始まっていったのです。

 

◆歴史上の出来事を多角的に検討することの大切さを、あらためて感じています。「言うは易く行うは難し」ですけれども。