世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★19世紀半ばの航路・鉄道⓵(1853年・ペリー艦隊)

 

★19世紀は、蒸気船・蒸気機関車の発明と爆発的な普及により、海上でも陸上でも交通に大革命が起きた時代でした。その一端を、3回にわたって考えてみます。

 

◆1853年7月(陽暦)、ペリーに率いられた、アメリカの東インド艦隊4隻は、上海から琉球小笠原諸島を経て、浦賀に姿を現しました。アメリカの大西洋岸を出航したのが1852年の11月でしたから、8カ月余りかかっていました。このことから、二つのことが確認できます。

 

◆まず、ペリー艦隊の航路から確認できるのは、当時のイギリスの圧倒的な通商力・海軍力です(パックス・ブリタニカの真っただ中でした)[*1]。ペリー艦隊は、大西洋を横断し、ケープタウンモーリシャス、セイロン島、シンガポール、香港を経由していました。地名からもわかるように、すべてイギリスの植民地・石炭補給地でした。

 

◆二つ目に確認できるのは、まだ太平洋横断航路が成立していなかったことです。アメリカがメキシコからカリフォルニアを獲得して5年という時期でしたが、アメリカは太平洋横断航路の開発を急いでいました。太平洋横断航路は、他のヨーロッパ諸国に伍してアメリカが東アジア(特に中国)に進出するためには、必須の航路でした。つまりペリーは、アメリカの東アジア戦略の重要な一環として、日本と琉球の開国を求めたのでした。

 

アメリカの東アジア戦略と太平洋横断航路については、残念ながら、各社の「世界史探究」教科書は触れていません。「世界史探究」の授業でペリー来航を取り上げる際は、「日本史探究」の教科書を参照したほうがいいかも知れません。[*2]

 

◆たとえば、東京書籍の「日本史探究」では、次のように述べられています。

 

 「太平洋の対岸のアメリカでは、日本近海に進出していた捕鯨船への補給や遭難時の船員救助のため、日本への寄港が必要となっていた。また、メキシコとの戦争に勝利してカリフォルニアを領有したことをきっかけに、太平洋を横断する対清貿易への期待が高まった。太平洋航路の中継地として、日本を開港させることが重要な課題となり、日本へ使節を派遣しようとする動きが生まれた。」

 

◆付け加えれば、蒸気船の運航に不可欠な石炭の補給地としても、日本は重要でした。やがて、1870年代以降、日本の良質な石炭は重要な輸出品の一つとなり、長崎や横浜では内外の船舶に大量に売却されました。

 

[*1]1850年当時、世界の船舶の47%がイギリスの船舶でした。

[*2]「歴史総合」でも、「日本史探究」を参照しながら、簡潔に触れることはできるでしょう。

 

【参考文献】

・小風秀雄『世界史のなかの近代日本』[山川出版社、2023]

・金澤周作「海域から見た19世紀世界」[『岩波講座世界歴史16・国民国家と帝国』(2023)所収]

田中彰『開国と倒幕』[日本の歴史15、集英社、1992]