世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★19世紀半ばの航路・鉄道②(1860年・遣米使節団)

 

江戸幕府は、日米修好通商条約(1858年締結)の批准書交換のため、万延元年(1860年)、アメリカに使節団を派遣しました。

 

◆新見豊前守正興を正使とする使節団の一行は77名(幕府の役人、従者、調理員)でした。アメリカの軍艦ポーハタン号(ペリーの2度目の来航時[1854年]の旗艦でした)に乗船して、アメリカに向かいました。ペリーの時と決定的に違うのは、太平洋を横断したことです。

 

アメリカの太平洋郵船が<サンフランシスコ~横浜~香港>の定期航路を開設したのは1867年でしたが、すでに1860年当時、アメリカ海軍は太平洋を横断する技術を身につけていました。随行船の咸臨丸(オランダ製でした)の航海もアメリカ兵に頼ったものでした。艦長は勝海舟でしたが、荒天続きの航海になすすべはなかったようです[*1]。

 

◆ハワイ経由で太平洋を横断した新見らの使節団は、サンフランシスコからパナマに移動し、パナマからまたアメリカ船に乗り、北上してワシントンに到着しました。批准書交換後、一行は、たくさんの見物客が集まる中、ニューヨークのブロードウェイを行進しました[*2]。

 

◆注目すべきはパナマです。使節団一行はパナマ地峡を徒歩や馬車で移動したわけではありません。鉄道で越えたのです。アメリカは、早くからパナマ地峡の戦略的重要性に気づき、1855年パナマ地峡鉄道を開通させていました(イギリスの鉄道営業運転開始[マンチェスターリヴァプール間]から25年という時期でした)。パナマ運河の完成は1914年でしたが、大西洋と太平洋を陸路で結ぶ鉄道が果たした役割は、非常に大きなものでした[*3]。運河の完成後もパナマ鉄道は継続し、現在はパナマの企業によって運行されています。

 

使節団一行は、<大西洋~喜望峰~インド洋~南シナ海東シナ海>経由で帰国しました。約9カ月かけて世界を一周したのでした。なお、ちょうど使節団が帰国した頃、アメリカではリンカンが大統領に当選し、翌年には内戦(南北戦争)に突入することになります。

 

[*1]咸臨丸は、随行船という名目でしたが、実際は幕府の遠洋航海実習船でした(総勢107名)。航路もポーハタン号とは別で、大圏航路(最短距離)に近いルートをとりました。サンフランシスコ到着後は船体を補修し、日本に引き返しています。中浜万次郎福沢諭吉も乗船していました。

[*2]アメリカ人の反応を、司馬遼太郎は、ホイットマンの詩を引用しながら興味深く述べていました。

[*3]残念ながら、パナマ地峡鉄道に触れた「世界史探究」教科書はありません。

 

【参考文献】

田中彰『開国と倒幕』[日本の歴史15、集英社、1992]

・小風秀雄『世界史のなかの近代日本』[山川出版社、2023]

司馬遼太郎『明治という国家』[日本放送出版協会、1989]

・外務省「万延元年の遣米使節」[ www.mofa.go.jp ]

・「パナマの鉄道」[ Wikipedia