世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

▼最高裁裁判官の女性割合に関する小さな記事

 

◆「女性差別撤廃条約実現アクション」など92団体が、最高裁判所裁判官の女性割合を、現在の2名から少なくとも5名(全体の1/3)にするよう、要望書を提出したという記事がありました。(朝日新聞、2021.3.16)

 

▼非常に重要な要望だと思いました。ただ、他紙はわかりませんが、とても小さな記事で、大変残念でした。このあたりに、朝日新聞の底の浅さがあります。

 

◆去年アメリカで、女性差別撤廃に重要な役割を果たしたギンズバーグ判事が亡くなったというニュースがありましたが、日本でも司法判断に女性が加わることはきわめて重要だと思います。

 

▼関連しますが、津田大介による朝日の論壇時評の最終回(2021.3.25)で、彼は「専門外だったジェンダー平等の問題に取り組むようになった」と書いていました。そもそも、ジェンダーの問題に専門かどうかなど関係がないでしょう。このようなことを書く人が論壇時評を担当してきたのかと思うと、がっかりしてしまいます。

 

高橋源一郎の「歩きながら、考える」(朝日新聞、2021.3.18)は、とてもいい文章でした。今は忘れられたかも知れない森崎和江について書いてあって、ありがたかったです。紹介されていた『からゆきさん』以外にも、すばらしい本があります。森崎和江は、戦後の思想史に正当に位置づけられてしかるべき女性だと思っています。

★『世界の中のフランス史』特集を読んで考えたこと

※最終更新 2021/3/22 10:30 

 

◆「ナショナル・ヒストリー再考」と題された、「思想」の『世界の中のフランス史』特集号(2021年3月号、岩波書店)を読んでみました。

 

◆『世界の中のフランス史』については初めて知ったのですが、2017年に出版され、フランス国内で多くの読者を獲得しているそうです。学術的な研究書としてではなく、歴史に関心のある人々に向けて書かれました<*1>。翌年には、早くも増補版が出版されたとのことです。

 

 <*1>新しい「岩波講座 世界歴史」の刊行が、2021年10月から始まるようです。願わくば、執筆者の研究成果発表の場ではなく、多くの読者を引きつける、「生きた歴史叙述」がなされる場であってほしいものです。

 

【『世界の中のフランス史』の構成、編集の意図】

 

◆146の年号(増補版では161)を12章に分けて配列し、1つの年号について数ページの記述があるそうです(執筆者は132人)。編者のパトリック・ブシュロンは、「146の年号だけで、世界の中のフランス史の網羅的な物語が書けるわけではない」<*2>ことを自覚しながら、また年号による編集によって「経済や環境の次元で社会の歴史に影響を与える長期持続での構造的変化は二の次になる」<*2>ことを踏まえながら、『世界の中のフランス史』をまとめたのでした。

 

◆パトリック・ブシュロンは、執筆者たちに、『良心の呵責なしに、脚注なしで、研究によってたえず更新される「生きた歴史」を書くこと、それを共有するのを悦びにできる人々に向けて、歴史を共有する小さな悦びが今の社会の陰鬱な情念に打ち勝つことを期待して書く』<*2>ことを求めたそうです。

 

◆ただ、発展的な学びのために、「個々の項目の末尾に学術的な参照文献」をあげてあるとのことです。「年号は一つの読書への案内にすぎず、本書には人名索引と項目ごとに参照すべき他の年号の指示がついており、また巻末にテーマ別に関連項目をあげ、別な経路での旅への誘いによって、年号間の意外な関連を発見できるように工夫している。」<*2>

 

◆「参照すべき他の年号」が示されていることは、とても重要です。複数の視点を持つことにつながるからです。「年号間の意外な関連」については、授業でも本ブログでも取り上げてきました。また、本ブログの記事は、通常の世界史とは「別な経路での旅への誘い」のつもりで書いてきましたので、ブシュロンの序文は共感をもって読みました。

 

◆『世界の中のフランス史』は、自国礼賛のナショナル・ヒストリーではありませんでした。また、自国の負の歴史を糾弾する書物でもありませんでした。「世界に開かれたナショナル・ヒストリー」を目指した、一般向け歴史書として出版されたのです。なお、フランス歴史学の歩みの中での位置付け、フランスの政治・社会状況との関連などは、各論考やシンポジウムの記録に詳しく述べられています。

 

<*2>パトリック・ブシュロン「序 フランス史を開く」(三浦信孝訳、「思想」3月号)

 

 【訳出された2項目】

 

◆特集には、161項目のうち、2つが訳出されていました。

 

 ●「1789年 グローバル革命」(アニー・ジュルダン、三浦信孝訳)

 ●「1832年 コレラのフランス」(ニコラ・ドラランド、原聖訳)

 

◆「1832年」には、私が知らなかったことも書かれてありましたので、有益でした。ただ正直なところ、どちらの項目も内容的にはそれほど意外性はありませんでした。個人的には、「1789年」よりは「1791年 プランテーション革命」を訳出していただきたかったと思います。ドラランドが講演の中で触れていた、中世半ばの「ユダヤ教の祭司ラシ」の項にも惹かれます。

 

【『世界の中のフランス史』に触発された授業】

 

◆「思想」誌としては珍しく、高校での授業の記録が載っていました。

 

 ① 水村暁人『生徒と創る「歴史総合」 -ペリー来航の年号から時代を立体的にとらえる-』

 ② 山田耕太『『世界の中のフランス史』から「日本史探究」へ -「〇〇〇〇年 コレラの日本」を考える-』

 

◆①では、オランダの「別段風説書」を生徒たちに読ませた後、「もし1853年に各国(日・中・英・米・露・独)の首脳だったら、どのような施政方針演説を作るか」というテーマで、グループワークと代表によるロールプレイを行ったそうです。なぜこのようなテーマだったのでしょうか? 私には理解できません。統治者の立場で考えるという授業では、歴史の多様な面を見ることができなくなってしまうでしょう。

 

◆私の場合であれば、アメリカにとっての太平洋、ペリーの軍人としての経歴や来日時の肩書、浦賀にやって来るまでの寄港地、フィルモア大統領の国書の言語などから、「世界の中の1853年」を考えさせたと思います<*3>。また、「参照すべき他の年号」を示すことも大切です。少なくとも、1853年の来航は、翌年の2度目の来航とセットで考えなければなりません。

 

◆②は、なかなか興味深いものでした。ただ、感染症を取り上げる場合、公衆衛生の進展や文明化との関連で、どうしても近代化としてのナショナル・ヒストリーの中に収斂しがちですので、注意が必要だと思います。「世界に開かれた歴史」を標榜しながら、自国賛美のナショナル・ヒストリーを強化する題材にもなり得るのです。「1832年 コレラのフランス」にも、そのような危険性が若干感じられました。

 

<*3>簡単に述べるだけにしますが、ペリーはアメリカ=メキシコ戦争でも戦っています。また、ペリー艦隊の主な寄港地は次の通りです。セントヘレナ島ケープタウン、セイロン島、シンガポール、香港、上海、那覇。ここから、さまざまな授業展開が可能です。

 

 【比較史・比較歴史教育研究会のこと】

 

成田龍一が、岩崎稔との対談<*4>の中で、ナショナル・ヒストリーの枠を超えようとしたグループとして、比較史・比較歴史教育研究会(1982年発足)をあげていました。私がかつて所属していた研究会です。すでに解散しており、忘れられた研究会だと思っていましたので、きちんと歴史の中に位置づけていただいて、ありがたかったです。

 

◆ただ岩崎稔は、比較史・比較歴史教育研究会にあった「現場の先生たちと歴史家たちとのコラボレーション」が、1995年には後退していたという、高澤紀恵の話を紹介していました。私は、1990年代後半に研究会に加わりましたので、「なるほど」と思いました。研究会の雰囲気は、私が期待したものとは少し違っていたのでした。しかし、地道な活動は2012年まで続き、多くのことを学ばせていただきました<*5>。

 

<*4>成田龍一岩崎稔「対談 ナショナル・ヒストリーと、その向こう」(「思想」3月号)

<*5>同研究会主催で1999年に開かれた「第4回東アジア歴史教育シンポジウム」の記録集である『帝国主義の時代と現在』(未来社、2002)には、拙文も載っています。稚拙なものでしたが、スピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』や李静和の『つぶやきの政治思想』についても触れていますので、研究会の雰囲気とは少し異なる文章だったと思います。 

 

フランス史と植民地】

 

岩崎稔は、次のように述べていました。

 

 「植民地主義レイシズムは、西洋のナショナル・ヒストリーをめぐるこれまでの記述に、部分的に補完されるべき一定の欠損であるとはもう言えないように思えます。そこにある根強い消去と否認のメカニズムは、近代の問題の核心中の核心かもしれないと思うようになってきました。」<*4>

 

平野千果子も、多分、岩崎と同じ考えだと思います。特集の中の論文「『世界の中のフランス史』と植民地」で、平野は、編者たちのフランス国内での難しい立ち位置を考慮しながら、慎重にことばを選んでいましたが、『世界の中のフランス史』の中の欠落部分を鋭く指摘していました。

 

◆なお、植民地主義は、広い視野から考える必要があります。感染症対策も植民地経営と連動していましたし、動物園も植物園も植民地主義と深く関わっています。厄介なのは、植民地主義が「文明による野蛮の教化」という「啓蒙主義」と結びついていた点です。

 

◆植民地は、フランスや欧米の問題というわけではありません。<近代日本と植民地>という最重要テーマにつなげずに考えることはできないからです。2022年度からの高校の新科目「歴史総合」や「日本史探究」では、植民地をどのように取り上げることになるでしょうか?

 

【新科目「歴史総合」への期待?】

 

◆『世界の中のフランス史』に関連させながら日本の歴史教育を考えた場合、新科目「歴史総合」は重要でしょう。成田龍一や高澤紀恵には、研究者として「歴史総合」への強い期待があるようです。しかし、事は簡単ではないと思います。どのような教科書が作成されたかわかりませんが、ナショナル・ヒストリーの枠を一応取り払った歴史記述の中で何が意図されているか、よく見極める必要があるでしょう。「歴史総合」では、近代化や資本主義発展を賛美する授業を展開することも十分可能なのです。各社の「歴史総合」や「日本史探究」の教科書が登場した後、日本の近代化やナショナル・アイデンティティをめぐって、議論が巻き起こるかも知れません。

 

◆「縮みゆく日本」(人口減、高齢化、経済力低下等)とコロナ禍が重なっていますので、歴史に「光」を求める人も多いでしょう<*6>。「歴史総合」においても、「日本人として」自信を取り戻すために「明るさ」が求められ、「濃い影」のほうは多少扱われるにとどまるかも知れません。このような時代状況の中で、教える側が「近現代の光と影」をトータルに捉える視座を持つことは容易ではありませんが、諦めるわけにはいきません。授業を通して歴史の「ポリフォニックな声」(ブシュロン)を生徒たちに伝える努力は、今まで以上に必要になると思います。

 

◆「歴史総合」の教育課程上の位置づけにも難点があります。本ブログで昨年も書きましたが<*7>、「高校1年生が2単位で学ぶ科目」という位置づけになっていますので、多くの高校では基礎的な知識を習得させるのに精いっぱいという状態になるでしょう。少数のエリート校や中高一貫校は別でしょうが、残念ながら「深い学び」を期待するのは無理だと思います。「3年次に高校の歴史学習の総まとめとして学ぶ」という位置づけにならなければ、「歴史総合」本来の趣旨を生かすことはできないでしょう。

 

<*6>大河ドラマの主人公に渋沢栄一が選ばれたのは、象徴的です。

<*7>2020年10月25日の記事。 

 

【『世界の中のフランス史』の翻訳・出版を】

 

◆「思想」の編集部に問い合わせてみたのですが、岩波書店からの出版予定はないということでした。原書で800ページ余りとのことですので翻訳も大変でしょうが、日本の歴史学歴史教育のためにも、どこかの出版社で手がけてくれることを期待しています。

 

◆また、「世界に開かれたナショナル・ヒストリー」の日本版として、『世界の中の日本史』が書かれることを、切に望んでいます。日本においても、「歴史を共有する小さな悦びが今の社会の陰鬱な情念に打ち勝」たねばなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

▼終わらないメルトダウン <東日本大震災から10年>

 

▼今日は、東日本大震災福島第一原発事故(2011.3.11)から丸10年にあたります。

 

▼人びとの心にも、街にも、野山にも、産業にも、癒えない傷が残っています。岩手県宮城県福島県を中心に、22,242人の命が奪われました。「震災関連死」とされる方々は福島県が最も多く、2,313人です。故郷を追われ、過酷な避難生活を送るうちに亡くなったのです。地震津波による死者1,614人・行方不明者196人の合計を上回っています。

 

▼今はたくさんの報道がありますが、まもなくコロナやオリンピックや選挙の話題にかき消されていくでしょう。原発事故について、ごく基本的なことだけ書きとどめておきたいと思います。忘れないように。

 

▼10年前、巨大地震と巨大津波からまもなく、東京電力福島第一原子力発電所の1号機・2号機・3号機の全核燃料がメルトダウン炉心溶融)しました。1号機・3号機・4号機では爆発も起こりました。チェルノブイリ原発事故(1986年)と並ぶ、きわめて深刻な事故となりました。

 

 

【深刻な事態は続いている①(融け落ちた核燃料)】

 

デブリ(融け落ちた核燃料)は、880トンに上ると言われています。

 

●困難な作業が続いていて、デブリの状態さえはっきり分かっていません。作業員の人たちが奮闘していますが、デブリの取り出しのめどは、まったくたっていません。

 

●再び巨大地震・巨大津波が起きれば、デブリに何らかの異常が発生して、また放射能汚染が広がる可能性もあります。風向きによっては、茨城県から首都圏にまで甚大な被害が及んでしまうでしょう。

 

●また、デブリを取り出すことができたとしても、それをどこに、どのように保管するのでしょうか? 汚染された廃材も同様です。

 

●「廃炉まで40年」と言われていましたが、これから50年、あるいはそれ以上かかるかも知れません。現在の子どもたちにまで、廃炉という課題が重くのしかかってしまうのです。

 

【深刻な事態は続いている②(汚染水)】

 

デブリを冷却するために使い続けている水は、捨てるところがありません。トリチウムなどの放射性物質が残っている汚染水として、原発周辺に設置された大きなタンクに保管されています。タンクは1,000基以上になり、汚染水は計1,300トンになろうとしています。

 

●政府は、汚染水を薄めて海洋に放出する方針ですが、漁業関係者を中心に反対が続いています。

 

【深刻な事態は続いている③(除染土)】

 

●除染作業により、はぎとられた土や草木は膨大な量になっています。東京ドーム11個分だそうです。それらは、第一原発が立地する大熊町双葉町に、「中間貯蔵」と称して保管されています。環境省が以前の居住者から買い上げた(泣く泣く売った人たちがほとんどです)広大な土地に、黒い袋に入れられて並んでいます。まるで黒い墓石のように。

 

●政府は「一時的な保管場所」と言っていますが、本当でしょうか? 2045年3月までに「福島県外で最終処分する」というのですが、汚染土を引き受けてくれる都道府県はあるでしょうか?

 

 

▼政府や東京電力は、その場しのぎの対策しかしてこなかったように見えます。先月6日に震度6強の地震がありました。第一原発で気になったことが2つありました。しかし、大きくは報道されませんでした。

 

 <1> メルトダウンしている1号機の冷却水の水位が1メートル下がった。

 <2> 3号機の地震計が故障していて、震度が計測できなかった。

 

 もう少し強い地震だったら、<1>はたいへんなことになったかも知れません。

 故障を知りながら地震計の修理をしていなかった<2>の事実には、呆れてしまいます。これが、東京電力の実態なのです。

 

▼次のようなことが、予定されています。

 

 ① オリンピックの聖火リレーが、第一原発に近いサッカー施設・Jヴィレッジからスタートする。

 ② 第一原発の近くに「国際教育研究拠点」を整備する。

 

 残念ながら、日本の政治はごまかしに長けた人たちによって行われています。日本人は案外騙されやすいので(原発の安全でも、太平洋戦争でも)、「福島も復興しているんだ」と思ってしまう人たちもいるでしょう。しかし、①や②によって、福島第一原発の厳しい現状を覆い隠すことはできません。

 

▼なお福島第一原発は、東京電力原子力発電所でした。東北電力の施設ではありません。この当たり前の事実は、しかし、非常に重いものです。「日本の病」を象徴していると思います。

 

▼考えたくない歴史や見たくない現実はありますが、Web上の発言のように削除することはできません。日本は、2発の原子爆弾の被害と原子力発電所の重大事故の被害の両方を受けた国となりました。

 

▼あまりにいろいろなことが続くものですから、私たちも鈍感になっているかも知れませんが、今の日本の政治の腐敗はかなりのものです。「誠実」や「真実」や「希望」という言葉は、政治と最もかけ離れたものとなってしまいました。

 

▼そして、今後も巨大地震や巨大津波は起こるでしょう。「気候危機」(「変動」という語はごまかしの一つです)の進行によって、猛烈な台風や高潮が列島を襲うかも知れません。それでも政府は、「脱炭素」、「カーボン・ニュートラル」などと語りながら、原子力発電に頼ろうとしているのです。

 

 

 

 

★初期ルネサンスの輝きと混沌【ペトラルカの多面性】

 

◆初期イタリア・ルネサンスの3人の文学者ダンテ、ボッカチオ、ペトラルカを並べた時、高校生や予備校生が一番覚えづらいのはペトラルカのようです。教える側に、ペトラルカについて説明する余裕がないからだと思います。

 

◆また、本来は、ダンテとジョット(画家ジョットはもう少し重視すべきです)、ボッカチオとペトラルカという提示の仕方のほうがいいと思います。時代が少し違うからです。

 

 ●ダンテとジョットは13世紀半ば過ぎの生まれで、14世紀初めまで活躍しました。

    ダンテ    1265~1321

    ジョット   1266~1337

 

 ●ボッカチオとペトラルカは、ダンテとジョットの次の世代です。ダンテが『神曲』を書き始めた頃、ペトラルカが生まれています。ボッカチオはペトラルカの10年ぐらい後に生まれました。2人が生きたのは、まさにペストの時代でした(『デカメロン』の冒頭部分の記述が有名ですが、ボッカチオだけをペストと結びつけるのは、適切ではありません)。二人はダンテについて語り合うなど、交流もありました。

    ペトラルカ  1304~1374

    ボッカチオ  1313~1375

   [ペスト流行のピーク 1348年]

 

◆高校世界史では詳しくは触れられないペトラルカですが、その詩は近世のフランス詩やイギリス詩に大きな影響を与えました。ペトラルカの人生と詩想(思想)をたどりながら、初期ルネサンスの輝きと混沌を考えてみます。

 

 

★ペトラルカは、トスカナ地方のアレッツォという町で生まれました。父親が政争に敗れてフィレンツェから脱出したためです。父親は商人でしたが、ダンテと同じく、ゲルフ(教皇党)の中の白派に属していたのでした(対抗していた黒派はボニファティウス8世派でした)。ペトラルカは、父親を通じてダンテとつながっていたことになります。

 

★さらに興味深いのは、一家がピサに移り(ここで7歳のペトラルカはダンテに出会ったと言われています)、さらに南フランスのプロヴァンス地方に移住したことです。

 ダンテやペトラルカ、ボッカチオを考える時、1309年、フランス王フィリップ4世によって教皇庁が南フランスのアヴィニョンに移されていたことは重要です。ペトラルカの父親は、アヴィニョン教皇庁で職を得るため、一家で移住したのでした。息子たちにも教皇庁に出仕させたかったようです。

 なお、南フランスは、中世後期トゥルバドゥール(吟遊詩人)たちが活躍したところでもありました。

 

★ペトラルカは成長して、南フランスのモンペリエ大学で、やがてイタリアのボローニャ大学で法学を学びましたが、文学への思いの方が強かったようです。ボローニャ大学時代(16歳~22歳)に、トゥルバドゥールの流れを汲み、ダンテで頂点に達した清新体派の影響を強く受けたと思われます。やがて、この影響は、『カンツォニーレ(叙情詩集)』に結実します。

 

★22歳の時、父親が亡くなり、アヴィニョンに戻りました。そして、翌年(1327年)、決定的な出会いがありました。アヴィニョンの聖クララ(キアーラ)教会で、ラウラという女性に出会ったのでした。ラウラについて詳しいことはわかっていませんが、ラウラは、ダンテにとってのベアトリーチェと同じく、ペトラルカにとっての「永遠の女性」となりました。

 

★「永遠の女性」ラウラは、ペトラルカのトスカナ語の詩集『カンツォニーレ』に歌われました。

 

  貴婦人たちのあいだにあって折にふれ

  美しき顔容(かんばせ)の彼女のもとに愛神の宿れば、

  美しき彼女に優る人はひとりとてなく

  いや増して、わが愛の思いはつのりゆく。

   【河島英昭 訳】

 

★1348年(ペストが猛威をふるった年です)、ペトラルカはイタリアのパルマで、ラウラの訃報に接しました。ラウラは、ペストで亡くなりました。ペトラルカもボッカチオも、その後も間欠的にヨーロッパを襲ったペストで亡くなったと考えられています。

 

★ペトラルカがラウラと出会ったという、アヴィニョンの聖クララ(キアーラ)教会ですが、聖クララはアッシジの聖フランチェスコのもとで清貧と苦行に耐えた修道女でした。ラウラ~聖クララ~聖フランチェスコというつながりの中に、ペトラルカの信仰心を見ることができます(それは敬愛するアウグスティヌスにまでつながっていました)。ペトラルカは、教皇庁と関わりながらもアヴィニョンの堕落を嘆いていましたが、アヴィニョンには聖フランチェスコの精神も伝わっていたのでした。

 

アヴィニョン教皇庁は、カトリックの正統な歴史からすると、あってはならなかった逸脱ですが、イタリアとフランス~フランドル地方を結んだ国際性は、近年再評価されています。アヴィニョンには、イタリアのシエナから画家シモーネ・マルティーニ(ウフィーツィ美術館所蔵の「受胎告知」がよく知られています)が招かれました。アヴィニョンで、ペトラルカとシモーネ・マルティーニは互いに尊敬しあい、ペトラルカはシモーネに、ラウラの肖像画ウェルギリウスの写本の扉絵を依頼しています。

 

★ペトラルカは、フランドル地方リエージュ修道院キケロの写本を発見するなど、教養の土台には古代ローマのラテン文学がありました。ラテン語世界の異教的価値観とキリスト教の禁欲的な価値観のぶつかり合いが、ペトラルカの中にはありました。(それはやがて、晩年のボッティチェリを苦しめることにもなりました。)二つの価値観の相克を考えながら『カンツォニーレ』の詩編を読むと、複雑な気持ちになります。

 

★なおペトラルカは、アヴィニョンやイタリア各都市だけでなく、西ヨーロッパ各地を転々としています。居住した各地で、ペトラルカは庭を作ったと言われていますが、このことについては、「植物から見る歴史・その2」で触れたいと思います。

 

【参考文献】

・『ボッカッチョ、ペトラルカ、ミケランジェロ』(河島英昭訳、世界文学全集4、講談社、1989)

樺山紘一ルネサンスと地中海』(世界の歴史16、中央公論社、1996)

・水野千依『「アヴィニョン捕囚」とアヴィニョン派』(西洋美術の歴史4[中央公論新社、2016]所収)

 

最近、『ペトラルカ恋愛詩選』が出版されました(水声社)。まだ手に取ってはいませんが、シェイクスピア学者岩崎宗治の新訳です。解説も充実しているようです。

 

 

★女性参政権から100年後黒人女性副大統領が誕生した、「青鞜」から110年後森喜朗発言があった

◆今回は、資料を2つ載せて、歴史を考えたいと思います。

 

【★1】1920年アメリカ合衆国では、女性参政権が実現しました。その100年後の記念すべき年(2020年)に、インド・カリブ系女性のカマラ・ハリスが副大統領に選出されました。

 

<カマラ・ハリスの勝利演説より>

 

 米国の民主主義は保障されたものではなく、その強さは、そのために闘う我々の意志にかかっているということだ。守らねばならず、決して当たり前だと思ってはいけない。……

 私が今日ここにいるのは、…母のおかげだ。彼女が19歳でインドから米国に来た時は、この瞬間を想像できなかったと思う。それでも、こうした瞬間が可能である米国を、彼女は深く信じていた、私は、母のこと、そして、何世代もの女性たち、黒人女性たち、アジア人、白人、中南米系、米国先住民の女性たち、我が国の歴史を通じて、この瞬間に向かう道を開いた女性たちのことを考えている。……

 皆の平等と自由と正義のために大いに闘い、犠牲を払った女性たち。往々にして無視されながらも、自分たちこそ民主主義の屋台骨であることを幾度も証明してきた黒人女性たち。1世紀以上も前から、投票の権利を獲得し守るため取り組んできたすべての女性たち。……

 これから始まるのだ。本当の仕事、大変な仕事、やらねばならぬ仕事、よい仕事、欠かせない仕事が。命を救い疫病を抑え込み、働く人々のために経済を立て直し、司法制度や社会の組織的な人種差別を根絶し、気候危機と闘い、国をまとめ、国の魂を癒すために。……

 【和田浩明訳、毎日新聞2020年11月10日付】

 

◆ハリスのすばらしい演説をあらためて読んでみると、森喜朗(オリンピック・パラリンピック組織委員会会長)の発言がいかにくだらないものであったか、いかにみすぼらしいものであったか、よくわかります。

 

【★2】奇しくも、今年(2021年)は、「青鞜」創刊(1911年・明治44年)から110周年に当たっています。平塚らいてうの創刊の辞から110年経ってもなお、森喜朗発言があったのでした。

 

平塚らいてうの「青鞜」創刊の辞より>

 

 元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。……私どもは、隠されてしまった我が太陽を今や取戻さねばならぬ。……しからば私の希う真の自由解放とは何だろう、いうまでもなく潜める天才を、偉大なる潜在能力を十二分に発揮させることにほかならぬ。

 【『平塚らいてう評論集』(岩波文庫)】

 

※現在の日本の問題は、ジェンダー・バイアスだけではありません。腐敗した政界は、『「真正の人」など不要』という雰囲気に満ち満ちています。

※なお、与謝野晶子の歌集『みだれ髪』の出版は、120年前(1901年・明治34年)のことでした。

 

 

 

【ジェンダー・日本社会・スポーツ】▼困惑しながら10人は思った…[森喜朗発言➡橋本聖子]

 

◆Aさん(男性)

 「マスコミが騒ぎ過ぎだよ。去年、うちの町内会の会長も言ってた。役員に女が増えて、役員会が長くなったって。ま、町内会レベルの意識がずっと政界のトップのほうまでつながってるってことかな。しょうがないよ、それが日本だもの。」

 

◆Bさん(女性)

 「マスコミが騒いでくれてよかった。マスコミが取り上げなかったら、日本社会がかかえている問題が浮き彫りにならなかったと思うの。今回は、ジェンダーのこと、考えさせられた。私自身も子育ての時、女の子らしくとか男の子なんだからなんて言ってきたので、反省してます。橋本聖子さんのことはよくわからないけど、日本にもニュージーランドの首相のような方が出てくれないかしら。」

 

◆Cさん(男性)

 「森は、日本男児の風上にもおけない奴だ。ほんとうの日本男児は、あんな差別発言はしない。記者会見でも、いつまでもぐだぐだ言ってたしな。これっぽっちも潔さがない。女々しいぞ、森。菅も二階も含めて、今の日本の政治家に、志士はいないな。金や権力を手にしたい奴らばっかり。志が低いから、ああいうことを言うんだ。ジェンダーとかなんとかどうでもいいが、オレたちほんとの保守派はな、大和なでしこが言うことを尊重してるよ。」

 

◆Dさん(女性)

 「オリンピックにあんまり関心ないからさ、知らなかった、森っていう人がまだやってたなんて。ああいう男とは闘わないとダメ。ああいう男はどこにでもいるからね。50年前もひどかったのよ。全共闘の連中はまだよかったけど、新左翼セクトなんてひどかったらしいわ。革命叫んで、内ゲバやって、男尊女卑じゃ、話になんないでしょ。だから、そのあと、ウーマン・リブが起きたの。今の人に言ってもわかんないだろうけど、これも大事な歴史なのよ。なかなか変わんないけどね。だからさ、こんな年になっても、まだ闘ってるの。橋本聖子? 選手の頃は輝きがあったけど、今は政治家の顔になってきちゃった。小池も丸川も、顔つきがね。」

 

◆Eさん(男性)

 「森喜朗という人は、旧い日本社会の代表みたいなものでした。結局、森に可愛がられてきた橋本聖子が跡を継いで、旧い日本社会は続いていくんでしょうね。頑張ってもらうしか、しかたがないのですけれど、なんかダークな感じ。みんな遠慮して言わないようですが、橋本のセクハラ・パワハラのほうが、森の発言より悪質だったと思います。あの時、ほんとうは政界・スポーツ界を去るべきだったでしょう、橋本聖子は。」

 

◆Fさん(女性)

 「橋本聖子さんはしっかりやってくれると思う。過去のこといろいろ言っても始まらないし。完璧な人っていないんだから。大切なのは、今でしょ。みんなで盛り立てて、オリンピック・パラリンピックを成功させなくちゃなんないでしょ。あらさがしして文句ばっかり言うのはやめようよ。」

 

◆Gさん(男性)

 「輸入したワクチンの接種開始と新会長選出が重なったが、停滞と混乱という、今の日本を象徴していたと思う。コロナ対策の切り札などと言っているが、日本はワクチンを自前で開発・生産できない国になってしまったという現実……。多分ワクチン供給は遅れに遅れて、高齢者の接種さえいつ終わるかわからないだろう。そういう国が、国力を無視して、国際的なスポーツ・イベントを開こうとしている。しかも、男女格差が大きい社会のまま。復興五輪などとも言っているが、福島の原発廃炉作業は進まないままだ。児童虐待は増えているし、一人親世帯はコロナ禍で困窮している。矛盾のかたまりのようだ、今の日本は。女性の自殺者が増えている中で、能天気な森発言がなされたことを、忘れてはいけない。橋本聖子会長という弥縫策では解決できないほど、日本社会の病は重いと思う。コロナと酷暑の中でオリンピック・パラリンピックを強行開催したとしても(失敗があっても成功したと宣伝するだろう)、その後の日本は、財政的問題も含めて、矛盾が深まらざるを得ないと思う。令和という美しい元号のもとで、多分、停滞と混乱が続いていく。」

 

◆Hさん(女性)

 「一言だけ。この間友だちとも話したんだけど、森さんの発言は、すごく根深いと思う。天皇制の問題にもつながっているのよ。ああいう男たちがたくさんいて大きな顔してるから、女性天皇が実現しないんだってことが、今回わかったわ。愛子さま天皇になる可能性がでてきたら、ようやくジェンダー平等でしょ。」

 

◆Iさん(女性)

 「アスリートだった橋本さんが会長になったことは、一歩前進だと思います。でも、形だけの不透明な候補者検討委員会を作って決めるやり方は、従来の政治手法そのものでした。いま、池江さんや大坂さんが頑張っています。その姿を見ると、涙が出るくらいです。橋本さんも、選手時代の気持ちを思い出しながら、仕事を全うしてほしいと思います。世界が見ていますので。」

 

◆Jさん(女性)

 「今回の出来事を見ていて、なにか恐ろしさのようなものを感じました。スポーツの祭典が深く政治と結びついていることが、図らずも明らかになったからです。オリンピック・パラリンピックは、純粋なスポーツの祭典ではなく、もはやスポーツ政治・スポーツ経済といったものに深くからめとられているのです。スポーツ政治・スポーツ経済の利害と無縁ではないということです。ヨーロッパでは、最近スポーツ・インテグリティということが言われているようです。インテグリティは、高潔さ・健全さという意味です。インテグリティという語が必要なほど、スポーツは闇を抱えてしまったということでしょう。いくら考えても、高潔さや健全さと森喜朗という人とは結びつきませんでした。」

★仏教のふしぎ・その3<中国での変容、そして日本へ>

※「仏教のふしぎ・その2<大乗仏教密教>」のつづきです。

※「浅学菲才」という語が思い浮かびますが、私なりにまとめてみました。歴史の面白さの一端を感じ取っていただければ、と思います。

 

<仏教の中国への本格的な伝来>

 

★仏教が中国に伝わったのは、紀元前後(前漢末期か後漢の初め)と言われています。この頃伝来したのは、部派仏教でした。

 

★本格的な伝来は、4~5世紀、五胡十六国東晋から南北朝の時代になります。大乗仏教が主流となっていきます。

 

★注目すべきは、華北に侵入した遊牧民の国々が積極的に仏教を導入したことです。遊牧民の国々は、仏教の神秘的な力で国威を高めようとしたのでした。争って西域の高僧を招いたのは、高僧をシャーマンとして考えていたためだと思われます(遊牧民にはシャーマニズムがありました)。

 

★西域のクチャから仏図澄や鳩摩羅什が招かれて来ました。仏図澄は漢人の出家を認めさせ、中国仏教の基盤をつくりました。また鳩摩羅什は、『妙法蓮華経』などの漢訳で知られており、東アジアの漢字圏仏教に絶大な影響を与えました。

 

鮮卑族北魏の仏教興隆策は有名です。一時廃仏もありましたが、北魏は雲崗や竜門の石窟を後代に残しました。

 

華北の仏教は東晋にも伝わり、法顕はインドに赴きました。帰国後の法顕は『涅槃経』の一部を訳しましたが、そこで使われた訳語「仏性」は非常に重要です。法顕の少し後には、華北で曇無讖(どんむしん)が『涅槃経』を漢訳し、法顕の訳語を継承しながら「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」という訳を定着させました。この句は、日本の最澄にも多大な影響を与えることになります。

 

<仏教と儒教

 

◆仏教が伝来した時、中国にはすでに儒教道教がありました。

 

魏晋南北朝の時代、儒教の影響力はかなり衰えていましたが、儒教の側は仏教を受け入れ難い思想と考えました。次の二つの点で、大きく異なっていたからです。

 

 ① 儒教には「孝」の思想と連動した「家」の思想(祖先崇拝)がありました。しかし、仏教の場合、ガウタマ・シッダールタがそうであったように、基本的に個人の意思で出家します。仏教は、元来は個人重視でした。

 ② 『論語』にもあるように(「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」)、孔子は現実を見つめることに熱心で、死や死後の世界について論ずることは自らに禁じていました。したがって、「来世」を考える仏教とは相容れませんでした。

 

◆仏教側は、儒教と妥協しなくては中国で布教できませんので、①を受け入れます。僧になることは親や祖先の功徳にもなるのだという考えが生まれました。また、祖先崇拝、「家」の連続性を認めることで、「前世」や②の「来世」の発想につなげていきました。祖先の霊を祭る「盂蘭盆会(うらぼんえ)」(お盆)の習慣は、こうして中国仏教の中に定着し、日本にも伝来しました。

 

◆以上のような仏教側の妥協は、儒教の「修身・斉家・治国・平天下」とも結びつくことになりました。日本古代における「鎮護国家の仏教」は、ブッダの思想から考えると不思議ですが、当時の東アジアではごく普通の考え方であったと思います。

 

◆また、仏教の「縁起」の思想は、個人だけでなく「家」を含めた「因果応報」の考え方となり、広く浸透しました。

 

◆なお、仏教の中国的発展として登場したのが、禅です。もともと禅は、ブッダの悟りの体験そのものの体得を目指しているため、現世利益から独立しているだけでなく(儒教道教との融合から独立しているだけでなく)、荘厳な大乗経典からさえ独立していると言われます。

 

<仏教と道教

 

☆一方、道教には仏教を受け入れやすい面がありました。

 たとえば、

  ① 理想郷としての「桃源郷」という考え方は 、「浄土」に親近性を持っていました。

  ② 理想としての「神仙」(真人)という考え方は、「仏」に親近性を持っていました。

 

☆このため、道教側では、老子ブッダと同一視する考え方が現れました。「老子が天竺に赴き、ブッダとなって戻って来た」とまで言われたそうです。

 

儒教の場合とは違い、道教側は積極的に仏教思想を摂取しました。漢訳仏教用語を多用した、道教思想の補強は、南朝・宋の陸修静によって行われ、隋・唐に引き継がれていきます。(世界史の教科書では、北魏寇謙之が過大に扱われていると思います。)道教寺院では、道教の神仙像と仏像を一緒に祭るようになっていきます。民衆はそのことに何の違和感も持たず、現代に続いています。

 

☆病気治療の祈祷は、太平道五斗米道以来の伝統でした。病気治癒や疫病退散の祈祷などは、仏教側が道教から受け入れたものであったと思います。

 

道教は、儒教の「修身・斉家・治国・平天下」の思想も摂取しました。しかし道教は、仏教や儒教に溶け込んでしまったわけではありません。現世利益を中心としながらも、宇宙の原理としての「道」や「気」の思想は、道教の核となって残ってきました。日本にも伝わった「体の中の気の流れ」という発想などは、道教由来のものです。

 

◆こうして、中国では、儒教・仏教・道教が、融合しながら併存していきました。「三教帰一(三つの宗教の教えは根本的には一つである)」とさえ言われます。

 

 <日本への仏教伝来>

 

◆6世紀の半ば、仏教と儒教を、日本は東アジアの先進思想として受け入れました。ブッダの時代および孔子の時代から、約1,000年が経過していました。(なお、朝鮮三国[高句麗百済新羅]の仏教についても、最近は研究が進んでいるようです。)

 

◆仏教伝来と簡単に言いますが、百済聖明王が日本にもたらしたのは、「仏像と経典」でした。日本人は経典を理解しなければなりませんでしたので、仏教の受容は、漢字文化の受容と一体のものでした。どうしても渡来人の助けが必要だったのです。日本人が漢文を書けるようになるまで、100年以上を要したと思われます。漢字の音読み(中国音読み)・訓読み(和語による読み)、漢文訓読法など、漢字文化の独特の受容が続いていきました。

 

◆古代の日本の場合、三教の中では、仏教の優位性に軸足が置かれました。それを説くために、空海は『三教指帰(さんごうしいき)』を書きました。道教の日本への流入はわかりにくいのですが、それは道教思想が主として詩文(たとえば『文選』)や書画を通して伝わったためだと思います。

 

◆ただ日本の場合は、神々の存在があり、神仏習合という新たな融合が必要とされたのでした。山や岩や大木や滝を「ご神体」としてきた日本人が仏像の礼拝をどのように受け入れていったのか、興味深いところです。金色に輝く像だったため尊崇しやすかったと思われますが、それだけではないようです。もしかしたら、縄文時代土偶への祈りが、人びとの意識の古層にあったのかも知れません。

 

【参考文献】

・高崎直道・木村清孝編『東アジア仏教とは何か』(シリーズ東アジア仏教第1巻、春秋社、1995)

・石井公威『東アジア仏教史』(岩波新書、2019)

神塚淑子道教思想10講』(岩波新書、2020)

鈴木大拙『禅』(工藤澄子訳、ちくま文庫、1987[原著は1965年])