世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

▼思慮の足りない「切り花のたとえ」【「折々のことば」2022/8/23 】

 

▼今日は、外山義という方のことばが紹介されていました。高齢者施設に関する著書の一節だったようです。

 「サービスが提供されても……与えあう関係をふたたび手に入れることができなければ、その人は、花瓶に生けられた切り花である。」

 

▼小さな庭で咲いているバラの花を切って、玄関やリビングに置いている者としては、とても残念なことばでした。なぜ、切り花には価値がないのでしょうか?

 

▼野に咲く花も、庭で咲く花も、花瓶に生けられた花も、本質的には何も変わらないと思います。人間は、花と暮らしてきました。野でも、庭でも、室内でも、花を愛でてきたのです。私は一輪挿しに飾っているだけですが、花と暮らすという気持ちがなければ、花のいのちを大切にする気持ちがなければ、切り花にはしないでしょう。

 

▼切り花を否定的に考えてしまうと、日本の生け花をまったく理解できなくなります。「華の道」と言うくらいですから、そこには深い哲学があります。ある華道家池坊の方でした)は語っていました。「植物に感謝しながら、植物のいのちを慈しみながら、活ける」と。

 

▼「花の哲学、植物の哲学」は、とても重要です。そのことは、もちろん、鷲田清一なら十分にわかっていると思っていたのですが……。

 

▼思慮の足りない、ことばの選び方でした。