世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

☆鷲田清一「折々のことば」への戸惑い

 

朝日新聞の朝刊を手に取ると、自然に鷲田清一の「折々のことば」に目が向いてしまいます。ハッとさせられることばにも、たくさん出会いました。

 

★ただ、戸惑いもあります。その理由を、大きく3点述べてみます。

 

 

<短いことば・短い論評>

 

 さまざまの著作や発言の中から短いことばを取り出し、鋭い論評を加える鷲田の力量はすごいと思います。短いことばと短い論評ですので、ツイッターなどの普及という時代にもちょうどマッチしたのでしょう。ただ、字数が限られていますのでやむを得ないのでしょうが、論評がややレトリカル過ぎると感じることもあります。また、非常に鋭い論評の場合(最近多くなってきました)、読む者の思考はそこでストップしてしまいます。鋭く断定するよりも、読者を新たな思考にいざなう方がベターではないかと思います。

 

<多様性の海・相対性の海

 

 さまざまな分野のさまざまな考え方が、「こんな見方もありますよ」と日々紹介されています。読者はまるで「多様性の海」を案内されているかのようです。確かに、「多様性の海」が、この世界のすがたなのだとは思います。短いことばと短い論評の集積で、鷲田は世界の多様性とその受けとめ方を伝え続けているのでしょう。しかし、鷲田の「多様性の海」は、「相対性の海」(あらゆる言説や価値が相対的である世界)へとつながっているように見えます。

 読者は時には相反した見方に出会います。ある時には精神的なゆとりが推奨されたかと思うと、別な時にはゆとりを追い詰めるようなことばに出会ったりします。私たちのほとんどは、相反した見方にもそれぞれ肯いてしまうことでしょう。多分、何十日か前の異なる見方のことは忘れてしまいますし、すべてのことばと論評に説得力がありますので。私たちは、「折々のことば」を読んで日々「なるほど」と思いながら、実は「相対性の海」を漂流しているのかも知れません。

 

臨床哲学

 

 かつて鷲田は「臨床哲学」を提唱していました。「折々のことば」を読んでいると、「臨床哲学」とは「相対性の海」を渡っていくための方策のことだったのか、と思ったりします。この海を渡っていく「臨床哲学」という舟に、多分、目的地はありません。「臨床哲学」とは、根本的な何か(古代ギリシアの哲学者たちがアルケーと呼んだような根源、原理、あえて言えば「真理」)の探究の断念にほかならないからです。

 読者も、哲学というよりは、生きるヒントを広大な「相対性の海」に求めているように思えます。日めくりの名言カレンダーを見るように。これが、「臨床哲学」の現在のすがたなのでしょう。

 

 

★「相対性の海」の漂流が人を鍛えることもあるでしょう。でも、この海では、「相対性」に耐えきれず自分を見失うこともあります。「絶対的なもの」を対置しようというわけではありません。「相対性の海」を受けとめるだけでなく、もっと別の「豊かな海」に出会う方法を探さねばならないと思います。多様性の混沌が創造的なエネルギーとなって、その中から「協働的な普遍性が生まれてくる海」です。さまざまな偏光や抑圧で見えにくくなっていますが、そのような小さな海は、世界のいたるところで現れたり干上がったり、また生じたりしているのだと思います。

 

★日々無数の「ことば」が消費されています。明日もまた、私は「折々のことば」を読むでしょう。でも、たくさんの「ことば」に触れなくても、鋭い論評を読まなくても、「豊かな海」に出会っている人びとは、多分たくさんいるのです。そのことを忘れないようにしたいと思っています。