世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

▼「朝日」の「五日市憲法草案」礼賛に感じたもどかしさ

 

◆先月ですが、朝日新聞の『「五日市憲法草案」に見えた希望』(2025/5/6)という記事(執筆は編集委員高橋純子)には、もどかしさを感じざるを得ませんでした。読者に「五日市憲法草案」(1881)の存在を知らせるという役割は果たしていたと思いますが、その評価のしかたが1960年代末~1970年代とまったく変わらなかったからです。

 

◆高橋が4日後に「多事奏論」で五日市の豪農層の活動を補足していたのはよかったのですが、もどかしさは消えませんでした。「五日市憲法草案」の人権規定はすばらしいものです。しかし、「五日市憲法草案」の全体や「草案」を生み出した人びとの意識や活動について、半世紀前とは異なる多角的・総合的な検討が必要ではないでしょうか。それが、現在のメディアの役割だと思います。

 

◆まず草案の名称です。色川大吉が名づけた「五日市憲法草案」が一般化してきましたが、もともとは「日本帝国憲法」という名称でした。植木枝盛憲法草案のような「大日本国」という名称ではありません。「日本帝国」です。明治政府の政治家たちだけでなく、豪農層レベルにまで「帝国意識」が浸透していたことを示すものでしょう。

 

◆次に、天皇の位置づけです(草案では「国帝」という語が使われていました)。第一篇の冒頭には

 

 「日本帝国ノ帝位ハ神武帝ノ正統タル今上帝」

 「国帝ノ身体ハ神聖ニシテ侵ス可ラズ」

 

と書かれていました。「帝国意識」と連動した「皇国意識」もまた、豪農層レベルまで浸透していたのです。幕末から豪農層を中心に平田篤胤国学復古神道)が広まっていました。それこそが「土着の歴史」だったのです。そのような視座は、高橋純子にはありませんでした。

 

◆また、『「国帝」は、立法・行政・司法の三権を統括し、海陸軍を「総督」する』という規程もありました。「朝日」の記事ではまったく触れられていませんでしたが、「五日市憲法草案」も、「大日本帝国憲法」同様、強力な天皇制国家を前提としていました。

 

◆さらに言えば、男子の普通選挙権は考えられていません(女性の参政権はもちろんですが)。「大日本帝国憲法」と同様、男子の制限選挙がうたわれていました。

 

◆以上から考えると、「日本帝国憲法」が制定されたと想定しても、現実の政治では、「大日本帝国憲法」と同じく、人権規定が空文化する可能性が濃厚だったと思います[*]。

 

◆高橋が補足的な記事で述べていたように、深澤権八や千葉卓三郎を中心とする「五日市学芸講談会」の活動は重要だったと思います。ただ、彼らの政治意識を、先に述べたような「帝国意識」・「皇国意識」を含め、多角的に検証する必要があります。五日市の豪農層や教員層の考えた「民権」は、多分、現在の私たちが考える「民権」よりも限定されたものだったのです。「豪農民権」という語もあることを、思い出しておかねばならないでしょう。

 

◆たとえば、彼らは次のような出来事や論文にどういう姿勢や行動をとったのでしょうか?

  ・1870年代から明らかになっていた足尾銅山鉱毒問題

  ・1883年から1885年にかけて、五日市のすぐ北で起きた秩父事件

  ・1885年に発表された、福沢諭吉の「脱亜論」

 

◆歴史は多角的・総合的に考えなければなりません。半世紀前の学者やメディアと同じく、「五日市憲法草案」を礼賛し「日本国憲法」と結びつけるだけでは、あまりに進歩がないと思います。

 

[*]この点については、今日(2025/6/22)の「朝日新聞」の記事「日曜に想う」(田中正造と「大日本帝国憲法」について書かれていました)が示唆的です。